器用であること

 人間も前肢まえあしより後肢あとあしのほうが強いらしい。
 わたしはやわらかい腹部をかばった腕に二度目の蹴りを受けながら、彼の言葉を思い出していた。床に転がった自分を見下ろす小太りの男の顔は、逆光の効果もあって赤を通り越しどす黒く見えた。首が絞まるのだろう、誰かとは大違いだ、そう考えてのどかな笑みを漏らすと、窮屈に皺を引かれたタイの上から唾が降ってくる。未熟な射手は狙いを外し、泡立った粘液はあえなく床を汚した。ここにも恥じらいはあるとみえ、腹立ち紛れの蹴りがみたび飛んできた。今回は外すにしてもうまい具合に外れたようで、爪先が無防備な隙間にめり込んではらわたを小突いた。痛みより不快感に身が竦む。それを眺めて男は喜んだようだった、ただし満足はしていない。この男が一体何発で飽きるか数えることを検討しかけ、また頬が緩みそうになった。あのメイドは何事もなく自分の部屋へ帰っただろうか? 彼女にまとわりついていた男に英雄気取りと揶揄されながら、果たして自分が竜殺しが英雄かどうか、昔王さまだった友人に訊ねたくなっていた。一つ覚えの蹴りにも飽きたのか、不格好な貴族の男は無抵抗のわたしを踵で転がして、悪態をひとつ吐きかけた。お前を殴るぞ、と聞こえた。しかし幼稚な恫喝にはそれなりの効果があった、服で隠れる腹ならまだしも、顔にできた痣を隠しおおせるのは難しい。傷はやさしい友の表情を曇らせるだろう。勝手な空想に瞼を開けずにいると、それを降参と捉えた男のせせら笑う声が聞こえた。胸ぐらを掴まれ、頬に衝撃が走る。耳鳴りがした。丸々とした拳にも、骨の尖った部分があるものだ。殴打の回数が増えるごとに口内に広がっていく鉄の味が、まっとうな吐き気をもたらすのに安堵を覚えた。わたしの片目は膨らんだ皮膚に塞がれていき、ついには開くことすらできなくなった。奇しくも左側で、彼の視界はこういうものか、と面白がっている自分の呑気さに今度こそ、大声で笑いだしたくなった。
 男は突然わたしを放り出した。いや、誰かが放り出させたのだ。どちらにしろ鈍い音とともに倒れこんだことに変わりなく、また周囲の物音は豪雨の音(血の巡る音だ、わたしの頭は少し重い)にかき消され、絶えず揺れている視界では、何もかも輪郭がぼやけていた。
「……分かったか?」
「悪かった、こいつがあんたの持ち物だって知らなかった」
「どうやら教え方が悪かったらしい。わたしを大目に見てやってくれ、教師の経験はないのでね。残念なことに」
 鋭い叫び。
「ああ! もう止めてくれ! 二度としない、だから──」
「彼はわたしの家族なんだ」
「止めてくれ! もういい! もう分かった! あんたの“家族”を傷つけて悪かった、おれは酔ってた」
「酔っていた!」ピシリ、と軽い音が鳴る。「もっとましな言い訳を考えろ。説得力がないぞ、そんな生白い顔でバッカスの伴ができるものか。わたしと遊ぶか? おまえを酔わせるくらいわけないさ。さあ、太り過ぎの雛鳥、さぞや蚯蚓が食べたいだろう。もっと口を開くといい、おっと、この骨格ではせいぜいそこまでか。残念なことだ、もう一つ骨を入れるか?」
「許してくれ」
「何を?」
「あんたの家族を傷つけた」
 朦朧とした意識の端で、誰かが立ち上がった。次いで廊下を転げていくものがある。追っていこうとした視線は見慣れた色に遮られた。朝と夜とが気遣わしげにわたしの瞳を覗き込み、心地よい音程でわたしの名を呼ぶ。苦労して瞬きしている間に床と背中、それから両脚の間に腕が差し入れられ、身体が持ち上がるのを感じた。荒廃した家屋のそれと同じようにわたしの骨組みはひどく軋み、今にもばらばらになってしまいそうだった。触れる温かさに頭を預ければ、普段とは違う香水が鼻をくすぐる。
「アーサー」
 わたしは彼の名を口ずさんだ。唇から新しい血が滲み、鮮やかな痛みが一度だけ走った。
「あれの細君は竪琴の名手でね。彼女を呼ぶとどうしても来てしまうんだが、これほど愚昧な男だとは思わなかった。今まで大人しかったのは、ただ運が良かっただけらしい」
 どちらにとって? 彼の朗らかな声の調子からは、悪意も怒りも読み取れない。
「きみは左の頬どころか、総身くれてやるつもりだったのか。悪い子だ」
 最期の一言は子猫の悪戯を咎めるような響きだった。だが生き物を玩ぶのは主として彼のほうの楽しみで、さっきの男も気まぐれに伸ばし、隠しを繰り返す爪の下、道化の衣装を着せられていた。
 ただし人間の前肢は、後肢にはできないことをするからね。
 わたしはわたしを家族と呼んだ男の腕に揺られながら、未だはっきりしない頭で、彼が以前言ったことの続きを反芻していた。