追憶

 彼が歌っている。時おりざらついた風の音に変わってしまうその声は既に天使のそれではなかったが、なればこそ天上よりも地べたに、あの日より今夜にふさわしい。時は嵐のようにおまえをもてあそび、戻れぬ沖へと流してしまった。わたしはあらゆる泥濘に身を横たえて帰りを待ちわびた、だが海へ漕ぎだす勇気は持ち合わせなかった、長い航海のしるべとすべき星々は失われて久しく、わたしは夜を怖れたから。地に臥した怠け者のわたしの髪はやがて土くれの色に染まり、苦痛や絶望さえ、わたしに飽きて見向きもしなくなった。いつかわたしもおまえを忘れた。あれほど焦がれたものだのに、わたしはおまえを忘れたのだ。
 早い時間の散歩は決して珍しいことではなかったが、町の中心に足を向けたのはあれ一度きりだった。若い葉先から朝露が乾いていくときのあのみずみずしい命の香りがあたりいっぱいにたちこめていて、和やかに頬を撫ぜる風とともに、ひと呼吸するたび、若やいだ春が肺を軽やかに出入りした。幼い陽は東の空に遊び、それを背にした教会のファサードへおごそかな陰影を与えていた。目を覚ましたマルハナバチの気まぐれな羽音、わたしは彼らを追って引き戸に手をかけ、そっと隙間を抜けた。よく手入れされた畑を通りすぎると、いつの間にか(おそらくわたしの左側へ)散ってしまっていた羽音のかわりに、耳に入ったのは歌声だった。なにか神聖な言葉の並び、ハミング、それからまた善くあらんことを希い、ハミング……蜂の飛ぶように気ままに、柔軟に、かつ偉大なものの手で定められた軌道を進み、のびやかに蒼穹へ溶けていく。わたしは注意深くしのびよった。丁度長い窓の並んだ壁が折れるところ、幸いにしてあの角を越えた右側に、声の主が見つかるはずだった。石造りの陰の縁からうかがうと、それは朝日の清廉な白の中、一片の闇も伴わず顕された。睫の淡い曲線は破傷風で死んだわたしの子馬の背が描いたそれと同じ、肌の上へ柔らかに陰影をあたえる髪は脱ぎかけの蛹のなかで力尽きた蝶の黒、庭に遊ぶ雀の子へのべられた指先の滑らかさは死産の子牛の蹄の先に倣う、清貧の姉の手によって飾り気のないシャツに包まれた身体は嫌でも思い返させた、父が撃った雌鹿の、力を失ってなおしなやかな肢体の有り様を。おお、どれほどの言葉を尽くしたとて表現しえぬもの、愚者にも悟りを与うものよ、その舌が、唇が紡ぎだす愛は万物に捧がれていた。見るものみなすべて、聞くものみなすべて、触れるものみなすべて、感ずるものみなすべて、背表紙の瑕、午後の雨だれ、すずらんの香、わたしが他人の気に入る表情で面を彩るのと同じように、かの人は愛することで、それもいともたやすく、全きものたちと繋がることができるのだった。わたしが持たぬもの。持ち得ぬものすべて。旋律の豊かな流れがふいに途絶え、彼は瞼を閉じたまま、歌の代わりにこう言葉を継いだ、誰かそこにいる?
 彼が歌っている。その声は祈りを、教えを、愛をひとつ口ずさむたび、なめらかさを失っていく。しかしいくら楽器が痛んでも、音楽の本質は損なわれない。そうとも、音楽を味わうには「心で」という陳腐な表現が笑ってしまうほどよく馴染む、なぜならそれがわたしの「ひび割れた心に染み渡り」、「砂漠をさ迷う旅人の渇きをオアシスの清い水が癒すように」、慈しみによって傷を癒したから。無論わたしの心はひび割れたりはしていない、無茶な蛹化を繰り返すうち、何だかよくわからないものへと変わってしまっただけだ。だが奪い取られたあわれな人よ、おまえは憎しみを抱くより、ばらばらに砕けてしまうほうを選んだ。賢くはない、強情で身勝手な聖者よ、蚤でさえ蛆であることをやめるのに、 おまえはおまえでい続けることを選んだのだね。
 軽い咳、途切れた祈りの間を嬌声が通りすぎ、わたしを物思いの淵から今いる場所へと呼び戻す。月光は淡くこの部屋を満たしている、地の底へ暁を押し込めて。夜明けはまだ遠い、辿り着くまでにわたしは「その次」を享受することになるかもしれない。だが今はただもう少しだけここに横たわり、ちいさな王さまがあの頃持っていた平穏の味を懐かしもう。しばしの沈黙ののち聞こえてきたはじまりの数語はやはりささくれて、続く音をほんの少し濁した。それから颶風にあおられた黒ツグミが適切な気流を見つけ出すように、決然として正しい音階へ帰る。時は残酷な仕打ちをしたが、おまえを遠くへやってしまったのはわたし自身だったのだ。おまえはどこへも行かずにずっとあの庭で、ちいさな生き物と戯れながら、日々の糧への感謝を、厳粛な誓いを、尊い物語の一節を唱え、美しいものを、全きものを讃えていた、主の御心のままに。
 やがて受難者の旅は終わり、結びの沈黙は咎人をやさしく揺り起こすだろう。わたしが愛したかったかの人のまま、彼が歌っている。