それが幸せ

 雨が降っていた。清澄に注ぐ癖に、落ちた先の膚の表面でぬかるむような雨だった。取るに足りない体の熱で温められて簡単に脂になってしまうからで、鬱屈した豪雨の真昼、あんなに余所余所しく冷めた鉛色が寄越す割には、冷気のかけらも抱いてはいなかった。やっつけ仕事のアスファルトはそこかしこが盛り上がり、落ち窪み、新しい部分と古傷とが喧嘩して、一日のうち誰か一人でもここを通る者の足を挫いてやらねば気が済まないようだった。今は底意地の悪い谷のすべてが水没し、有機的な曲線を描くいくつもの水溜まりをこしらえていた。この水溜まりは雨上がりになら美しいものを映しもするが、雨はそれを許さずに鏡面を目の荒いやすりで荒らしていた。男はひび割れた革外套の前を合わせて握りこみ、ほとんどうずくまるように体を丸めて足早に歩みを進めている。砂埃で淡くなった鳥打帽は濡れたそばから染め直されて焦茶に変わり、下の白髪頭は一層色を欠き、安っぽく見えた。
 歩みを進めれば地表で乱れ飛ぶ細かな水の粒子に煙った道の両端に、憂鬱をこねて固めた建物の影がたち現れてくる。商店にあつらえられたショーウィンドーそれぞれの花形は媚びを売るのに疲れはて、客の望めないこんな天気を好機とばかりに価値も輝きも投げ捨て寝こけているところだ。男はこうした罷業中の労働者に二三度目をくれて、興味を引かれる物があると暗澹たる思いで視線を剥がした。値札を見るまでもなく、彼の給料では桁が足りなかったのだ。
 身につけたものを残らず駄目にして、彼は家に帰りついた。それは振動の一押しでもあれば今にも崩れ落ちてしまいそうなアパートの五階の部屋で、この階には彼以外に住人が居なかった。水没した靴は隅のほうに揃えて置き、玄関からすぐ風呂場に入ると、たっぷり水を吸った服を厳格な順序で外し、ハンガーにかけてシャワーカーテンのレールに吊るした。蒸れた下着も脱いでしまって、洗濯かごに放り込む。棚の上からあまりじめじめしていないタオルを選び出すと、体に残った水気を残らず丁寧に拭き取って、それもまた洗濯かごに入れた。裸のまま底冷えする室内を横切ってクローゼットをごそごそやれば、しわだらけだが清潔な衣服が一揃い、腕の中にまとめられた。どれも日に褪せた曖昧な色味をしていて、あばらの浮いた生白い胸をより病んでいるように見せるのだった。服を替えてしまえばすっかり具合が良くなった。かびくさい寝台の上に寝転ぶと、スプリングが不穏な音で鳴き、ざらざらしたシーツは密かに熱を渡そうとしているかに思われた。配給品の横流しをする頬のこけた老婆と、彼女を天の使いのごとく崇拝し毎朝感謝の祈りを欠かさぬ母親、乳飲み子は慈しまれて両者の庇護の元にあり……男は胎の中の子を真似て縮こまった。逆子で産まれたという自分の親不孝が、こんな所まで続いているのがやるせなくなりだした。耳道に忍び込む音だけの雨が、もの思いを煙らせている。
「なかったことにしたい」
 彼は今でも軽率な問いを悔いていた。同時に、正しいことをした、という感じもあった。うだるような暑気のなか、手足を伸ばして寝ていた頃のことが心臓の真裏を引っ掻いて、庭で茂るむせかえるような緑の匂いと、そこに混じるかすかな煙草の香りとを思い出させようとした。男が寝返りをうつと、置き去りにされた夢は遥か彼方で塵になった。男にとってそれはもうずっと昔の話で、実際はたった数年前の話だった。偽物でもなかったが本物でもなかった生活の記憶は、この家の浮いた壁紙の隙間から這い出してきては夜のうちに彼の意識へ忍び込み、こうした夢をたくさん生み出した。男は薄目を開いた。窓枠が切り取った真っ白な外の景色に現実感はなく、描くことを放棄された絵はその主題に白ばかり塗り重ね、なんのディテールも描き込まれてはいなかった。
「ためらうとし損じる。それがどれだけ残酷か、お前、分かるか……」
 無意味な感傷に兄の声が重なった。この人殺しの兄は一度だけ、スコープ越しの相手を憐れんだことがあったという。それは女で、母でもあった。彼女の命は我が子の涙に濡れて絶え、引き金は二度引かれた。それだけだったが、戦とも殺しとも無縁の弟に聞かせる声は語り部の密やかな情熱に満ちていた。あれは彼の後悔であり未練で、学ぶべき教訓だった。男は幸いにもこの苦汁の味を知らぬまま事を終えたが、そもそもが足を踏み外した結果ともいえた。もう少し気をつけて歩け、とは兄も言わなかったし、この新しい教訓は何の役にも立たなそうだった。
 男はまた背を丸めた。今度は死んだジガバチのやり方で。寒さには慣れ、寂しさには慣れたが眩しさはいつまでも経っても彼に冷淡で、それはこの土地の眩しさが浮気を咎めて許さないからだと、一度南で暮らしていた男はそう説明をつけていた。雨音が聞こえなくなっている。耳も雨に慣れた。あの日も雨だった。ただ、あの土地の雨は気まぐれな大粒のスコールで、賑やかにひっくり返したバケツの水で、流れた後に何ら不快な印象を残さなかった。ジルナクは短い会話の後、ガレージに行って金づちを探した。その前の前の日、屋根を直すのに使った。おかげで豪雨が漏ってくることもなかった。目的のものは植木鉢の隣に立てかけてあった。それを握り締め、話し相手だった人間に向かって振り下ろすと、頭の形が変わるまで殴り続けた。飛び散った温かい血は、ニレで降る雨のように膚の上でぬかるんだ。
「なあ、あの夜を今からどうこうできるとしたらさ……どうしたい?」
「なかったことにしたい」
「即答だな」
「あいつが事を起こす前に止めるか、でなかったら別の店を予約する」
「ヨスタト……」
「お前はどうする?」
「あんたはさ、やっぱりそれが一番幸せだったんだな」
「ああ」
「分かるよ」