箱入り娘だった私が、生まれ育った屋敷から少し離れたところに、もうひとつ屋敷があると気づいたのは、おてんば盛りの六歳の頃でした。誰にも言わずに遠出して、過保護でわからずやの両親に、私がもうか弱い赤ん坊ではなく自立したおとなだということを、分からせてやるつもりだったのです。それは大した旅行ではありませんでしたが、小さな女の子の足を痛めるには十分な距離でした。私は泣くのを我慢して、仕立ててもらったばかりのドレスを汚してしまったことや、帰り道を忘れてしまったことなどを思い出さないように、歌を歌うことにしたのでした。お母様が教えてくれたもののほかに、一度だけお父様が歌ってくれた美しい旋律のものを(これが大のお気に入りでした)、繰り返し繰り返し、ほとんどわめきたてるような調子で、私は歌い続けました。すると突然声がしました、誰もいない、道の上ですらない場所で、確かに私の名前が、私の背中に向かって呼びかけられていたのです。振り向けば大きな影。それから真っ黒な馬の脚が伸びて、その脇へ軽やかに飛び降りるものがありました。私は足の痛みも忘れて、しばらくぽかんとしてしまいました。だってそれまで馬の足音など聞こえていませんでしたから。魔法のようにあらわれたその人は、小さな子供の前にひざまずき、恭しく手をとって口づけると、こう言いました。麗しの姫君、お目にかかれて光栄です。その楽しげにきらめく色違いの目、それから微笑む唇の間にのぞく、ぎざぎざにとがった歯! 私は礼儀知らずのことを言いました。「どうして手袋をしているの?」彼は腹を立てた様子もなく、朗らかに答えました。
「これは失礼を」
そう答え、彼がためらいなく外してみせた手袋の下にあったものを、私は今でもありありと思い出すことができます。ここに紙とペンがあれば、仔細間違わずに描き写すことすらできるでしょう。真ん中できれいに割れた手のひらと、高貴なはやぶさのそれのように優雅に広がった長い指、親指と人差し指は見慣れたかたち、谷を挟んだ向かい側の一本はほんの少しだけ外向きに歪んでいて、いちばん端の指があるべきところには、よく見ればつるりとした傷跡のようなものがありました。「わたしの友人はそんなもの必要ないと怒るのですが、身に染みついた習慣というのは忘れたふりをしていても、ふとした時にあらわれるもの。これは最後の一揃い、しまいこむはずがうっかり着けて出てしまいました」
「じゃあ私がもらってあげる」
私は図々しい娘でした。そこに無邪気な子供の思いやりを見いだしてくれたその人は、またうっとりするような優しい笑みを浮かべ、喜んで、と私の手のひらを包み込むようにして、使い込んだ革手袋を一揃い、握らせてくれました。
「途中までわたしがお送りいたしましょう、その先はご自分で」彼は青いほうの目をいたずらっぽく瞬いて私を抱き上げると、大きな荷物をものともせずに馬にまたがり、そのままゆったりと歩かせました。高い目線で眺めると、遠くの綿雲の下に、見たことのないお屋敷が建っているのが見えました。
「おうちはあそこ?」
彼は、秘密ではいけませんか、とだけ言いました。そして私が頷くと、わたしのお気に入りのあの歌を、口ずさみはじめました、それがあんまり調子外れで、私は大笑いしてしまいました。ふたりで笑い、拙い歌声を重ねて進んだ道のりは決して長いものではありませんでした。ですが手を振って別れてからもしばらく、彼の下手くそな歌声は聞こえていました。
秘密の友だちは名前も聞かずじまいになりましたが、その年の誕生日、私は彼の名前を、憎々しげに開かれた父の口から知りました。屋敷を訪れた彼は意味ありげな目を向けて、片方の目を瞬きました。私は一度だけにっこりすると、怖がっているふりをして母の後ろに隠れました。もちろん、怖くなどありませんでした。多少違ったところがあったとしても、あの人の顔はお祖父様に、父に、私に、似ていました。