残り香

 今日はいい、というのが彼の伝言だった。それを伝えたくしゃくしゃの髪の小人は、旦那さまはお楽しみ、と楽しそうに呟き、びっこを引きつつも軽やかな足取りで庭に出ていった。屋敷に人を呼ぶことはこれまでにもたびたびあった。以前は夜通し浮かれ騒ぐのが常であったそうだが、この場所で暮らす人間がひとり増えてから、深夜に差し掛かる頃には客人も全て返されるようになっていた。今日までは。わたしは彼が浮かれた付き合いのために毎夜の習慣を諦めることを、どう捉えればいいか掴みかねた。息をつくと、さっきの使用人の笑い声が耳に入る。誰か外に居る人間が、下品な冗談をひとつふたつ言ったらしかった。他の屋敷では使用人もこれほどの慎み深さをもちえないが、ここで彼らが仕える主人はあらゆる悪徳への寛容さで知られていた。あっけらかんとした二人のやりとりを聞いているうち、自然と笑みがこぼれる。そうだ、あの男の一晩の冗談を深刻に受け取って何になる、招かれた人々がこの世の終わりまで居座るわけでなし、彼にとって、すなわち貴族という人種にとって、人付き合いとはそういうものだ。窓の外でまた笑いが弾けた、厚手のカーテンの隙間から窓の外を(もちろん陽光に身を晒さぬよう気をつけながら)覗うと、恥じらいもなく大口をあけ手を打ち鳴らし、おかしくてたまらない、と言わんばかりに身をよじっているのは、今朝がた空いたグラスに水差しを傾けてくれたメイドのうちのひとりだった。
 手元のランプのごくささやかな灯りだけで夜の読書には十分こと足りる。階下の歓談と時折の鈍い物音は、活字の上にまで昇ってはこなかった。今ごろ彼は手品でも見せていることだろう、昼食の席で身内に向かってその種と仕掛けをばらし、愉快そうに目を細めていた姿が脳裏に浮かぶ。まばたきすると、頁の上では、飾り文字に腰かけた魔法使いが王族を虫に変えて笑い転げているところだった。この本を作ったものは、なぜこんな話を豪奢な装丁に包む気になったのだろう? 屋敷にある全ての物の持ち主を思い、頬が緩む。ここに集まってくるのは主と同じように風変わりなものばかりだ。蛙と魔法使い。着飾った高貴な人々を片端から突いてまわる、やや歪んで不揃いな三本の指。触れられた男も女も、みなそのとりどりの衣装のままに、色鮮やかな蛙に変わってしまう。そして悪ふざけに興の乗った魔法使いにつままれて、次から次へと人のみにされてしまう。肉食の生き物が揃えるような鋭い歯列の合わせ目が開き、放り込まれていく丸々とした蛙たち。
 身近な人間を配役にあてた楽しい想像は、耳慣れぬ物音に打ち切られる。裸足のたてる柔く乱れた足音が、徐々に近づいてくるようだった。だからといって、席を立つのはためらわれた。それは厚い壁と空隙を挟んでなお小さな物音を捉えることができてしまうのを、つまりは自分が普通の人間でないことを認めるのに等しく思われた。靴の代わりに不安の影を伴った足音が部屋の前に辿りつく頃には、活字のもたらした空想の余韻もどこかへ失せてしまっていた。扉はあっけなく開け放たれ、白い肢体がすべりこみ、音もなく閉まる。女だった。絹の布一枚を身にまとい、上気した頬は明かりの乏しいこの部屋においてなお、華やかなばら色に染まっている。女は幼い顔を綻ばせ、視線を部屋の主の輪郭に沿ってゆっくりとめぐらせると、わざとらしく唇をなめた。
「ここで休んでもいいかしら。ねえ、わたしったらひどく疲れているのよ」
 酒気帯びの女のなよやかな身体が、絨毯の上でなめくじのように(あるいは大理石の女神のように)、ランプの弱い光に肌を透かして横たわる。
「ほんとに疲れたわ。疲れた。彼、とっても激しいから」
 光沢のある薄い布地の陰影は、下にあるものを隠しはしない。なだらかに波打つ彼女の稜線は良識の位置で止まった。すなわち、部屋の隅の暗がりに。直視するには勇気がいる、それこそ自らが“普通でないこと”を受け入れるよりずっと。その類の蛮勇を身につけることなど願いさげだった。
「してくださらない?」
 視界の端の白がうごめいた。ここで目を瞑れば了解と映るだろうが、かといって口をきいてやる気にもなれない。毒を流そうと牙を立てて待つ蛇に向かって、囁くべき言葉を知らなかった。もう一つの足音が近づいてきたとき、それは救いの鐘の音に聞こえた、扉の陰から彼が姿を現すまでは。開いた襟元にはうっすらと血が滲み、解かれた赤錆色の髪の先が、わずかな空気の流れにも揺れる。普段の彼となんら変わりなく、瞼の甘やかな曲線に縁取られた瞳は豊かに潤いを宿し、淡い血の気を透かす唇は、微笑みのかたちに結ばれていた。
「こんな所にいたのか」男は色違いの瞳で友人の顔を一瞥し、眉ひとつ動かさず、床に転がった女へ喋りかけた。「このあたりに来てはいけないと言ってあっただろう」
「あら、聞いた覚えはなくってよ。彼、あなたの何なの? 三人でもいいじゃない。楽しそう」
「彼はいい。こういうことにはあまり興味がないからね。続きは向こうで」
「嫌よ」女は水遊びでもするように、交互に脚をばたつかせた。あけすけな誘いの仕草に、薄布がかろうじて隠していたものが露になる。もう沢山だ。瞼の裏の闇がちらちらした。「どうしてだめなの? ねえ、そういうことなんでしょう。こんな大事に隠しているくらいなんだから」
「やめろ」
 厳しい声色に目を開くと、男は身をかがめたところだった。薄笑いを貼り付けたまま、わずかに開いた唇の間から、獣じみた鋭い歯をのぞかせている。女は白けた様子もなく、人を蕩かすような甘えた声で、はあい、と返事して立ち上がり、差し出された手をとって出ていった。誰も居なくなった部屋にはたちまちのうちにもとの静けさが戻り、ランプの炎は安らかに揺らいでいる。
 彼、とっても激しいから。続きをするという“向こう”が彼の寝室でなければいいと思った。いまは暗いだけの空白に、媚びたムスクがいつまでも香った。