やりかけの仕事

 その日は五月だというのに舞い戻ってきた北風が賑若葉の賑わいを枝から追い散らし、ひどく陰鬱な感じのする水曜だった。今にも分解しそうな年代物の二輪車はがたがたわめいて乗り手を辱しめている。どうにかたどり着いた先の肉屋で売り物にならないくず肉の切れっぱしを一袋貰うと、鼠がおまけでついてきた。俺は重ねて礼を言い、そいつを引き裂く様子を写真に撮ると約束して店を出た。
 結局、列車には乗れなかった。お調子者でおせっかいで弱虫の元上司を放っておけなかったからだ。6つも上の男を「放っておけない」などとはばからしいが、事実そうなんだから仕方ない。ステップにかけた足を下ろして戻ってきた俺を見て、そいつがどんな顔をしたか、今でもはっきり思い出せる。ひとを文無しで望みもしない南のバカンスに送り出そうとはいい度胸だ。気に入らなかった。俺はヨスタトという男の何もかもが気に入らない。
 ニレの西側は森と湖沼に富んで穏やかだ。当然この最高のリゾート地には金持ち連中の別荘も多かったが、それ以上にさまざまな生き物が巣をかけていて、豊かな生態系が形作られている場所でもあった。がたがたうるさいオートでも、こうして一人走っていれば湖面をわたる霧や背後に隠された小山のような木々の影なんかはこれでもかとばかりに静謐さを演出し、悪くない眺めだ。多少高さのある道にさしかかると、大地はスープをこぼしたばかりのテーブルクロスの様相で、その滴の周りには色あいの地味な森がかびのように広がっている。行く手に無数にある湖のあるひとつのほとり、木立の始まるあたりに青みがかった灰色の小屋……というには贅沢な広さをもった建物がある。我が家だ。
 年寄りの車体をひさしの下に押し込んで裏へ回ると、ヨスタトはちょうどウサギ小屋の格子の間から野菜くずを撒いているところだった。灰色の毛玉が寄ってきてそれを懸命に齧っている。懸命に、などと言うにはあまりにも単純で機械的な動作だが、コミカルで愛嬌たっぷりなより都合が良い。
「ハニー、お肉は手に入った?」
 足跡を聞きつけた彼はこちらに一瞥もくれず軽口を叩いてみせた。仕事中は始終この調子だったが、ここでもそれは同じだった。
「鼠まで貰ったよ、あのおっさんは気前がいい。商品までおまけしちゃくれなかったがな。それより早くそいつを絞めちまえよ。でなきゃ俺たちの夕飯はメーンディッシュ抜きになるぜ……」
「二羽いたのを忘れたのか? もう下ごしらえまで済んでるよ。今日の夕飯の当番はお前だからな、俺の仕事はそこまでだ」
 ヨスタトは手を叩き、手のひらに残った葉っぱのかけらを払った。確かウサギは一羽きりだった筈だが、あると言うんならあるんだろう。こいつは罠猟の名手だった。彼は餌やりを終えた動物の存在はすっかり忘れてしまったような顔で俺の傍まで来ると、冗談めかした仕草で手を差しのべた。片眉がわずかに上がり、その下の瞳が俺の手に下げたビニール袋と俺の顔とすばやく行き来した。
「あんたの仕事は終わったろ」と親切を断ると、物分かりのいい元上司はあっさりと引き下がる様子を見せた。俺はあてつけや嫌味の類いではないことを示すためごくささやかな笑い声を添えてやった。微笑もうとした頬が小さく痙攣した。「晩飯の心配はしなくていい。どうせ半分は冷凍庫にしまうだけだし、こま切れだから手間もない。鼠にだって大した時間はかからんさ……」
 俺はヨスタトの後に続いて家の中に引っ込んだ。鳥小屋は母屋に併設されている。元々はちょっとしたガーデニングのための部屋だったのを、これ幸いと金網や棒切れで作り替えてしまったのだ。二重になった戸を開けると、若いハヤブサの物欲しそうな視線に晒される。ひと揃いの丸い目はいかにもかわいらしく、俺はさっきより自然に頬が緩むのを感じた。腹を空かした怪我人に、切れっぱしをたらふく恵んでやる。半分は前室に備えの冷凍庫へしまい、鼠はごみ箱へ捨てた。写真の約束はどうせ覚えちゃいない、今までに何度もまとめて捨ててきたが、催促の言葉が渡されたことは一度もなかった。俺は自分と同じ名の鳥が肉のかけらを丸呑みにするのを気の済むまで眺め、自分と同居人の夕飯のため、部屋を出てキッチンに向かった。
 陽が落ちるのが遅くなり、7時を回ってもまだぼんやりとした昼は続いていた。白夜になることはないが、夏至にはそれに近いくらいには明るい時間が長くなる。俺は自分の分のローストを、さっきのハヤブサよろしくがっついた。少し焦がしたが悪くない。向かいに座る男も同意見のようで、まずければそうと伝えるよく回る口も、いまは咀嚼に集中していた。俺は礼儀も忘れてヨスタトの食べる姿を観察した。フォークの先に刺さった肉が、形のいいやや薄めの唇の間に消え、それから顎と頬の筋肉が音もなく連動し、一定のペースで決まった動きを続ける。そして十分な回数を過ぎると喉仏がゆっくりと上下し、肉は胃へと送られる。それが付け合わせのインゲンであってもジャガイモであっても同じ事、彼の食事は安らかに進んだ。それから俺はパンをちぎる彼の手が落とす、濃い影の輪郭を追った。蛍光灯の冷たい白は食卓の照明としては不適切で、皿の上の彩りはいかにも死骸じみて見えた。さりとて不平は漏らせない。人間にとって生きたままというのは難しい。死骸を食うしかない。
 ヨスタト、と俺が声をかけると、彼は手を止め、目線を上げた。こいつの灰色の瞳だけが、ぎらぎらした無彩色の光と親しく調和する。閉じ込められた死の沈黙が、瞬きするたび粉になって撒かれるようだ。彼が積み上げてきた灰の山は、ここで静かに石に変わっている。
「どうした? 食欲がないならさっさと横になったほうがいいぞ。後でリンゴを剥いてやるから」冷えた灰色を抱いた淡いカーブが朗らかに細められる。この家にリンゴはない。「今度肉屋に行ったら豚を買ってこいよ。お前はもう少し太ったほうがいい」
「おいおい、余計なお世話だよ。俺の食生活よりあんた自身の健康に気を使えよ。この前転んでから擦れるようになってきただろ。節約して直すか新しいのを買ったらいい……俺もそこそこ貯めこんでる、額にもよるが支援してやれんこともないさ……」
 その夜、俺はヨスタトを殺す夢から跳ね起きてすぐ時計の針先を確認した。床に就いてから一時間も経っていない。糸を切られたように倒れるヨスタトの姿と引いたボルトハンドルの感触が、寝惚けた頭にまだはっきりと残っている。こういう夢の後は眠れなくなる。俺は裸足のまま床に爪先をつけた。板目の凹凸が冷気とともに包み込む。かかとをつけてしまうとそれらは途端に大人しくなった。暗い中でも落ちる影は忠実な猟犬か、あるいは手負いの獣を追う狼のように身を屈めて着いてきた。一歩踏むごとに鼠色の静寂が脇へ退く。ヨスタトの部屋の扉は閉めきってあった。だが鍵はなく、ノブを回せば簡単に招かれざる客を受け入れる。蝶番の軋む音は慎ましやかではあったものの、寝聡い彼を起こすのには十分すぎた。ベッドの上の気配が固くなる。俺が何をしに来たか知っている。これが初めてではなかった。
 右を下にして寝転がっていたヨスタトは、無遠慮に乗り込んできた俺の姿を横目で追うと、もぞもぞと姿勢を仰向けに直した。冷めたまなざしが馬乗りになった俺の腿から腰へと這いのぼり、腹をくすぐって胸に触れ、首筋から頬にかけてを撫で上げた。それから火傷の痕を丹念に探る。俺はぞっとした。同時に吐き気を催すほど昂るのを感じた。引き金に指をかけた瞬間に走ったのと同じ震えが、身体の芯を駆け巡った。
 俺はヨスタトの胸ぐらを片手で掴み、もう片方の腕で容赦なく殴りつけた。二三発くれてやると、色男が台無しになった。鼻血がシャツの襟を汚す。力任せに引っ張り上げてもう一度殴ると、ボタンの外れた胸元から痘痕の細かい凹凸が覗いた。俺はシャツから手を離してそこに爪を立て、力任せに傷つけた。薄皮の剥がれた下から水っぽい血が滲み、殴られても出さなかった呻き声がしぼり出される。のけぞって露になったヨスタトの喉、俺はそこに両手をかけ、絞めあげようとした。彼はつまらなさそうに薄目を開いてしばらくの間じっとしていた。獲物がこれほど協力的であるにも関わらず、俺はうまく力がかけられずにいた。
 するとそれまで大人しかったヨスタトは突然俺の肩のあたりを掴み、重心をうまくずらして狭いベッドの上で天地を入れ換えた。立場が逆転し、俺の両腕はマットレスの上に落ちる。したたかな獣は仕留めた小鳥へ覆い被さるように背を丸め、さっきまで俺がしようとしていたことを、遥かに慣れた手つきではじめようとした。彼の鼻の頭から、黒ずんだ雫が滴った。他人の血が頬骨の上からこめかみへ向かって流れていく。
「こうやって力をかけて、首の骨を折ってやるんだ。そうすればたとえやり損なっても追ってはこない。お前だってもう少し真剣になったらできるようになるさ。簡単だ、慣れれば人間もウサギと同じくらい脆い」
 言い終わるや否や、ヨスタトは躊躇なく俺の首を絞めあげた。俺はもがき、やみくもに腕を振り回した。殺し屋はそつなく顔を遠ざけて、この無様な攻撃から柔らかい目を守った。
「やっぱりお前に殺しは無理だ。俺を殺したくてもやり方を知らない。あれじゃ中途半端すぎる。ジルナク、何もかも中途半端すぎる」
 俺は暴れるのをやめた。本気でやるつもりならとっくに死んでいる。世界の裏側でちかちかする光を追っていきたかった。針で突いたような穴から洩れる天国の光。兄貴も両親もヨスタトの婚約者も、きっとあの楽園へ雑に放り込まれている。ほかはともかく兄貴、あんたは人殺しだろうが……
 いつの間にか新鮮な空気が肺に流れ込んでいる。まだ砂嵐の混じる視界の真ん中でヨスタトは、手の甲を使って腫れ上がった顔を拭った。まだ血が止まっていない。折れているのかもしれなかった。
「お前はまだやり直せると思ったんだがな」
 ハンサムな元上司の笑みは痣だらけで血みどろな割に完璧で、空っぽだった。また新しい血が滴って、俺の口元を汚した。さっきまで俺の首にかかっていた親指が、不必要な優しさでそれを拭いとる。
「ヨスタト、俺に未来なんか押し付けるな……」身体中がやるせなく弛緩していた。この世はやるせない。ヨスタトの抜け殻のような優しさが、肌に残ってむず痒さに変わる。「あんたも兄貴と同じだよ、かわいい弟を未来に置き去りにして死ぬのがそいつの為だと思ってる……満足か? 親切ぶるのはよしてくれ、俺はあんたが思うよりずっと、終わってるかもしれないんだぜ……」
 ヨスタトは答えなかった。ただその双眸に宿したニレの長い冬を、湖畔に吹きつける季節外れの北風のように、訪れる初夏と相食ませていた。