俺たちはニレに帰ってきた。とはいえサンナはがやがやしすぎていたために、もう少し西のほうを住みかに選んだ。俺の貯金は尽きかけだったが、うまいこと仕事の口は見つかった。前の場所で手に職をつけておいて良かった、俺はまた自動車修理工として手に油・額に汗して働いていて、少なくともその日食べるものと灯油代には困らない暮らしができている。
連れ合いはというと、輸入ものの缶詰の仕分け……のようなこと……をして食いぶちを稼いでいる。あいつにはもっと能力を活かせるいい仕事があると思うが、謙虚な男は首を横に振り、これでいい、とだけ言っているから、俺もとやかくは言わない。何にせよ二人で狭いアパートに収まって、日々あれこれと楽しみを見つけては分かち合う生活は、まったく、悪くなかった。今日も少しだけ早く仕事が引けた(もちろん外は真っ暗だ)俺は、朝の残りのスープを温めながら同居人の帰りを待っている。
疲れた顔を出迎えてすぐ、俺は頬にお熱い口づけをひとつ受け取った。まだドアが閉まりきっていないのにこんな真似をする相手の軽率さにいらだちはしたが、俺はあまり咎めずにおいてやった。愛情表現がこうも素直だと、つい甘やかしたくなる。それはお互い様で、俺も料理をしている彼の後ろからしばしばちょっかいをかけて迷惑がられているが、いまだにちゃんと怒られたことはない。
ロマンチックな恋人はマフラーを外し、重いばかりで暖かさはいまいちなコートと一緒にベッドの上へ放り投げた。それから俺の手をとり、軽やかにステップを踏む。急に手を引かれた俺のよろけた足音も混じり、薄い床は靴の底と喧嘩してがたがたやかましく鳴った。下から苦情が来るかもしれない。抱きとめられた腕の中で少し叱る。
「おい、夜なんだぞ。うるさくするなよ……」
「構うもんか、俺は機嫌がいいんだ」
「あのな……」と、俺はこめかみに(皮膚がむき出しになっている方のこめかみに)押し付けられる温かく濡れた感触に思わず笑いだした。「ふざけんな、俺が真面目に話してるのに」
「真面目なお前もかわいいよ、ジル」
くそったれ、こいつには敵わない。俺は返事の代わりに、彼の栗色の髪をすくようにして頭を撫でた。優しく向けられる瞳は虫を閉じ込めて固まった樹液の色だ。ユーリクとは大学を辞めてしばらくしてから出会った。ヨスタトが消えてから無性に故郷が懐かしくなっていた俺にとって、彼の口ずさむ完璧なニルカ語のアクセント(サンナ出身だ)はどんな音楽より耳に心地よかったし、これからニレに帰るところだというから迷わず連れていって欲しいと頼み込んだ。旅ゆくにつれ分かったが、俺たちは色々と具合が良かった。飯の好み・合ってる、興味の対象・まずまず似てる、寝起きのタイミング・同じ。それから、俺は笑顔のかわいい垂れ目が好きで、向こうは傷ものが好きだった。ニレへ戻ってきてからはずっと、二人で暮らしている。
ユーリクは俺の腰に腕を回したまま、ゆっくりと左右に揺れ動いた。階下の住人に怒られない穏やかなダンス、伴奏はこいつの頭の中で流れてる曲。俺は素直に付き合ってやった。こういう事をするときのユーリクはだいたい疲れていて、気を紛らわせたいのだと分かっているからだ。無害な気晴らしは俺にとっても楽しい。
「ジルナク、金が貯まったらまたイズカイアに行かないか」
「バカいえ。あんな暑いところ、もうごめんだな……むしろ北がいい、犬橇を借りてさ、そんでアザラシを食う」
「お前、冴えてんな。俺もそっちがいい。最後のアザラシはオーロラを見ながらにしようぜ」
「じゃあまずコートを新しくして、手袋と帽子も買わなきゃな……」
回された腕に心地よく力がかけられる。俺は彼の肩に頭を預け、伝わってくる温もりを味わった。それからまた、この温もりがヨスタトのものだったら、と考えた。
ユーリクを愛していないわけじゃない。ただ、こいつと何をしても、どこにいても、いつだって「ヨスタトなら」と比べている。こうして常に裏切りを続けている自分が嫌で仕方ないが、どんなに望んでもヨスタトは頭の中から消えてくれない。今になってみれば、俺のこういうところが彼を苦しめていたのかもしれない。ヨスタトは俺の全てで、それが今でも変わらなかった。ユーリクはいとおしげに頬を寄せてきて、なにか甘い言葉を二つ三つ囁いている。感じる幸福は本物だ。しかし間違いなく、自分を抱いているのがユーリクでなくヨスタトだったら、俺はもっと幸せだった。