句点

 熱心に机に向かうアーサーに何を書いているのか、と問うと、彼は顔も上げずに日記だと答えた。わたしは彼が気にしないのを知っていて、好奇心の赴くままに文字を追った。『ロス・イリングワースはその骨ばった手をむき出しになった友人の首元に滑らせ』……
「これはいつの出来事かな」
 友人は悪びれる様子もなくこう言い放った。「昨日だ。きみの夢を見た」
 珍しくもないことながら、毎度彼には呆れ返る。わたしはわざとらしく嘆息し、机の端に寄りかかった。恥知らずの大作家は機嫌よく筆を進めていく。軽やかに動く右手が優雅にインクを足し、指の足りない左手は恭順な従者のように静やかに紙を押さえ、昨日のわたしが彼のシャツを引きむしるのを手伝っていた。冒涜的な文言が次々と並び、愚かな司祭気取りがなまくらな牙を突き立て、贄の血潮と外気を隔てる最後の障壁を裂いてしまったところで、現実の不埒で怠惰な子羊はペンを放り出し、飽きた、と呟いた。その様子があまりに子供じみていて、また表情がひどく真面目くさって真剣そうだったので、わたしは思わず笑ってしまった。すぐに色違いの瞳がこちらを伺う。美しい朝と夕の空に、いたずらっ気の星が瞬く。
「何がおかしい? この日記の内容か? きみはこの卑俗なわたしを随分高潔な男にしたいようだが、わたしだって劣情くらい抱く。本物のきみが他人を辱めるのはお好きでないようだから、こうして絵空事の世界で好き放題夢見るままに貪って頂いて、いわば自慰で満足しているわけだ。害はない」
「あるとも。事情を知らない人間にこんなものを読まれたら、わたしの名誉に関わるよ」
 もちろん冗談だ。もとよりわたしに名誉などないし、そうした類の財産を欲したこともない。それに滑稽なほど脚色されてはいるものの、ここに描かれた欲望それ自体は、確かにわたしのものだった。疑いようもなくわたしは化物で、仮に自制心を失うようなことがあれば間違いなくこの滑稽な悲劇よろしく、与えた無残な傷口から、誠実な友の生命を残らず啜り尽くしてしまうのだろう。
「事情を知らない人間。例えば誰だ、弟か? いいかもしれない、あの男はきみを少々誤解している、無論一側面としては正しいが、“屋敷に囚われた善良な司祭”というのは、わたしを悪魔に仕立て上げようとする小道具に過ぎない。いや、きみを利用して薄汚い欲望を満足させているという点ではわたしはあれの言う通り悪魔かもしれない」無邪気に転がす笑い声は耳に心地いい。「それともわたしの馴染みの客がいいか。あの男はこの程度ではとても……」
「彼の話はやめてくれ」
 わたしは不愉快な記憶に眉をひそめた。件の客は仕立てのいい服とよく整えた口髭で周囲の人間を欺いてはいるらしかったが──神よ、他人についてこのように悪し様に語ることを許し給え──たった一日この屋敷に居座っただけでわたしの顰蹙を買うには十分な、品性の欠片もない、粗野で暴力的な男だった。ことに耐え難かったのはアーサーの扱いで、自分が主人であるかのようにあれこれ指図するばかりでなく、あろうことか、わたしの目の前で彼を、すっかり足を洗っていた質の悪い遊びに誘いさえした。幸いなことに、イエスの一言に耳を塞ぐ必要はなく済んだ。だが拒む理由が「彼が嫌がるからやめてくれ」だったのは、いずれまた話し合うべき課題として今日まで残されている。
 苛立ち混じりの沈黙は放蕩貴族の舌の上で溶け、娯楽の少ない彼の心を和ませたらしい。おしゃべり鳥は歌うようにこう告げた。
「だが彼のお陰できみの嫉妬する顔を見ることができた。きみお気に入りの無欲もかたなしだ、あの日の夜ばかりは歌ではなく別のものが欲しくてたまらなかった」
 わたしは再び嘆息する。「近頃のきみは本当に欲深になったよ」
 彼は描きかけの日記の上に肘をつき、指の背に頬を乗せた。そのまま上目遣いにわたしへ視線を送ると、唇を少し開いて微笑む。整然と生え揃う牙の並びはいつだって人と獣の境を曖昧にした。
「わたしはもとから欲深だ」薄い瞼が閉ざされ、器用に左だけが開かれた。「昔はもっと興味の行く先も散らばっていたがね。いまはどんなささいな願望も全てきみに結びつく。こんなものはただの戯れに過ぎないが……」青い瞳が当てずっぽうに紙の上を滑る。「この戯れの中の男と同じく、必要とあらば躊躇うことなくきみにわたしの生命を捧げよう。まあ、よもやきみが己の飢餓の前に膝を折ることはあるまいが。例え話だ。“貪るなら是非わたくしを”」
 この享楽的な好事家が冗談に溶いて差し出す真心を、近頃のわたしはよく味わい分けることができるようになっていた。閉ざされたままの左瞼に軽く口づける。いつか彼がしたように。わたしたちはこういう時いつも笑った。彼に向き合うと、閉ざされていた左の瞼が開き、美しいはしばみいろが現れた。わたしはペンをとり、書きかけの日記にこう付け加えた。
「“ロス・イリングワースとアーサー・ザカライア・ブラッドフォードは幸福に暮らした。おしまい”」
 彼は拙い文句を読み上げて、楽しそうに肩を震わせた。喉の奥からくつくつと声が漏れる。「一言足りない」
 彼が下手くそなハミングを始めると、ペンを握ったままのわたしの手が動きだし、先程の「幸福」に優美な飾り文字を添えた。彼の起こすささやかな奇跡をこの身で感じるのは、彼がわたしを自由にしたあの時以来のことだった。この魔法使いは無邪気ないたずらにさえ、友に対して力を使わなかった。
「いつまでも」
 咎人ふたりが揃ってそう口ずさむと、窓の外から小鳥のさえずりが聞こえた。ニワトコの枝の上で、こまどりが歌っている。