口は災いのもと

 頬に触れた手をはたき落としてやると、きみは心底意外そうな顔をした。こういう時、彼は愛くるしいと言っても構わないほど幼く見える。最後の一小節が終わってもわたしは眠りに落ちてはおらず、髪をよける指先がもう少しだけ下に滑るのを見逃さなかった(おかしな表現だ)。彼の開きかけの口から覗く舌先から、問いらしきものが転がり落ちる。ただし外ではなく内へ。言葉もなく過ぎた数拍を取り繕うように、どこからか歌が聞こえた。ひどく嗄れた声だった。
「わたしはきみからの見返りなど」無用な目玉の上で、わからず屋の左瞼がささやかに痙攣した。「欲しがったことはない」
 主人が寝ているというのに、召使の歌は構わず続いている。節回しは巧みで、木の皮をはいだような声は不思議なほど朗々と響いた。さっき叩かれた片手はわたしとの間で所在なさげにぶら下がっていて、彼の唇はまた何か言いたげに動く。血の気に乏しい皮膚の下、アダムのりんごが浮き沈みしてもう一拍が過ぎる。そしてきみの喉は今度こそ、意味のある音を奏でるらしかった。
「わたしはただ……」
「ただ?」
 無垢な驚きが引っ込んで、苦悩する聖者の尊いかんばせがとって代わる。痛ましく伏せた目、薄い瞼の描くあわいカーブ、落とされた翳はこの男を一層清らに見せる。わたしは舌なめずりしたくなった。
「きみは今までそういうつもりでわたしに触れていた訳ではないだろう」
 流れ出た言葉を、丹念に裂いて噛み砕く。苦味ばしった殻の中身はどうしようもなく甘い、間違いなくきみはわたしを愛していた。
「いかにも。きみはうまくいなしてきた、こういう手のつけられないけだものを、無害な子羊にしてやるように撫でまわし、上手にあやしてみせたね。“素晴らしい夜をありがとう”、それ以上を望むなら今すぐにでもこの部屋を出て、神の膝下に帰ったらいい。彼のつま先に頬を寄せ、接吻し、裾に縋って乞うたらいい、どうか慰めをお与えくださいと。どうだ? 彼は与えてくれるのか?」
「いいや」
 嘆息。そして続ける。「少しくらいはわたしの信仰に敬意を払ってくれているものと思っていた」
 黒髪の間からこちらをまっすぐに射すくめる瞳は、初めて会ったときと変わらず青かった。この色をどう形容したらいいか未だに分かりかねている。この世にはこういう色を表すのにふさわしい言葉が存在しないのだ、強いて言えばその双眸に惑う光は、凍てついた湖面に穿った昏がりを横切る鱗、その一瞬の煌めきに似ていた。
 わたしは小難しい話を続けるのが面倒になって、彼に背くように寝返りをうった。骨ばった長い指が肩に触れ、離れていった。寝台が軋み、遠慮がちに扉が閉ざされた。使用人の陽気な歌は、いつの間にか終わってしまっていた。