ジルナクは乾いた咳を何度もした。近頃ではこの煩わしい症状も、上手く生活の役に立てている。注目を集めるのにぴったりなのだ、この不愉快な音を聞くと、なにごとにも興味薄なヨスタトの灰色の双眸は、すぐさま同居人の顔へと向けられるのだった。やさしい気遣いのまなざしでなく、死ぬのか死なないのか、死ぬならそれはいつなのか、窺い知ろうとする目だった。
「ヨスタト、葡萄を買ってきた。うまそうなんだ、粒が大きくて……」
今日はヨスタトも仕事がなかった。彼は今回のストライキに関し、組合の要求は強気すぎると思っていた。ストの間の給料は支払われない、長引けば長引くほどスープの具は減りそうだった。
「いくらした。高かったろ」
「そうでもない」ジルナクは嘘をついた。青物はどれもこれも値が張って、そのくせ萎びていたり、黴たものが平然と混じっていた。だが葡萄は確かに立派だった。彼はこれを、やぶにらみの店主から無言の圧迫を受けながら、ためつすがめつ慎重に確かめて、ようやっと選びだしたのだった。「俺の稼ぎから出したんだ、昨日は少し多目に貰ったからな……」
こちらの話は本当だった。くず山の仕事は誰もがあまりやりたがらない。労の割に稼ぎが少ないからだ。馬鹿でかいマグネットがさらったあとで、価値のある金属はほとんど見つからなかった。合板の切れ端をひっくり返すと、塵埃がもうもうと立ち込めて、病んだ肺の端まで詰まるようだった。ジルナクは本当のくずしか残らない無彩色の情景を眺めるにつけ、割れ砕けひとかたまりになった飲み物のボトルや椅子の背もたれ、千切れたビニルのありさまを、我が身の境遇に重ね、哀愁を齧るのだった。彼は数度世話になったこの場所で、足の欠けたセルロイド人形を見つけている。同じ畝で見つけた襤褸を着せてやりながら、義足を作るべきである気がして、意味もなく涙を零した。そしてそれを外套の下に隠して家へ持ち帰り、ヨスタトの目に触れないように、長持ちの底へしまいこんだ。
昨日は“少し多めに貰った”代わりに、くず山になけなしの財産を少し、取られてもいた。大雨の翌々日にはあちこちに水たまりが出来ていて、重なり合った樹脂の間をうろつく時、上を見るのはかなり危険なことだった。軽率な行動で(あるいは偶然の悪戯で)流れ落ちてきた汚水を目に受けて、右の視界は真っ暗になった。手洗い場で充血の具合を調べ、見た目にはさほど影響がないことを知り、左が無事で良かったと安堵した。元々めくら同然の右ならば、誤魔化していられそうだった。怪我の功名──嬉しいことに、僅かな“同情手当”が懐を暖めた。これはくず山の労働者が事故の補償として一度だけ貰えるもので、これから先は指を落とそうと頭を打とうと、一切支給されないことになっている。
「それはお前が食ったらいいさ。お前は病気だし、ビタミンを摂れば傷の治りも早くなる」
罷業中の職工は、なみなみ注がれたお湯をすすった。そのままの水だとカルキの臭いがきつかった。彼は水道の消毒剤が、傷んだ配管の錆臭さを誤魔化すために加えられているのではないかと、訝ることがあった。沸かせばだいぶましになり、それに水分補給も兼ねたお茶の時間は、最も簡便に体を温めた。ジルナクはいらぬ気を使って粗悪なインスタントコーヒーを混ぜたがり、ヨスタトをひそかに辟易させていたが、件のコーヒーもやっと底をついたので、買い足すだけの金もないし、当分はお互い飲み物で頭を悩ます必要もなさそうだった。マグカップの側にはニシンの缶詰がひとつ、置いてあった。これはヨスタトが工場からくすねてきたもので、今日の彼らの晩餐だった。この油に払い下げの堅パンを浸すと、いい具合に柔らかくなる。
「あんたの為に買ってきたんだ」ジルナクは同居人の向かいに腰を落ち着けた。「喜ぶと思って。でももう何も要らないんだったな。知ってるよ。夜だって……」彼は鎖骨の下にむず痒さを感じた。咳の発作の予兆だった。
「人形でも抱いてたほうがいい、どこも痛くならないしな。誰も傷なんか作りたくない。あんただってもっと長く眠れる。代わりを見つけたんだ、俺は、さ……見つけてきたよ。あんたの、か、代わりを、だよ」
彼は唐突に、机に突っ伏した。両腕で頭をかばうようにすると、猛烈に咳き込みはじめた。ヨスタトは外を眺めた。向かいの家のカーテンは秋からずっと閉め切られている。『あそこには確か俺と同じで脚のない退役軍人が住んでいたと思うが、こう長いこと姿を見せないところをみると、どうやら爺さん、死んだらしいな……』
ジルナクの咳はしつこく続いていた。あっけらかんとした白い曇り空を映した窓の格子に、降りかかるものがある。雪だった。