長い文句・短い本音

 彼は柄にもなく無茶をしでかしていた。背もたれもない粗末な椅子の上で、本も読めずに手をぶら下げている。火膨れだらけの両腕で剥がれた薄皮が波打ち、憂いを帯びた端正な顔も、興ざめな赤白をまとって醜いまだらにただれていた。同胞の力を借りるべきかもしれない、痕が残れば怒りもあとを引く。
「きみは」艶のある黒髪の端が褪せていた。歯の根が疼くのが抑えられなくなりそうで、無理に口角を引く羽目になる。「まだ日傘もなしに真昼をうろつける身分ではない」
「いつどこに行くかはわたしが決めることだ。誰となにを話すかも」
「口ごたえか」
 青い目が睨めつける。「別に痛くもない」
「成る程。神の家では嘘のつき方を教えているのか?」
 なんということを、そんな風にきみの眉がひそめられ、わたしは心底愉快な気持ちになった。まったくだ、なんということを!“痛くもない”など、それは痛むに決まっているのだ。きみは未だに朝を迎えられずにいる。
「きみこそ偽るな。なぜ否定しなかった。彼はきみを化物と罵り、わたしを虜囚か、でなければ妾のように」
「やめろ」続きは聞きたくなかった。「これは個人的な問題だ、放っておけ。彼が侮辱したのはこのわたしだ。愚者の呪わしい悪趣味に巻き込むなと言ったのだ、清い人を」
 怪我人はあごの先から滴ってくる透明な汁を手で受けた。伏せた睫毛の下で、うんざりした、と強がっている。顔を歪ませるたび、火傷にまとわりつくインプはその皮膚を、新しい針で突くらしかった。
「わたしは清くなどない。そう言った筈だ、あの夜に。なぜ弟に嘘など差し出す必要がある。それとも疚しく思っているのか? わたしのようなけだものを飼っていることを」
 今度はわたしが顔を歪める番だった。「よくも平然と嫌味が言えたものだな! 誰より自分の身の上を恥じている癖に。普通の人生に執着したりせず、大人しく与えられた夜を歩いたらいい! そう生まれたのだろう! 地虫には地虫の居場所がある、暖かい土くれの隙間では満足できないか? 死出虫は果実の汁を舐めるより死骸の脂を齧っているほうが幸福だと納得できないか?
「きみは年じゅう腹を空かせているのに、自分のことは棚に上げて、わたしの偽りをあげつらう気でいるな。どういう立場なんだ? きみの正義は神とかいう、どこで何をしているかもはっきりしないやつの名のもとに、ありもしない罪を暴こうとする。わたしがきみの罪を糾すときは、わたし自身で署名する、われわれの掟はただひとつ、“己を欺くなかれ”。草を食む生き物はいかにも無垢で祝福されて見える、他者に害をなさず、つつましく野に遊ぶ……ふざけるな、彼らは貪欲な捕食者だ、その生の大部分を飢餓との闘争に捧げている。小さく、か弱く、ふわふわした、いつまでも子供のように無邪気で純粋な彼らは、決められた時期が来れば──あるいは余裕のあるときならいつでも──雌雄交わり子を為して、より大きな闘争に必要な兵を抱えようとするのだ。彼らを引き裂く牙をそろえた獣たちは、息の根を止めた獲物が母親であったとしても罪の意識に苛まれたりはしない、腹に詰まった思わぬ贈り物、まだやわい胎児の骨をゆっくりと味わうだろう。そして的はずれな批判者の罵倒は文字通り歯牙にもかけず、暖かいねぐらで自分の子に乳をやり、慈しみぶかく育てるだろう。口元を獲物の血で汚したまま。彼らが勝ち取った正当な報酬だ、獲物は彼らを生かすために神が用意したのでなしに、彼ら自身が生まれ持つ道具に合っているだけ。そうでなければ、狙うものに適した道具を作り上げ……そうやって食い、食われ、生きて死ぬ。あるがままに。
「きみは光の中を歩みたいという、構わない、きみが夜歩くことを定められた生き物である同じ身体の内で、光を希う、そう生まれついたことはこのわたしが誰よりよく知っている。好きにしたらいい。地虫の幸福に我慢ならないならそれでいい。だが他人を裁くなら、きみ自身の名のもとにやれ。あのかわいい頑固者の弟がわたしに刃を突き立てるときは、必ず自分で研いだ憎悪を使う。誠実に! わたしを愛しているから。けだものであるわたしを決して否定しない。わたしはけだものだ! きみが司祭だろうと娼婦だろうと、そこになんの差異がある。どうするつもりなんだ?わたしが本当にきみを貪っているのだとしたら! わたしの弟を侮辱するのに、わたしの名を使おうとするな」
 冷ややかに結ばれた彼の唇の無残なありさまに、昼間起きたことの顛末が重なる。
『兄上が人を買うのは知っている、だがあれが使用人か?とてもお仲間フリークスには見えない。何の為に手に入れた。賛美歌を聞いたぞ。この吸血鬼め、一体どんな罪業が彼を運んできた』
 弟が血を分けた兄と親しんでいるあいだ、彼は馬車の中で大人しく手遊びでもしていると思っていた。わたしは全く油断していた、きみはとんだじゃじゃ馬だった。
『このような』
 その時の弟の、そして振り返った時の自分の間抜け面を、あまり想像したくはない。恐らくそっくりだったろう、きみは降り注ぐ麗らかな午後の陽光の下、死を受け入れた聖女のように(無力な火を嘲笑う本物の魔女のように)、ただ穏やかに微笑んでいた。
「アーサー、いい加減にしてくれ」
屑野郎×××××
 上品な彼は面食らった様子でいた。性懲りもなく子供じみたことをした、それに気づくのは一呼吸ぶん後になる。自らの正体が司祭だろうと娼婦だろうと、聖者だろうと化物だろうと、きみは苦しみばかり選ぶ、結局、それが身勝手なわたしには我慢ならないのだ。わたしはきみの居る夜なら新月だろうと怖くない。きみが望むだけ傍にいて、どこまでもきみといきたいのに。そう言えばよかった。