彼女の話

 彼の書架の一画に、鍵のかかった箱が置いてある。それに気づいたのはこの場所に入り浸るようになってからすぐのことで、単純な板金にあいた鍵穴をなぞりながら、中にどんなものが入っているかあれこれ想像せずにはいられなかった。あの物好きな彼が大事にしまいこんでいるのは、愉快で心躍るような魔法の品? それともおぞましく冒涜的な儀式の道具?
 以来わたしは毎日のように、読書の合間に鍵を探し回った。しまいには彼の居室で、寝ているのを確認した後にこっそり引き出しをあさりさえした。とても褒められた行為ではなく、また教えにも反することだったが……わたしはこのときばかりは主のまなざしを素知らぬふりにし、単なるいたずら坊主と化して好奇心に身を任せていた。彼はわたしの秘密を山ほど知っている、ひとつくらい自分のを分けてくれたっていいだろう。普段から誰彼構わず自分の持ち物を与えてやっているのだし。
 数日間の探索はある夜ついに実を結び、鍵は果たして、彼の部屋の隅にしまい込まれていた小さな陶器の中で見つかった。まだ月は空の高い所で照り輝いていて、夜明けまでは十分時間が残されていた。忍び足で書庫に入り、飾り気のない宝箱を出してきて机の上に置く、あまり重さは感じられず、揺らしても音はしなかった。奔放で不埒な魔法使いは一体この中に何を隠しているのだろう? わたしは挿し込んだ鍵を慎重に回し(鍵は間違いなく合っていて、何の抵抗も感じられなかった)、蓋を押し上げた。
 中にあったのは紙だった。
 仮綴じされた束が、何冊も詰まっていた。ページを繰れば手書きの文字が整然と並んでいる。彼のものに似た優雅な筆跡、だがもっと繊細で素朴な丸みを帯びたもの。内容はどれもおとぎ話のように見えた、妖精や幽霊、竜や口をきく獣たち、それから魔法使い。ひとつを手に取り、はじめの一文から読んでいく。“昔々あるところに”……
「眠らなかったのか。きみが本当に昼を生きていきたいと思っているか、こうなるとすこぶる怪しいものだ。ああ、無論のこと夜も素晴らしい! このわたしも大好きさ、毎晩褥を共にするほど」
 顔を上げれば、きみは半開きの扉によりかかり、垣間見える空間には曙光の色が滲んでいた。口を開けたままの箱も、周りに積み上げられた紙束のことも、見えている筈なのに彼は全く腹を立てた様子もなく、柔和な笑みを向けている。毛糸に絡まった子猫を眺めるようなまなざし。
「すまない……気になって」
 お粗末な言い訳が戸口までたどり着くまえに、身なりの整った貴族は足音も軽く近づいて、わたしが読んでいる一冊を覗き込んだ。文字と同じくらい優しげな印象の挿し絵では、三人姉妹が泉のほとりで蝶とおしゃべりしている。
「一晩中読んでいたのだね。どうだろう、知性も教養もある一人前の男にも、このすてきな絵空事は眠りが与う夢と引き換えにしても惜しくないような代物だったかな?」
「ああ、とても」
「それは何より」親しみを込めた仕草で、指の足りない左手が肩に置かれた。「わたしの母が書いたものだ」
 わたしは彼を見上げた。色違いの瞳が視線を注ぐ先は、礼儀知らずの友人が読み散らかした冊子の山だった。彼の母親が書いた物語。
「きみの母上は……とても才能のある人だ。石ころひとつのありさまさえ生き生きと描く。つい時間を忘れて……」と調子づきかけて、わたしは自分の罪を思い出した。「きみに一言ことわっておくべきだった」
「いいや。構わない。見られて困るようなものでもないからね。これが母の作だとは祖父が死ぬまで知らなかった。わたしが母の書いたものを読んでいると知った父は猛烈に怒ってね。激情にかられた彼が燃やしてしまわないように、隠しておく必要があったのさ。きみは気に入ってくれたようで嬉しいよ、だがまあ、開ける前に尋ねてくれればなお嬉しかった」
 そこまで言うと彼はゆっくりとかがみこみ、わたしの頬に唇で触れた。情を込めた長い口づけだった。わたしは微笑んだ。