アルトゥールシュカ

 彼がいなくなって五年経った。はじめは帰りを待ちわびていた使用人たちも、一年が過ぎるとひとり、またひとりと屋敷を離れ、ついにはわたしだけになった。ジョゼフが会釈し去っていくのと入れ替わりに訪れたアーサーの弟は、人を送るから入り用のものがあれば申し付けてくれ、とだけ言い、わたしがこの家に住み続けることを許してくれた。あの日アーサーは一人で出かけていき、そのまま戻らなかった。行き先は分かっていたからそこへ手紙を書いたものの、丁寧に膨らませた「知らぬ存ぜぬ」が返ってきただけで終わってしまった。彼の友人誰もがそうだった。探しに出ようかとも考えたが、わたしにはまだ外をうろつき回るだけの余裕がなく、地図の上のまぼろしに彼の姿を探しながら、わたしはここで待つことを決めた。
 孤独な生活は悪くなかった。誰にも妨げられず、静かな書斎で昼夜を過ごした。気が向けばリードオルガンの前に座り、時には彼のフィドルを借りて──そちらは単純に音を出すだけだったが──音楽に親しむこともあった。広すぎる屋敷の部屋すべてを手入れすることはできなかったが、定期的に彼の弟の使用人が、この財産を荒廃の過程から救い出しにやってきた。彼らと話すのは慰謝にもなったが、一抹の寂しさを与えもした。彼と話したかった。できることなら、あの調子外れの歌声が聴きたかった。
 五度目の冬を越し、凍りついていたハンノキの枝も若くみずみずしい緑を装うようになった頃、彼の父親が死んだ。若きアンデール伯はその後も律儀に屋敷へ使用人を寄越し、庭木を刈り込ませ、虫食った絨毯を取り替えた。頑固に残った住人のためではなく、兄のために行っている。確かにこの兄弟には一方的ではあるものの、愛情があったのだ。わたしはわたしのできることをする。きみはわたしが神様のことで頭を一杯にしているとかわいらしい嫉妬にかられたこともあったが、今はきみのことばかり考える。他にやることもないと言ってしまえばそれまでだが、四六時中きみの身を案じていた。彼が自分を置いていくことなどない、いつか戻るだろう、というのはわたしの自惚れだった。時の流れは奪い取るだけでなく与えもした、嬉しいことに、最近ではロザリオを握っても血が吹き出るようなことはなくなっていた。長いこと触れていると多少爛れはするものの、耐えられないほどではない。日の光も同じだった、きみが帰ってきたら一緒に散歩をしようと思っている。日傘を差して。
 夜はいつも通りに更けていた。わたしは眠る前に少し本棚を整理し、お茶でも淹れようと考えていた。鼻歌はいつにも増して調子よく、翡翠の小鳥が籠を出る。楽しい想像に遊んでいたわたしは、ある物音にたった今しまいかけた童話の本を取り落とした。わたしの耳がとらえたのは、待ちわびた音だった、青毛の蹄の音! あの日の彼のように、わたしは駆け出した。廊下は明かりを灯しておらず、月明かりが窓覆いの隙間から幾つも梯子をかけている。幸い夜分に足音を立てたところで咎める者もいなかった。気ばかりが急いてもつれる足でなんとか階段を踏み、玄関ホールへ飛び込むと、かぐわしい花の香を伴った外気がわたしの頬をくすぐった。
 扉は開いている。屋敷の主が帰ってきていた。月光を背負う馴染み深いシルエットに、わたしは泣きたくなった。父君の訃報を聞いたのか、タイは黒で、春先だというのに厚手の外套を着込んでいた。わたしはつとめてゆっくりと足を運び、とうとう彼の元に辿り着くと、乱れていた襟を整え、友に向かって笑いかけた。彼も微笑みを返した。若やいだ美しい面立ちはなにひとつ変わっていなかった、過ぎた月日を忘れるほどに。用意していた歓待の言葉は喉を駆けあがる間に痩せ細り、舌の上で斃れて動かなくなった。なにひとつ変わっていない? そうではなかった。視線を受け止め気づく、この五年間焦がれた色ちがいの瞳は虚ろで、何も映していなかった。
「アーサー……」わたしは冥い予感に慄きながら、彼の腕を掴んだ。「なにか言ってくれ、なにか……」
「カーチャ、目当てのものが見つかったようだ」
 彼は背後の誰かに向かって呼びかけた。馬上から飛び降りたのは、喪服に身を包んだ背の高い女だった。鋭利な美貌は彫像のようでもあったが、病に立ち枯れたイチイにも似ていた。彼女は黒髪を靡かせながら悠然と歩みを進め、彼の隣に寄り添った。並んだ二人の身の丈はほとんど同じだった。
「おお! まさしくお前はなり損ないだね。惜しいことだ、すっかり力を失いかけているようじゃないか。それも今日までにしよう、その為に来たのだからね」
 重く鈍い東欧の訛りが耳に纏わりつく。カーチャと呼ばれた女は、長い睫毛に縁取られた烏羽色の目でわたしを眺め回した。それから彼のほうを向く。頬骨の高い横顔は女神の笑みを湛えていた。死の女神。
「アルトゥールシュカ、おまえが素直に喋ってくれれば時間を無駄にせずに済んだのだよ。愚かな子だ」爪の長い美しい指が彼の顎の下をくすぐった。彼の目は魔女の愛撫に恍惚として細められる。「だがわたしは愚かな子が大好き。おまえが一番」
 彼は頬を撫でる手のひらへ愛しそうに口づけを落とした。この情景を目の前に、わたしはやっとのことで、狭まる喉から短い疑問符を絞り出した。
「どういう……ことなんだ」
「知りたいか? わたしは司祭くずれの哀れなおまえを知っているよ、ロス・イリングワース。五年かかったがね。アーチャは随分闘った」女は嬉しそうに口角を引いた。彼と同じような鋭い歯が並んでいる。「普通の人間ならこうはいかない。わたしに何一つ読ませなかったんだ、この子は。おかげで長引いたんだが、結局は喋ってくれたよ。今ではこんなにも従順になった。さあ、アルトゥール、アルトゥールシャ、キスしておくれ……それからこの男にも。おまえは彼が大好きだったんだろう、毎日のように抱きしめて、愛を囁いていたじゃないか。久々の再会にさぞ心踊らせているはずさ。人の期待を裏切ってはいけないよ」
「きみがそう言うなら。カチューシャ、彼の名前は? ──なるほど。ロス、会いたかった。愛しい人」
 抱擁を受けながら、わたしは彼の身に何が起こったか理解した。襟元からわずかに覗く首筋に刻まれた創は、馴染み深い呪いのしるしだった。全身の力が抜け、地面がぐらついた。それを支える彼の腕に、わたしの知る温もりは宿っていなかった。傍らでは美しい皮を纏った獣が笑う。
「具合が悪いのか? おまえはきっとアーチャで変わりたかったろうね……けれどわたしが貰ってしまった。もちろん珍しい餌だったさ、だがおまえほど珍しかない。この子がどれほどおまえを守りたがったことか! もちろん元々の力の助けもあるんだが、それにしたって、わたしに血を啜られて隠しごとができた人間は、ただの一人もいなかったのだよ。秘密を暴くどころか、わたしはひどく具合が悪くなり、旅行を切り上げて家まで帰る羽目になった。同胞がこの地にまだ生きていると耳に挟んで、折角探しに来たというのにね。必要なことを聞き出すまでに、この子を殺さなきゃならなかった。ああ、そんな目を向けないで。謝るよ、謝るさ……アルトゥール、離していい」
 弱々しく後ずさりするわたしを、今度はカーチャ、エカチェリーナが抱き寄せた。そして見かけからは想像もできない力でこの哀れな犠牲者を床に押し倒し、いつか“彼”が熱心に齧りついていた痩せた首元に、躊躇なく牙を立てた。熱い血が溢れ出し、捕食者は慣れた舌づかいで一滴も零さずにそれを啜った。そして数拍ののち唐突に唇を離し、わたしの血はしばらく流れるままになった。
「苦しいだろう。おまえにはわたしの魔法が効かないんだ。いくらおまえが苦しみを選びとりたがるからといってね、与えるこっちは愉快とは言えないんだ。アルトゥールシュカ、歌っておやり。それでいくぶん気も紛れる……」
 女がわたしを永遠に闇へ繋いでしまおうとする間、彼は歌っていた。朗々と伸びやかなその声は、ひとつの音も外さなかった。