本当の話

 雑踏はだいたいにおいて優しくない。人酔いした私はつい適当な方向へ足を伸ばし、やがてガイドブックにも載らないようなローカルなエリアに迷いこんだ。しまったなあという気がするのは先進国とはいえ地元と比べれば治安の悪いこの国で、観光客然とした女がうろうろするには人気のない路地裏はあまりにも不適切だからというのと、単純に道に迷ったことを自覚したからだった。高かったスニーカーが靴擦れしないのに感謝しながらとりあえず止まらないようにと歩き続けると、角を曲がったところで素晴らしい発見をした。これぞまさしく怪我の功名、七転び八起き、骨折り損の……違う、とにかく目に入ったのはとびきり古めかしく情緒ある店構えのアンティークショップだった。ショーウインドウにはそれらに相応しい時を過ごしてきた美しい品々が並び、薄手のカーテンを透かした奥にはさらに沢山の歴史たちがところ狭しと店内を埋め尽くしているのが見えた。私は是非もなく! ドアの取っ手を(これも見たところ「アンティーク」のひとつに数えてもいいもの)引くと、隙間から中へ滑りこんだ。
 思った通りの匂いに満ちた店の空気を、私はまずゆったりと吸い込み楽しんだ。ひらたく言うとおじいちゃんの書斎の匂い。背の高い飾り棚やビロード張りの椅子、かぎ煙草入れ、ガラス細工の小瓶に羊皮紙の束、その他用途の分からないありとあらゆる年代物が、それぞれの素材の醸す豊かな香りをふりまいている。見た目より奥行きのある店内は、カーテンに遮られた淡い日の光からすぐに暖色の照明に光源を変えていて、それが現実の時間から切り離されたような趣を与えているのだった。なんて素敵な場所だろう、私はすっかり人酔いから回復し、うきうきした気分であたりを眺め回した。色は落ち着いたオータムカラー、どれもきっとひとつ所から持ち出されてきたものではない筈なのに、まるで映画のセットのように全体の調和がとれている。店主の姿は見えなかったけれど、それはそれでこの夢のような空間にはぴったりな気がした。きっとここにある物たちとおなじくらい歳をとったおじいさんだ、それ自体もアンティークである丸眼鏡を小さな鷲鼻の上にちょこんと乗せて、髭にうもれた唇のあいだにはつやつやしたパイプをくわえている。そしてツイード地のベストを着て、お揃いのズボンはサスペンダーで吊っている。靴はもちろん革、もう何十年も履いていてくたくたになってしまっている……それから暇にまかせてこのレコードを、と私が蓄音機のアームを突っついたとき、まったく突然に、背後から──
「それが気に入りましたか」
 店の奥側から声がかけられて、私は十センチも飛び上がった。自分の反応が泥棒じみていてよくないと気づいたのは勢いよく振り返ったのと同じタイミングで、私はまたしまったなあ、なんて思っていた。たぶん店主か、少なくともお客には見えない声の主は想像していたような老人ではなく、若者といっても良さそうなくらいの人だった。声自体も落ち着いた、なめらかで深みのある美しいもので、どこか翳のある佇まいと相まって、私はしばらくうっとりとしてしまった。彼の黒髪は光を吸い込むように不思議と艶がなく、青白い肌の蝋細工のような透明感と対照的で、それがとても美しかった。旅先で初対面の男性に対してこんな形容をするのはなんだか頭空っぽの浮かれた観光客のようだけど、整った顔立ちは俳優と比べても遜色ない位だし、ほっそりした体つきと骨のつくりのよく分かる痩せた手首と組み合わせた両手もやっぱり繊細な造型で美しく、身に付けているシンプルなシャツは想像の中の店主のものとあまり変わらずよく似合っていて、つまりそれもこれも完璧だったから仕方ない。何よりも綺麗だったのはその瞳で、彼のつや消しの質感はここにきて潤いに満ちたものに変わっている。澄んだ青は氷水に手を浸したときのような清涼さを錯覚させるのに、まなざしは石炭ストーブか実家のお味噌汁の湯気くらいに暖かだった。私はやっと現実に戻り、あたふたと拙い英語でお店のことを褒めた。はじめからずっと、彼は微笑を浮かべて私を見守っていた。
「あの、すごく綺麗です。全部。こんなところ……と言ったら失礼か、でもほんと穴場というかなんというか、えーとえーと」
「欲しいものがあれば教えてください。あなたの好きな額でお譲りしますよ」
「えっ」と私は失礼な態度をとった。「嘘でしょ?」失礼なことも言った。
「めぐりあわせですから」
 彼は朗らかに笑った。私はつられて笑顔になりながらも、さっきの台詞を反芻していた。私の好きな額で? じゃあこの蓄音機をタダで! なんて言ったら許してくれるのかな。と起こした不埒な考えを見透かしたように、あなたにならいいですよ、と彼は言った。
「どんなものにもあるべき場所、出会うべき人があります。わたしも見境なく人に物をやったりはしていませんから、ご心配なく
「はあ……まあ、蓄音機はちょっと無理なんですけど……なにか小さいものなら。あ、これとか」
 私は手近なチェストの上にあった小物入れを手にとった。それは真っ白な陶器でできていて、手のひらくらいの大きさの丸い形をしていた。とりあえずで手にした割に、よく見るとふたの取っ手が小鳥の飾りなのも、実は真っ白ではなくて銀色の優雅な線で木の葉や枝が描きこまれているのもかなり私好みだった。店主は私の側に歩み寄り、顔を覗きこんだ。次の言葉を待つ気配だった
「かわいい。これにします」
 私の言葉は発音も内容もお粗末だったけれど、彼はどことなく嬉しそうだった
「ではお包みしましょう」
 店主は古新聞に商品をくるむ間、私の求めに快く応じ、前の持ち主について話してくれた。なんでも前の持ち主は由緒正しい貴族だったそうで、小物入れは彼自身が知り合いの職人のところでたわむれに作ったものなのだという。
「彼はそこに鍵をしまっていました。宝箱の鍵です、彼にとって金貨や宝石よりもずっと価値のある宝物が詰まった箱の鍵。あるとき、彼の悪い友人がその中身を何とかして見てみようと企んで、小物入れから鍵を盗み出したことがありましたが……」ここで彼は何かを思い出そうとする様子を見せた。「寛容な彼は怒ることもなく、むしろその宝を分かち合えたことを嬉しく思ったようです。なぜならそれはすばらしいおとぎ話で、彼の母親が書いたものでしたから。彼は実のところ、自慢したくて仕方がなかったのです」
 商品を紙袋に入れ、彼はおかしくてたまらない、というような笑みを唇の端に惑わせたまま私にそれを渡した。私は代金として交通費やもしものときの備えを考慮して出せるギリギリの額を支払い、勝手に座っていた椅子から腰を上げた。
「何だか見てきたような話ぶりですね」
「こう古いものに囲まれていると、声が聞こえてくるようになるのですよ」
 私たちは顔を見合わせてくすくす笑った。「わたしはご一緒できませんが、ここを出て右手に進み、突き当たりを左にまっすぐ、曲がらずに行けば大通りに着けますよ。それでは、よい出会いをありがとうございました」
 私は親切な店主にお礼を言って、名残惜しく後ろ髪を引かれつつ店を出た。何歩か進んでから、もう二度と来られないかもしれないその場所をもう一度目に焼き付けておこうと振り向いたそのとき、奇妙な直感が体の軸の中心を駆け抜けるのを感じた。
 あの人は本当に見てきたのだ。
 それは突拍子もないファンタジックな思いつきだったけれど、何故か確信に似た激しさで私の心臓を叩いた。手の中の紙袋を抱き締めて、私はついほんの少し前の光景を思い描いた。ひとつのセットか絵のようだったあの店で、若い店主はそこにある調和を乱さずに立っていた。歴史ある物たちに囲まれた彼自身が、それらと同じかそれ以上に、歴史あるものだったに違いない……