ひと匙の愚かな嫉妬

「そうやってつまらない嫉妬ばかり」
 なんだって? わたしは我が耳を──ひとつきりしかないちゃんとした耳を! 疑った。嫉妬? とんでもない、いつだって冷静だ。現にこうしてさしたる動揺もなく、わたしのナイトが彼のポーンを無慈悲に蹴倒している。もちろん馬は青毛、たてがみは天の息吹を受けて渦を巻く。それまで話していたことといったら、彼の罪深い食事のことだ。餌をぶら下げると牙を並べて舌なめずりするくせに、貞淑ぶって、骨と皮ばかりな肢の先さえしゃぶろうとはしない。時おり、というほど繁くもなく数ヵ月に一度だが、彼はちょっとしたスパイスに悩まされるようだった。貧相な肉だが食われてやってもいいと再三告げている、それこそあの夜のはじめから。だのにこの強情で、偏屈で、世間知らずで、頭の堅い、見栄っ張りの、くそまじめな、×××は、どうしようもなく救いがたい分からず屋で、清らかだった。
「わたしがもて余しているのはなにも暇だけじゃない、持ち物は山ほど、これ以上望むべくもない程に恵まれている。一体誰に嫉妬する?」
「わたしのきょうだいに」
 ビショップが歩みを進め、ついでにわたしの兵をひとり減らした。虚を突かれたといっていい、彼がこれほどくだけた文脈で“きょうだい”の事を口にする場面になど行き逢ったことはない、苦悩、哀れみ、憂いや単純な思いやり以外のものは携えなかった、寛大な司祭があれを赦し、祈るときには。努めて他のものを見いだそうとする酔狂は快不快、幸不幸のいずれも後者を招く。益のない遊びは大好きだが、害を撒き散らすだけの愚行はわたしの主義に反する。
「死人だ。馬鹿馬鹿しい」
「他の誰に対しても、きみはそんな吐き捨てるような言い方はしない。いや、確かにそうだ、こちらが話し終わるまで口はつぐんでいてくれ。きみはだいぶうるさくなった。祈祷の時間は知っているね、だいたいそれが始まるあたりになると顔を出し、まるで母親の針仕事を邪魔する子どものように──いい子だからもう少し口を閉じていてくれ──わたしに構ってこようとする。わたしが渇いている時には殊更にひどい。きみは知っているからだ、そういう時期にはわたしがきょうだいのために特別長く跪いてやるのを。つまり、我慢ならないんだろう。わたしが彼を愛しているのが」
 彼はなかば勝ち誇ったように頬杖をつき、頭を斜にしてわたしの様子をうかがった。わたしはというと、瞬きの仕方も忘れ、ほとんど青ざめて間の抜けた顔で(そうに違いない、唇だってだらしなく緩んだ隙間をそのままにしている)、彼の瞳にはぜる遊び心の欠片を追っていた。
「あれを」やっとのことで絞り出した音は、情にすり潰されてひどく醜いものになった。「愛しているのか」
 きみの顔は優しく綻んだ。
「ああ」
 次の言葉が継げなかった。わたしのこわばった指が駒の並びを崩し、ゲームを台無しにする。彼はこの失態を面白そうに眺めていた。誰を愛してもいいなどと嘯いていたわたしは紛れもなくあの夜から続く長いショーの道化だった。はじめから分かっていたことだ、彼はこの世の何もかも愛せるようにできている。ちっぽけなわたしが多くを望んでも、海をまるごと鉢に移そうと試みるようなもの、あるいは空を畳んで鞄に収めようと企んで、腕のなかの風をかきまわすいかれ(・・・)、どちらにしろお笑い草だ。
「わたしはきみの家族にはなれない」ようやく拵えたお喋りは、わたしが大嫌いな自己憐憫の響きに満ちていた。
「兄弟にも、友人にも、恋人にも。仇にすらなれない。わたしはきみが居ればそれでいい。わたしにとってきみは母であり、兄であり、妹で、飲み友達で、賭けの相手で、婚約者」めちゃくちゃになった盤に目をやる。「それからチェスの好敵手だ」
 この会話とも呼べない不格好な代物が、どこに着地するやら見当もつかなかった。わたしは生まれて初めて自分の言ったことを取り下げたいような気になり、それを聞き終わった彼はそっと手をのべて、倒れたままだった青毛を立ちあがらせてやるのだった。