旅の終わり

 俺はついにヨスタトを見つけてしまった。つい半日前に鳥飼いの女に聞いた「ああ、それなら知ってるよ。黒髪に灰色の目に義足の男、私が鼠を安くしてやったのに断った男さね。ランタ=ラルペに泊まってるよ」はまだみずみずしく鮮度を保った真実で、果たして最上階のラウンジの一角に彼は居た。窓際の一人席、外を眺めて黄昏る背中はよく知るヨスタトの姿そのままだった。もちろん服はかなり気合いの入った仕立てのスーツで、あの頃のラフな格好とは程遠かった。俺はただただ懐かしくなって、しばらくぼんやり突っ立っていた。そろそろ気配が届いたか、ヨスタトが振り返る。顔だって当然昔のままだ、薄くはあれど情の深そうな笑み慣れた唇、すっきりとつりあいのとれた鼻。輪郭には余計な角がなく、過剰な丸みもない。そして美しく流れる眉の下で優しい曲線を描く瞼の間から覗く、あの灰色。むかし何よりも愛おしかった灰色が、温度のない視線を寄越す。
「ジルナク」
「会いたかったよ、ヨスタト」俺は道中悶々としながら用意してきた台詞の一切を忘れてこう口走った。「あんたに会いたかった」
 彼は少しだけ笑って、それからごくわずかな時間目を伏せると、やおら立ち上がって歩きだした。黙って見ていることしかできないのも仕方ない、何もかもが懐かしくなった……こんなに服装の質が上がっているくせに、義足のほうはボロのままだったからだ。淀みもふらつきもないのにどこか普通とは違った身体の使い方をする歩み、このピカピカに磨き上げられた洒落た模様の床を踏むバラバラの足音。いつかしたように、俺達は向かい合う。ほんのり煙草の匂いが漂って、遠い日々の幸福を呼び覚ました。
「追いかけてきたのか」
「ああ」
「大学はやめにしちまったのか。勿体無い」
「いいんだよ、鳥は好きだが学者さんってガラじゃない……どころであんたの旅程はめちゃくちゃだな、あちこち行ったり来たりして。それなのにだ、一体どうすればこんないいホテルに泊まれるんだ?」
「経験の差だな。旅費を稼ぐ方法は山ほどある」
「なるほどな」いざとなったら女でも捕まえるか、などと言いかけてやめる。「俺のほうは貧乏旅行だったが……それも悪くなかったよ。視野が広がった」
「旅はそういうところがいい」
「王様だの大臣だのに諸国漫遊の話が多いのも分かるよ……」
 そこで会話が途切れ、王様と大臣は黙り込む。決して不愉快な沈黙じゃなかったが、次の一言を告げるのには少しばかり勇気がいった。俺の顔の右側に貼り付いているのはヨスタトが逃れたかった昨日で、やつの恋人が死んだあの日だった。それでも今ここで言わなければ、きっと一生逃げ続け、俺は一生追い続けることになる。今までのことを考えるとそれもかなり悪くないが、第三の選択肢……はじめ第一だった選択肢が違う顔を見せてくれていて、そいつは遥かに魅力的だった。口を開くと、かすかな息の音を拾って灰色の瞳がこちらに向いた。
「一緒に行かないか。一人旅もいいが、二人連れも楽しいかもしれないぜ」
 ヨスタトの反応は至極フラットで落ち着き払っている。驚いたような顔もなし、苦痛もなし、葛藤もなし、困惑もなし。ただ痒かったらしい手首を上の空の調子でかいて、それからなんでもないことのようにこう答えただけだった。
「そうだな」
 素っ気ない返事だが、憐れみやごまかしのない素直な同意で、それを聞いた俺は無邪気にはしゃいでみせたり、有頂天になったりはしなかった。満足感だけが胸にこみ上げ、浜を洗う砂のように傷をすすいで思い出に変えた。
「俺は今すぐ出られるよ。荷物はないんだ」
「お前の言った通り、とんだ貧乏旅行だな」
「でもパスポートはある。ここへ来るために新しいのを買ったんだ、実を言うとそのせいで荷物がなくなった」
「そうか。じゃあ服くらいは買ってやらなきゃな」
「今あんたが着てるのと同じくらいのやつがいい」
「早速たかりやがって」
「ハハハ」
 二人してラウンジを後にする。飲みかけにして置いてきたグラスがそっと片付けられるのがちらと見えた。だが傍らにはもっと見るべきものがあって、エレベーターの中でも無遠慮にそれを眺めて過ごした。咎めるような視線も言葉もない、それどころかむしろ整った横顔にはこういう遊びを懐かしがっているような気配さえ漂っている。ほのかに浮かぶ笑みが証拠になって与える安堵は、南の国にあったあの家で感じたものによく似ている。だが同時に似ても似つかないものだった。どちらにしろ好きだから構わない。

 俺はもうジルナクではないし、彼もヨスタトじゃなかった。俺たちはどこかへ行くだろう。行き先は誰も知らない。