きみは夜が恐ろしいと言った。夜はわたしの小鳥をめくらにして、暖かいはずのねぐらから安息をはぎとってしまっていた。特に雨が──彼のきょうだいをひさしの下へ閉じ込める古い掟が降り注ぐ時には、羽毛を逆立て籠の底に縮こまり、なだめすかしても歌わなかった。 ほとんど真闇に満たされた寝台に、横たわりもせず膝を抱える姿はいかにも頼りなく、支えとすべき信仰はむしろ彼を責め苛むようだった。いまだ陽光は無情にその膚を焼いた。わたしが寄り添うと、惨めな生き物はわざとらしくさえ感じられるほどはっきりと身をこわばらせた。か細い声でわたしの名をさえずり、そのくせ腕の中からは逃れようと身じろぎする。虚しい葛藤とは裏腹に、稲妻が閃くたび、きみの中のけだものは嘴を鳴らして蠢いた。あらわになっていくのはまさしく本性というべきもので、父と子のように分かちがたく、教えに従って生を織る清廉な信徒と結びついていた。どちらかが偽りというわけではない、どちらもがただしくこの男の姿だった。
いたわりは獣の恐慌も和らげる。青ざめたきみの頬を撫で、耳ざわりのいい言葉をいくつか囁いてやる。内容はどうだって構わない、肝心なのはその音だ。こちらが落ち着いていれば相手の心の内も凪ぐ。思惑通り力の抜けた肩をやおら掴んで引き倒すと、喉元のあたりからかすかに呻き声が漏れた。きみは随分痩せた、自らのもたらしうる不幸に過敏になるあまり、ふつうの食事すらとらなくなったから。だが確かに、間違いなく、彼は恐るべき化物だ。鉤爪をひと振りすれば簡単に獲物の毛皮を引き裂いてしまえる捕食者の肉体が、わたし自身の無謀な渇きを受け止めようと手をこまねいている。わたしの半分はあの日の弟のように彼を拒んでいたが、もう半分は抗いようがないほど熱烈に、彼に抱かれたがっていた。高望みはしまい、組み敷かれたきみの鼓動は嫌でも耳につき、苦悩が獰猛な肉食獣の香りを清らに塗り替えている。本当は、本心では、本能では、この肉の間を流れる血潮で喉を潤したくて仕方がない癖に。無防備に眠るわたしを贄の羊と見まごうことを怖れ、部屋を訪うこともなくなった。使用人の誰をも遠ざけてつまらない暗がりの片隅に丸まっているのだ、そうしていれば身の内のけだものが彼を忘れ去ってくれると哀れに信じ込みながら。わたしは不必要に緩慢な動きでかがみこみ、彼の喉元の痩せた肉を啄んだ。首筋に沿って軽く歯を立て、阿片窟でしたように耳朶を食み、苦痛に歪む顔のどこともつかない場所を経由して口許にたどり着く。触れるだけの戯れに慣れた唇は、無遠慮に割り込んでくるわたしに怯えたようだった。だが閉ざされることはない、無理に阻もうとすれば最も罪深い形で渇きを満たす羽目になると分かっているからだ。なまくらな彼の歯先をひとつひとつなぞっている間に、震える手がわたしの髪を乱す。これほど長く他人を受け入れたことはあるまい、戯れ以上の触れ合いを求めることも、また求められることもなく、父母や兄弟姉妹の手によって引かれた道を、その望み通り(勿論彼自身もがそうと望むように)清潔に歩んできた男なのだ。愛すべき“きょうだい”がより悍ましい絆で道を断つまでは。そんなきみの口づけは当然のごとく拙い、おろしたての娼婦のように。それがたまらなく愛おしい。陶然とした彼のごくつつましく、しかし十分に熱を帯びた吐息を受け入れてやると、かたくなに閉ざされた瞼のへりが、音もなく夜露に濡れた。わたしはこれを雷鳴の助けを借りて盗み見、機が熟すのを悟った。身を起こせば期待したような涼やかさはなく、外の豪雨に湿気た夜気が流れ込む。それでも幾分ましなことだろう、最中の呼吸は乱れて浅く、きちんと用を成しているか怪しかった。荒く上下する胸のあたりに指を滑らせば、掛け金を外すように釦が外れる。むかし囚人を自由にした力が、再びその人を鎖に繋ぐのだ。皮肉でしかない。下らない冗談に愛想笑いをする余裕もなしに急くわたしは、滑稽なほど焦れた手つきで彼のシャツをはだけ、新雪に足跡をつけていくような気持ちで(あるいは処女地に踏みいる探検家を気取って)繰り返し口づけた。彼の素肌は上等なバターのようにわたしの熱で融けた。色気のない痩躯のなめらかな舌触りは、他の誰にも似ていない。そして彼はしばらくの間呆けたようにわたしの好きにさせていたが、そのうちに、いまは左の浮肋を撫でている出来損ないの手のひらがどこへ這っていこうとしているか見当がついたようで、つい先刻まで熱に浮かされ虚実の合間を漂っていた獣にしては、目を見張る程の烈しさでわたしの手首を掴んだ。ただし、痛みは与えずに。こんな時でもきみは優しい、母猫が自分の子を運ぶのに決して血を流させないのと同じように、罪人をも傷つけまいとする。きみを穢そうとする者を友と呼び、そのためにこそ祈るのだ。猫の例を理性とするか本能とするかは解釈の分かれるところだが、本能としたほうがうまい比喩になる。くだらない考えに邪魔されながら構わずに事を進めると、彼はにわかに抵抗してみせた、まとわりつくわたしを振りほどこうともがき、顔をそむけ、激しく喘ぎ、哀願し、すすり泣いた。行儀の悪い犬よろしく肩に噛み付く愚か者の背をまさぐって、何度もわたしの名を呼んだ。高揚のためでなく、思いとどまらせるために。わたしは破滅しかけていた。
人間は生殖にこういった類いの刺激が必要になる、そうでもなければ次代を継ぐことが苦痛にしかならないのだろう。〝明日〟は扱いの難しい薬で、どの人の心にも慰めに必要な分の希望を作らせるが、どんな毒より速やかに命を摘み取りもした。みな一度はこれを舐め、舌先を切り落とす羽目になっている。そうとも、晴天の霹靂、行く手に口を開ける奈落へと歩まされていくのは恐ろしい。死にたがるものの少ないように、邪悪が蔓延るこの世とはいえ、殺したがるものもまた少ない。愛は子殺しに目隠しをする。母は次の死を産むために、娘は次の次の死を産むために生まれるのだ。またロマンティシストは性と愛とを別の棚に置きたがるが、両者はけだし同じ目的に寄与するもの、すなわち種を永らえさせるのに必要だから備わっているまでのこと。要するに子を産み育てるにはつがいの相手を愛しているほうが、妙に賢しらになってしまった人という動物にとって都合がいいのだ。もっとも、いずれにせよわたしと彼の場合……今夜のとりあわせは何の実も結ばない。わたしが完全だったところで結果は同じ、雄は孕まない。殺す勿れ、姦淫する勿れ、放埒をなす勿れ、盗む勿れ、魔法を行う勿れ、毒を与うる勿れ……事勿れ主義の神の助言を数知れず無下にしてきたが、お陰で憎まれ役を務めるにはこれ以上ないほどの適役、わたしは醜く育った。今夜きみは思い出すだろう、自分が何者であるかを。これで汚辱に塗れなければ、そしてわたしを憐れまないのなら、その時はいっそ司祭の真似事なんか止して血を啜るがいい。飽きるほど。
外では嵐が猛り狂い、木立を脅かし咆哮する。壁一枚隔てた地獄をよそに、きみの息遣いが穏やかに時を刻んでいた。
「ああ、神様……」
われわれは捕らえた獲物の柔らかいところから食らう。特に肝。汁気たっぷりで温かく、栄養もある。