夏が来るなら──
イスパ・クク・ジルナクはひどく湿っぽい気分になった。十月のやわな太陽は、まばたきでもするように、雲間から顔を出しては引っ込み、出しては引っ込みを繰り返す。これが彼を塞ぎこませていた。アパルトマンの東むきの窓が割れていて、あてた布が早速糊を剥がして寒風を招き入れているのも、衰弱した精神へ、なにやら面倒で、ささくれた憂鬱をもたらしている。亜寒帯に属するニレの冬はうんざりするほど長ったらしく、また光量に乏しいので、ある程度人間的な心持ちを維持しておくためには、四時頃からランプを点けておかねばならなかった……
集中管理の暖房は燃料代の不足とかで、月の半分を過ぎても沈黙を貫いている。ジルナクは慣れた冷気に礼儀正しく身震いし、スプリングの傷んだマットレスの上へ、毛玉の目立つ、埃っぽい鉛色の毛布を拡げた。もうそろ友人が帰ってくる頃合いである。この友人というのが、若者が冬季に陥りがちな意味のない内省的感傷を、からりとした陽気さと軽やかな冗談で、いともたやすく吹き散らしてくれるので、ジルナクはほとんど信仰と言っても差し支えないほどの信頼を、この男においていた。寒々とした部屋の皺を伸ばし、薄く降り積もるむさ苦しさを掃き出して、なしのつぶてではあるものの、多少は居心地を改善してみようとあくせくするのは、彼にとって半ば罪滅ぼし、半ばもて余す暇の使い道であった。若者は働き口が見つからず、僅かな貯金を捧げはしたものの、財政的にはお荷物だった。『二度も兄貴を死なせるのはごめんだ。俺のために生きててくれよ。こんな仕事辞めて、もう少し暖かいところで暮らそう。』という具合に説き伏せて(もとい、親切につけこんで)始まった続きの日々であるが、家賃はひと月ぶん滞納されていた。あのニラペレの現場を終えて、ヨスタトにそこで集めた情報の一切を棄てさせたのは、ジルナクのエゴだった。したがって、長らえるべき価値のない未来をこの新しい生活に縫い合わせた負い目が、彼の背中に始終ついてまわった。夜に背骨の隙間から忍び込み、どうも神経を刺激するようで、そんな時はきまって真夜中に冷たい水を三杯、立て続けに飲み干すことが必要になった。
がたついた玄関扉の呻き声で、彼は待ち人の帰宅を知った。出迎えるまでもなく、部屋が二つきりしかないこの小さな住居(すまい)を横切って、濃紺の外套をまとったヨスタト・バル・ツァーレクが、そのややくたびれた姿を現した。繊細な造形の顔かたちと違い荒く仕上がった左足は、床板にちいさな傷を幾つも足して、剥がれかけの靴底よりはるかに耳立つ音を響かせた。彼は脱いだ上着の襟を整え、壁ぎわのコートかけの空いたハンガーに着せてやり、ジルナクのジャケットの隣に吊るした。
「ただいま」
「寒かったか」と、若者は穀潰しらしく、稼ぎ手に気づかいをみせた。無論寒いに決まっているが、社交辞令は会話の段取りを円滑にする。「いまコーヒーを淹れるよ」
そいつは助かる、と悴んだ手をもみ合わせながら、ヨスタトは席についた。ニスが剥げてざらざらした机の上に肘を落ち着けると、彼は人好きのする笑顔のまま、ここも寒いな、と呟いた。 割れた窓の事には触れず、ジルナクが持ってきた琺瑯引きのマグカップで暖をとる。年若い(といっても幾つも変わらない)同居人は、自分のマグの取っ手を弄び、向かいに座る男のやつれた目元を、まじまじと見つめた。疲労がくっきりと染め付けた隈は、ちらついた白熱電球の明かりの下に、夕闇を連れてきている。
「なあ、レク」ジルナクは普段あまり呼ばない友人の愛称を使った。「もう少し南の方に移らないか。ニズユッコあたりに。母方の親戚がいるんだよ。家具工場の口がありそうなんだ……」
勝手な提案に、ブルネットの男はただ、いいんじゃないか、とだけ返した。ジルナクは黙りこみ、コーヒーをすすった。こう寒いときちんと話もできやしない。
夏が来るなら。彼は思った。俺たちにももう少しまともに未来の事が考えられるようになるだろう。足の痛みに煩わされず、明け方に震えながら目覚めることもない、光あふれる、夏が来るなら。
(まだ五時にもならないのに外は真っ暗だ、暗い、暗すぎる……)