復讐するは我にあり

 何に遠慮しているのか、きみには密やかに移動する癖があった。いまも慎重に書斎の扉を寝かしつけ、まだ読みきれていない下らない寓話の棚へ歩み寄るところだった。が、はたと止まる。わたしが頭に布を巻いているのに気づいたらしい。どうしたのか、と尋ねる気配がした。先手を打つ。
「わたしとしたことが、仲間の悪戯で目をやられた。そんな深刻なものじゃない、二三日休ませれば元に戻る」
 歩み寄ってくる足音はいつもより大袈裟で、わたしは頬を緩ませた。この司祭は常に病めるものの味方だ、わたしの耳はそんな配慮がなくとも正しく彼との距離を測るが、実際役に立つかより文字通り歩み寄りの姿勢を示すといった意味合いが、この優しい音には込められていた。
「そうか」彼の手のひらの細やかな重みを肩に感じる。控えめな乳香の香が漂い、わたしは胸の内に幸福が流れ込むのを感じている。彼が傍にいる。「それでは悪さもできないね」
 真面目くさった節制に、愉快そうな匂いが混じる。友人を憐れみながらも、ひとつこいつをからかってやろう、などといういたずら心が騒いでいる、そういう状態だ。わたしは開けたままの左目で彼を探した。方向は合っていても相手の眼の正確な位置まではわたしといえども把握できない。はた目にはなんの問題もない瞳が細かくうごめいて見るべきものを探している様子は、さぞやおぞましく、薄気味悪いことだろう。にやにやしているわたしを見かねてか、きみはついに悪戯を決心したようだった。
「いや、そうでもないようだ。きみは人がやり返さないのをいいことに、悪いことばかりして……」
 肩に置かれていた手のひらが首の後ろまで滑り、わたしの襟を引いた。肌寒さを感じるうなじの上に、すぐ温かいものが押しあてられる。歓喜に震えるわたしの皮膚が万雷の拍手をもって歓待する、これは彼の唇だ。いつもわずかに乾燥しているのは、夜じゅう寝付かない子供が寝息を立てるまで歌ってやっているからというのもあるだろう。 わたしは彼の軽い口づけに対し冗談のひとつでも返してやろうとして、濡れた感触に凍りついた。この罪深い男はわたしの悪ふざけの真似をしているのだった、骨の凹凸を舌でなぞり、時折歯を立てながら(それは彼にとって、ともすると存在を危うくするほどに危険な行為だった)わたしを丹念に味わっている。完全に盲たわたしの感覚は、おとぎ話で言い伝えられるある種の力の助けを借りていっそう鋭く研ぎ澄まされ、日ごろ覆い隠されている捕食者としての彼を全身で感じていた。わたしはもう少しで哀願するところだった、どうかきみの質素な食事にわたしの血肉を加えてくれと。
 彼のほうもまた、意図したよりも激しくこの贄を欲したことだろう。だが荒々しい死と飢餓は未だ無邪気な喜びの(まったく無害なもの)層の下に沈み、彼自身の目を欺いているようだった。この二頭の獣の存在に気づいたならば、彼は今頃間違いなく罪悪感に打ちのめされている。唇が徐に離れていったあと、わたしの乱れた呼吸を知ってわずかな困惑を滲ませた、だがそれでもまだ楽しげな声が鼓膜を揺らした。
「アーサー?」
「ロス……」わたしは息も絶え絶えというありさまだった。「いまのはわたしの目が治るまで絶対にしないでくれ」
「どうして」
「どうしてもだ」
 彼の甘い好奇心がわたしの鼻腔をくすぐった。この男は他人の傷には目敏い癖に、たまにひどく鈍くなるときがある。今がそうだ。そしてこういう場合は決まって、わたしが一番してほしくないことをする。
「理由があるならはっきり言ってくれ。今のきみの状況が原因なのだろうけど、わたしにはよく飲み込めないんだ。以前にもしたことだし……とにかく、何が悪かったのか分からないと、きみが嫌がることを繰り返してしまうかもしれない」
 質が悪いのは、これがわたしを困らせようとして紡がれた言葉ではないということだ。このふざけた聖職者くずれは本気で、動揺しきりのわたしを思いやっているつもりなのだ。
「でははっきり言ってやるが、きみの言葉を借りればあれは姦淫だ。普段ならあの程度の刺激は軽くいなして笑えもするが、いまのわたしは感じやすいんだ。ひとを罪人にしたくないなら──」
 わたしは言葉が継げなくなった。このあたりで例の罪悪感というやつが彼の香りを塗り替えると予想していたが、そうはならなかった。それどころか彼の無垢な好奇心に、嗜虐的な快楽らしきものが混ざりこんでいる。わたしはそれを、次の一言によってそれが“らしきもの“などではなく、間違いなく背徳的な愉悦に属するものであると確信した。未熟な牙を並べた獣が微笑む。
「では今のきみはわたしと同じということになるのだね。きみはいつもわたしに罪を犯させようとする……」指先が軽やかに首筋を撫ぜ、わたしの背に甘い痺れが走った。「少しは自分でも味わったらいい。アーサー、一度きみをとことん困らせてみたかった」
 わたしはその後、目が治るまでずっとびくびく怯えて過ごすことになった。さながら傷を負った雌牛が取り囲む狐の足音に弱々しく角をふりたてるようなわたしの抵抗は、獲物をなぶる捕食者を益々昂らせていくだけだった。具体的には、彼を避けて屋敷を移動してみたり、彼から離れて庭で食事をとってみたり、鍵をかけてみたり……というものだったが、使用人はみな誠実で優しい司祭の味方だった。ここはわたしの屋敷のはずだが、実際は敵陣のただ中だったらしい。頼まれるまでもなく、使用人はあっさりと彼に鍵束を渡した。夜はとくにひどかった、彼は客用の部屋に隠れていたわたしの傍らへかがみこんで、歌の合間に耳介を食み、足りない指に頬をすり寄せ、そのどちらもを舌先で弄んだ。シーツの上で無様にのたうち回るわたしを追い詰め、わたしの愛する化物は幸福そうに笑った。
「もっとよく顔を見せてくれないか。そんな風に恥じらったりして、きみらしくもない……」瞼の上へ落ちた口づけに安らぎかけたわたしの心を、次の一言が齧りとる。「きみはときどきかわいい」
 彼は鉤爪の下の獲物に息継ぎをさせた後、再びそれを溺れさせようとした。
「やめてくれ、ロス、わたしが悪かった、もうやめてくれ、ああ、あっ、あっ……」