窓辺の聖者

 「痛そうだ。最近のきみは少しばかり不用心が過ぎる」
 彼の左手の指先から手首のはじめまでを、グロテスクなまだら模様が覆っていた。雨と降り注ぐ火の粉を手の甲に受けて遊んだような有り様で、糜爛した皮膚のばら色は恋慕に乱れた乙女の頬、尽きぬ痛みに潤んでいた。実際の彼のほうは至って平然としている。礼儀知らずのわたしの指が傷の上を粗暴に滑っても、咎めるそぶりさえなくそれを眺めているのだった。彼はさながら子犬の甘噛みを許す母犬で、事実、躾の足りないわたしの歯を慰めてくれることはこれまでに幾度もあった。このやさしい母の青ざめた皮膚を裂いて、健やかに流れる温かい血潮を啜れたらどんなにか幸福だろう、などと夢想したこともある、あるにはあったが、それは倒錯だった。屈折したユーモアのおかしみが先に立ち、わたしはついぞ実行する気になれずにいる。
「あのままでは日に焼けてしまうと思ったから」
 傍らには一冊の本が呑気に寝こけていた。昨晩わたしが放り出したもので、中を確かめるまでもなく、彼のような人種が最も尊ぶ書物だった。
「ここにもまだ代わりはある。それにすべて駄目にしたところでこんなもの」わたしは思いがけず露骨に混ざりこむ悪意に、我がものながらたじろいだ。「どこでだって同じのが手に入る。退屈な本だ」
「同じではない」
 寛容な司祭は無神論者の幼稚な冒涜に顔を綻ばせた。この茫とした薄暗がりにおいて、それは在るだけで疑り深い商人に奇跡を信じさせる、静謐で厳かな微笑だった。
「昨夜のきみが熱心に読んでいたものだ」
 彼の弛緩していた指に、わずかに力がこめられる。それはわたしの罪深い左手を、慈悲深く赦そうとしていた。わたしは注がれる彼の視線をまともに受けとめた。この男の肌を清らかに化粧うのは、鉛白でも真珠でもなく、気品と高潔さだった。魂に根づく信仰は内からその貌を照し、ともすれば冷淡にさえ感じられる鋭い面差しに、柔和なやさしさを与えていた。たとえようもなく美しい。わたしは全く衝動的に、宵闇の紡いだ絹糸、彼の髪に頬を寄せてその香りを心ゆくまで味わいたくなった。腕を伸ばせば抱擁が返った、きみは常にわたしを赦す。 呆れたように小さく声を転がしながら。
 わたしは呼吸するごとに彼を貪りたくなった、否、彼に貪られたくなった。やにわに気づく、きみの穏やかな日常の匂いの下に、もうひとつの層が隠されていることに。斃れた雌牛から流れ出たそれとは遠く、首の折れた侯爵夫人を彩ったそれとは異なり、病の床の祖父をくるんでいたそれとも違う、どことなく淫靡で陶酔を誘う香りだった。昔作った薬にこういう類いの匂いがあった、あれを付けるとみなわたしに食われたがったものだ、被食者を麻酔にかける蘭麝。
「きみからは死の匂いがする」
 身を起こすと、彼はただ体温を懐かしがるような顔をしていた。次いで、潮が引くように血の気が失せていく。
「軟膏を塗っておくといい、わたしの薬棚の三つ目の段、左端の瓶だ。また食事の時に」
 わたしは顔も向けずその場を離れた。彼もわたしを見なかった。神聖なものがまた、窓のそばに置き去りにされた。