スヌート・ジェン・ユーリクの一日は近頃寝起きの悪くなった恋人を揺り起こすところから始まる。ニレの朝は一年の大半で寒く、温まった毛布の下は天国で、ユーリクにとってはジルナクをそこから追い出すのは悪魔のするより残酷な所業に思えた。のろのろと這い出した寝ぼけ眼の若者は、温度差に身を震わせながら氷のような床に足を下ろし、痩せたくるぶしを並べたまま、しばらくじっといていた。流れることをやめた空気が階下の憂鬱を凍らせて運んでくる。昨日遺体を運び出したばかりだ、咳き込む音を毎晩聞いていたが、二人とも彼の名前すら知らなかった。
ユーリクは塩気も具も足りない、しかし温かくはあるスープを空っぽの胃に流し入れた。ジルナクは文句のひとつも言わずに同じものをすすり、健康志向でいいさ、と朗らかに声をたてた。このアパートの誰しもがそうであるように、この部屋の住人も貧しかった。餓えを埋め合わせるためによく笑い、色褪せた床板をささやかな幸福のステップで何度も塗り替えていた。先に出たのはジルナクで、官庁街から出てきた黒塗りの艶々した車の"靴磨き"をするのが彼の仕事だった。ユーリクはジルナクが時折背中に痣を作って帰ってくるのを知っていて、それが意地の悪い役人連中が底の厚い靴のかかとで彼を小突くからだということもはっきり分かっていた。だが馘首になれば同程度の食いぶちが容易に見つかるとも思われなかったので、ジルナクが決してその事を口にしないように、ユーリクもそれをとりたてて言うことはなかった。
やや遅れて家を出た男の向かう先はというと、工業地区に寄り集まった工場のひとつで、環境も健康もなく好き放題吐き出される煤煙のせいで薄暗い一画に、背を丸めた男たちが吸い込まれていく流れに背の高い栗毛が混じった。皆上着の下に作業着を着込んで来る。そして各自のロッカーに荷物と疲労感を押し入れ、残った連帯感を頬に宿して人懐こい笑みを浮かべて作業場に散らばっていくのだった。ユーリクは厚手の手袋と前掛けを抱えて歩きながら、死体袋の事を考えた。
黙々と作業をこなしていると、午後二時を少し回った頃に、さっき休憩に入ったばかりの同僚のアーリモの姿が見えた。手を振って何か叫びかけているが、高低入り乱れた雑音の海のなか、それはあっけなく木っ端微塵に粉砕された。ユーリクは溶接面を外して作業台の隅に置き、、バーナーを所定の位置にしっかりと固定した。それから手袋を脱ぐとさっき外した装備の隣へ畳んで添えた。一歩近づくたびにアーリモの声は形を成していき、真正面に立つ頃には何を伝えに貴重な休憩時間を削ってくれたのか、はっきり了解できるまでになった。
「あんたに客が来てる。なんの知り合いだ? いいスーツを着てたぜ」
太っちょのアーリモは汗臭かったが、それはユーリクも同じだった。耳の裏から汗が流れ、首に巻いたタオルに染みた。来客の名前はまったく聞き覚えのないものだったが、伝令の次の一言で無視できないものになった。
「ありゃ堅気じゃねえよ。義足だぞ、身なりはいいのにボロくさいやつを着けてんのは、きっとあれが何か仕込みのあるもんか、そうでなかったら初めての殺しの記念碑かだ」
事務所へ向かう間、ユーリクのみぞおちには形容しがたいどろどろしたものがわだかまっていた。知らず知らずのうちに足並みは急き、ほとんど小走りになるようにして扉の前に辿り着くと、乱れた前髪を申し訳程度に整えて、ノブを握った。
つぎだらけの革張りの椅子に腰かけるその男が、予期していた通り──間違いなくヨスタト・ツァーレクその人だと、ユーリクは一目で確信した。甘く優しげで整った顔立ちはジルナクから聞いていた通りだった。仕立てのいい服を纏った男は目当ての人間がやってきたのを見てとり、立ち上がって礼をした。その所作は品よく淀みなく、アーリモを脅かした不恰好な作り物の足はそれを妨げなかったばかりか、出し惜しみに薄くされた板の上で、少しも耳障りな音を立てなかった。男はユーリクに右手を差し出すと、見え透いた嘘の名を告げた。作業着の男はこの挨拶をどちらも受け取らず、かしこまることもしなかった。
「何しに来た、
明らかに棘を含んだ問いかけだった。ヨスタトと呼ばれた男は少しもたじろがなかった。口許に完璧な微笑をたたえたまま、握られなかった右手をポケットにしまい、静かな口調で返答した。
「近くに用事があって寄っただけだ。ジルナクは君と暮らしているんだろ? どうしているか気になってな」
「気になっただと? よく言えたもんだな、ジルを捨てた癖に」
ユーリクの褐色の瞳が燃えた。ヨスタトは冷えた灰色の瞳で、それをこともなげに受け止めてみせた。鋼の色だ、とユーリクは思った。自分の中で燻る怒りはこれを融かすには弱すぎる、とも思った。目を落とした先の革靴は輝くばかりに艶のある上等な代物で、染みだらけのズック靴がその光に萎縮して地虫のように這いずり逃げ出す想像が、貧しい男の脳裏をよぎった。
「“ジル”」ヨスタトはその響きを味わうように、声をひそめて呟いた。「そんな顔するな。俺だってあいつを忘れたわけじゃない、心配くらいしたさ……だから来たんだ。大学を辞めたと知った時は驚いた」
「あいつはニレに戻りたがってた。イズカイアでの暮らしはどうでもよくなったんだよ、あんたが居なくなったからな。このクソ野郎、どうして今更現れたりするんだ。あいつはやっと忘れたんだぞ。あんたを忘れたんだ。だから黙って消えてくれ。あんたがあいつにしてやれることはもうそれくらいしかない」
ユーリクは握りこんだ拳の骨が痛むのを感じた。向かい合う男の笑みは罵倒を受けても崩れなかったし、形のいい唇の上を去ることもなかった。その肩口のところに、ブラインドに切り刻まれた呑気な日の光が、ぼやけた縞を染め付けている。ユーリクの身の内を除いた世界では、拍子抜けするほど和やかな時が流れていた。短い沈黙の後、口火を切ったのはヨスタトの方だった。
「幸せなのか?」
「幸せだ」
ユーリクは即答した。その時初めて、ヨスタトの瞳に影がよぎった。それは決して穏やかな表情を損なうものではなかったが、クレバスで覗き見た美しい青に混じる、死の気配に似ていた。
そうか、と彼は言い、もう二度と現れない旨を付け加えて事務所を出ていった。別れの握手は求めなかった。ユーリクはさっきまで男が立っていた場所を見つめながら、ヨスタト・ツァーレクはいつだって去っていけばその跡に空白を残すのだと知った。
痛む目を擦ってさらに痛めつけながらドアを開けると、ジルナクはもう帰宅していて、夕食のためにテーブルを拭いているところだった。彼の背にはまた新しい痣が増えていて、抱擁の際には痛みに息を詰まらせた。ただしそれが瞬きほどのわずかな時間だったので、栗毛の男はかけた力を緩めることもなく、恋人の温もりを譲り受けた。日没は街を霜で閉ざしてしまっていた、冷えきった空気は鋭く肌を裂き、かじかむ手指は体温で焼けてひび割れるようだった。
「リク、何かあったのか? 寒いなら風呂に入れよ、風呂桶にお湯を溜めてある。そうじゃないなら、俺が力になってやってもいいけどな……」
ジルナクは曖昧な笑みを浮かべ、疲れきった同居人の頬に優しく口づけた。ユーリクは嬉しそうに口づけを返し、自分を慈しむ相手の瞳を見つめた。左目の明度は昼間見たものに近かった。だが比べようもなく鮮やかだった。眼差しは琥珀色の夢に遊んでいた。リク、何かあっただろ、本当に……囁く声はユーリクの頭蓋に反響し、彼にあるひとつの決心をさせた。
「ジル、職場にヨスタトが来た。でも追い返したよ。それで諦めたんだ。あいつはお前を愛しちゃいない、ただ後ろめたさに耐えられなくなって、世話でも焼いて満足したかっただけだ……もう二度と来ないよ、ジル、あいつはもう二度と現れない……」
ユーリクの話を聞きながら、ジルナクの顔からは徐々に笑みが拭い去られていった。左目にも白濁した右目とあまり変わらない景色が映っている、焦点が上手く結べていないようだった。ユーリクは恋人の額に焼きつけられた醜い畝を撫で、沸き上がる不安に指先を震わせて、痩せた頬にもう一度唇を押しあてた。ジルナクはしばらくの間呆けたように立ち尽くしていたが、突然弾かれたようにユーリクの腕から逃れると、玄関まで駆け抜けて、扉を開け放ち出ていった。外の廊下から、悲鳴がひとつ響き渡った。
「ヨスタト!!」