ニレにだって夏はある。俺たちは生命の息吹にこれでもかとあおられながら、湿地に据え付けられた歩道をゆっくりと歩いた。上着は薄いの一枚だけで、下はくるぶしの出た短めのやつ、ふだんは白黒映画のヨスタトの服装にも、ささやかな彩度が加わっていた。
俺はよれよれのTシャツ(なにかのバンドのやつだ)をはためかせ、汗ばんだ肌の上にぬるい風をたくさん取り込んだ。何ヵ月か前に、今年の雪解けは例年より一週早く、サンナ中央駅前の桜の蕾はもういくつかが綻んでいます、なんてニュースを聞いてから、俺もヨスタトもご機嫌だった。夏は期待通り暑かった。文字通り額に汗して働くヨスタトを、週末ちょっと遠出しようぜ、なんて誘ったのは、開放的な気分で話をするためだったが、まあ割りと成功らしい。口じゃ膝がどうとかぶつくさ言っていたこの男も、鮮やかな花びらやら勢いよく繁茂する水草やらを眺める目は優しいし、何より足取り軽やかだった。俺はこの散歩中一度ならず、低い鼻歌が一昔前の流行歌を奏でるのを聞いていた。一緒に歌ってやりたくなったが、生憎どれも歌詞があやふやでやめにした。
「なあ、前も言ったと思うけどさ、ニズユッコあたりに行かないか。俺の親戚がいるんだよ。仕事の口を世話してもらえる」
「本当か?」そう言いながらヨスタトは歩道に飛び込んできた蛙をそっとまたいだ。「いきなり現れて仕事をくださいなんて、そんなうまい話があるとは思えん」
「あるんだよ。こないだ電話で聞いたから間違いない。俺のこと心配してたよ、何年も音信不通でさ……友達に助けてもらってるって言ったら、おじさん、喜んでた。あんたのことも雇ってくれるってさ」
「お前はかわいい甥っ子だからいいかもしれないが、俺は向こうからしたら他人だぞ。図々しすぎやしないか」
「おいおい」俺は思わず歩みを止めて、ヨスタトの肩を小突いた。「つまらないことを気にしてんなよ。あんた、くよくよ屋さんもいい加減にしておかないと、本当に幸せが逃げるぜ……」
ヨスタトは参ったな、という風に顎をさすった。元気になった太陽が真っ青な空からよこす光の下で、こいつの顔は冬の何倍も明るく見えたし、実際明るかった。暑いから血色もいい。前は少しやつれていたが、今はそうじゃない。新しい道を歩いていくだけの体力がありそうだった。しばらく閉ざされていた唇が、ゆるく弧を描いてから開かれる。
「いいかもしれないな」
そうだろ、と俺は返事した。今日はお互いに、鬱々としたところがひとつもなかった。本当にやり直せそうな気がする、何もかも忘れるわけじゃなく、傷痕が綺麗さっぱり消え去るわけでもないが、それらをいったんアルバムに収め、こういう事もあったなと笑いながら振り返れるような、そういう完全な過去にして生きていくことができそうだった、今度こそ。
夏が来るなら。
夏くらい待ってれば来る、生きてりゃ時間は止まらない。寒さにいじけたあの頃には、そんな単純なことも忘れかけていた。帰りは遅くて構わないな、俺は呑気にそう思った。九時になっても日は沈まない、夏だ、夏だから……