幕引き

 わたしは息を吐いて、それから苦労して身を起こすと、寝具の横の小机まで這い寄って灯りを消した。それからまたしばらく這いずって、ようやっと枕の決められた位置に頭を落ち着ける。このささやかな旅行はひどく骨にこたえた。投げ出されたままの左手の隅の瘢痕は、夜闇の中でしらじらと目にとまる。この頃、祖父のことがたまらなく懐かしい。わたしが愛していた彼はよく、その皺だらけの不思議とすべすべした手でたったひとりの孫の指を握り、わしの小さな王さま、と慈しみを込めて呟いていた。老人は死をもってしか終えることのできぬ病の床にいて、まだ新しい幼子の生命をなかだちに、もう二度と巡らない季節のひとつひとつを感じ取ろうとしていたのかもしれない。庭で摘みとった花や屋敷のまわりで集めた二三の木の実を大事そうに受け取ってくれる祖父の姿は、いまも鮮やかに思い出すことができる。あの部屋に満ちていた死の香り。いまやその源はわたし自身、ザカライア翁が生きた時間の半分程度で、わたしのそれは終わりになった。こんな物思いの最中は夜空でも眺めたくなるが、すっかり怠け癖の染み込んだ肺に鞭打つのも億劫で、もう一度頑張る気にはなれない。浅い呼吸のまま、頭をめぐらして星明かりを探す。首が痛んだ。思わず浮かんだ笑みはただ真横の景色に向かい、動かない視界の隅に、求める窓の枠だけが入り込む。月光は視野の外からさやかに差し込んで、色を失った絨毯の上に巡礼の道を引いていた。重い鞄を転がすようにして、視線を天蓋に戻す。たったこれだけの動作が、なんと難しくなったことだろう。自分が恵まれていると真に気づけるのは失った後だけだ、どんな賢者も他者の苦痛を空想より外に取り出すことなどできはしない。わたしは見知った顔をいくつも思い出した。不具の身体をありのまま自らのかたちとして生まれてきた彼らに対し、市井の人が抱くような、身勝手で傲慢な同情が芽生えてくる。こんな欺瞞は褒められたものでないが、きっと憐憫のやさしい眼差しで赦しを与えてくれるだろう、彼らにとってわたしは与えられなかった人で、手にしたばかりのおもちゃを見せびらかしてはしゃいでいる子供でしかないのだから。  ある芸人についての前口上(彼女は手のひらほどの長さの四肢をつかい、器用に跳ね回ってみせた)をそらんじていると、廊下の先に現れた気配があった。まだこのあたりはさほど衰えてはいない、それどころか益々役に立ってくれている。サイドショーの軽薄な音楽を頭から追いやって黙っていると、長く待ちわびた音がした。扉が開く音。次の音が聞こえる前に、瞼を閉じておかなければ。わたしが愛している彼の、毎夜(それはほとんど毎夜)行われる小さな独唱会。きみは枕元に腰掛けてわたしの為に歌う、わたしがまだ眠っていないことを知っていて、眠りに落ちるまでそこに居る。他の誰でもなく、天上におわす尊いものたちの為ですらもなく、ただひとりの為に喉を震わす。そして今夜もはじめの音は、ごく安らかに降りてきた。  これはわたしの血の杯。あなたがたのために流されて……

 あの晩のことを思い出す。
 埃と血と鼠の匂い、きみの魂に染み込んだ香油と古いインクの匂い、疲労とおそれの匂い、それから憎悪と慈悲の香り。額に触れる指先のわずかな重み。乾いたくちびるの間で紡がれていく清い言葉の並び。あの日すべて与えてくれようとした、私に愛を許してくれた、ひとりの人間。その手のひらの温かさ。あの日生きてくれようとしたきみ、今もここで生きているきみ、わたしの身体が思うように動かなくなってからも、この場所で安息と光をもたらしてくれたきみ。もう少しともに行けたらよかった、そう思い至ったわたしの口許に走ったほのかな痙攣を、彼は目にしただろうか? わたしの胸中のさざ波をささやかな沈黙で鎮め、この慈悲深い友はひとつの終わりに継いで、また新しい歌を口ずさむ。
 わたしのまなうらで、天鵞絨の緞帳に縫い止められた幾つもの星が、祖父の生きていた頃と変わらぬ光を投げかけている。その後ろに隠された暁を、次の幕を観ることなしに席を立つ。さよならも言わずに。お気に入りの与太話の通り、流れの先で勤勉な洗濯女が待つというエメラルド色の川へ、さっさと飛び込んでしまうつもりでいる。次の世界でも、またきみに会えるだろうか?