それが単純な飢餓なのか考えたくもない別種の欲なのかわたしには判別できなかったが、どちらにしろ今日ばかりはひとりきりで過ごしたかった。正確にはひとりでどうにかこれをやり過ごし、早急に元の静穏な暮らしに戻りたいと望んでいた。わたしは朝食の席で友人の悪趣味に付き合いながら──よりにもよって血のソーセージが供された──どうも体調が優れないから夜半の訪問は見合せたい、と切り出した。彼は暖かい思いやりの言葉を幾つかと祈祷の文句を口にして(わたしの神へではなく異教の民がその名を讃うものに向けて)、行儀よく茹で卵をかじりつつ、夜だけでなくまる一日放っておいて欲しいというわたしの申し出を快く受け入れた。放蕩貴族はいつもの気まぐれを起こして病人を煩わせに現れることもなく、わたしは一抹の不安もすっかり捨て去り読書に没頭することができた。合間には彼が使用人に運ばせた茶と菓子を楽しみ、また彼らと談笑し、カードを携えやってきたジョゼフと遊び、時折流れてくるフィドルの音色に耳を傾け、不愉快な疼きを和らげてくれる奏者の寛容と理解へ感謝の呟きを捧げたりもした。
寛容と理解? とんでもない。わたしは眠りに落ちる間際になって、この男への評価を翻すことになった。彼はいまわたしの寝台の上で、わたしの肩口に頭を預けて寝息を立てている。そのかんばせは彫刻された聖女のように美しく無垢であったが、困ったことにその身体は清らかな冷気を纏う大理石ではなく、ほのかな温もりを帯びた肉でできていた。意味するところは健やかに保たれた生命であろうとも、それが彼の指先まで巡らした上等な葡萄酒は初冬の夜気のなか、いやが上にもわたしの心を波立たせた。夢に遊ぶ幼子が身じろぎするたび、その熱は形をかえて罪深い想念に怯えた肌を炙る。もう少しで何事もなく日を閉じることができそうだったのに。わたしは友の眠りを妨げるのも構わず呻きたくなった。ことの顛末はこのようになる……
わたしが冒涜的な怪物の物語をめくり終え、毛布の下へ滑り込んだのは真夜中を過ぎた頃だった。既に屋敷は静まり返り、灯を落とした部屋には、厚い窓覆いの隙間から眩しいほどの星明かりが差し入っていた。あるいはわたしが闇を恐れるかの人への後ろめたさから、そう思い込みたいだけだったかも知れないが。わたしはぞっとするほど詳細に思い描けるアーサー・ブラッドフォードの無防備な寝姿を頭の中から追い払い、明日を迎える支度をはじめようとした。
前触れなく扉が開いたのでわたしは面食らった。東洋ふうのガウンを羽織った彼の姿が戸口に現れたとき、自分がどのような表情で出迎えたかを思い出すことができない。とにかくこの闖入者は折角育ったわたしのまどろみを、まるで躊躇なく撃ち殺してしまっていた。
「なぜ驚く。ここは神でもきみでもなくわたしの家だ、巣穴の主がいつどこを歩こうと、間借りする地虫は気にしない」彼は闇にあっても鮮やかな色違いの目を細め、愉快げに声を転がした。「ここも元々はわたしの部屋だ」
「今日はひとりにしてくれと言ったろう」
「ひとり?」
我が耳を疑うとでも言いたげに、顔を傾ける。わたしに向けたのは聾になったほうの耳だ、馬鹿にしている。
「昼間のお客への態度とはえらい違いじゃないか、“神父さま”……」にたにた笑いの喜劇役者は最後の一言をひどく芝居がかったやり方で発音した。「この家の中で人間扱いされているのはこのわたしだけらしい」
鈍いわたしにも彼の言わんとしていることが分かった。そういうことだったのか。使用人たちのむやみと調子のいいお喋りを思い出し、わたしは呆れ果てて声も出せずにいた。ジョゼフがしつこくカードに誘ったのも主人の差し金だったというわけだ、楽しんで付き合わされた何ゲームかの結果も筒抜けになっていることだろう。惨敗だった。
「なぜわたしを避けようとする? こんなにも無邪気にきみを慕っている、こんなにも……かわいい子犬のようなものじゃないか。抱きしめて接吻のひとつでも恵んでやるのが情のある人間というものさ、いとしのムシュー・イリングワース、かほど冷血な男とは、夢にも思うておらなんだ……」
機嫌よく口上を述べながら、彼はガウンを脱いで投げ捨てた。ありがたいことにシャツは身につけているものの、釦はひとつも留められていなかった。骨の凹凸を透かした薄い皮膚、その下にあるものを思い、わたしは胸が悪くなった。否、卑しい欲を自覚して生唾を飲み込んだ。
「頼むからわたしを放っておいてくれ。わたしが訳もなくきみを遠ざけたりしないことは、きみもよくよく知っているだろう。明日になったらいくらでも付き合ってあげる」
わたしの嘆願は彼の歩みを止めることができなかった。よく躾けられた野良犬は有無を言わせず寝床へもぐり込み、丸くなった。わたしの肩に頭をすりよせる様子はまさに親に甘える子犬そのものだったが、はだけた襟元から覗く白は目を逸らそうとする努力も虚しく、わたしの視線を釘付けにした。彼の辞書を借りるなら、その首筋はこのうえなく“おいしそう”だった。引き剥がそうと彼の体に手をかけた時、くぐもった声が耳に届いた。
「ロス……きみが貪り喰いたいと思うのは、わたしひとりなんだろう。それがどれほど、わたしを幸福にしていることか……」幸福だ、本当に幸福なんだ、と曖昧な呟きが混じる。「それに……きみがわたしを我慢していることが、どれほど、どれほど……」
その先は聞き取れなかった。なるほど、好き放題したらさっさと寝入ってしまうというわけか、なんという迷惑な子供だろう。
それからわたしは悶々と長い夜をもて余している。瞼を閉じても一向に眠気は訪れなかった。眠るために過ごした時間は昼の分も含めて全部無駄になった。思えば彼には我儘で身勝手な部分がある。自分は誰にでも好き放題身体を許している癖に、わたしを殴った男のことは半殺しの目に合わせたし、わたしがきょうだいのために使う時間を下品などんちゃん騒ぎで妨げてみたり、構ってやらずにいると人目も気にせずわたしのうなじを舐めかじり、咎めれば嫌味を雨あられと降らせてきたりする。わたしの方は彼が忙しいとき、蔵書の一冊で適当にあしらわれるというのに。
ふと目を開くと、暴君は満足げに微笑んでいた。わたしは溜息をついた。これでは憎めない。彼の鋭い嗅覚は肉食の獣が獲物を前にして発する獰猛さを捉え損なうこともないだろうが、それでもこうして安心しきって眠りに落ちている。これは彼なりの真心だった。彼はわたしの理性を、ともするとわたし以上に信頼していたし、仮にこの未熟な牙を突き立てようと、決して恨みはしないのだろう。すべてを知ってなお、きみは何もかも捧げてくれようとした。“それがどれほどわたしを幸福にしていることか”。わたしはこのあわれな男を抱きしめ、乱れた髪へ接吻をひとつ恵んでやった。彼を温めている血潮のことを、朝が来るまで忘れることはできなかった。