「なんだって?」
「だから」僕は壊れたテープ……アイフォンよろしく(時代に即した表現)、さっき言ったことを一言一句そっくりそのまま繰り返した。「もう君に頼らなくても良くなったんだ。結局のところ、歯がウズウズするのは何か堅いもの噛んでればなんとかなるから、今度からこのデンタルガムを使うことにしたよ。犬用だけど四六時中噛んでる訳じゃないし、死にはしないでしょ」最後にちょっと肩をすくめてみせるところまで完璧だ。
「つまり……僕を噛まないでも済むってことか」
「そうだよ。もっぺん説明する?」
君はなんだか様子がおかしかった。やっとこの狂った遊びから解放された、やれやれ、という風にはとても見えなかった。それどころか君の表情はだんだんこわばっていくようで、あまり健康そうでない目元はほとんど苦痛と軽蔑と怒りとに歪められているみたいだった。なんで? 君は僕の肩のあたりに視線を惑わせて、その説明らしきことをはじめる。
「ここまでさせておいて、やっぱり僕じゃなくていいだって? ここまでさせておいて、ここまでしておいて……」
うげ。確かに、いまは服の下にある彼の肩には、ちょっと言い逃れできないほどの噛み傷がついていた。治るまで人前で着替えもできない、ゾンビだか吸血鬼だか人狼だかはたまたエイリアンだか、一番もっともらしいモンスターを選ばなきゃいけないからね。僕はいかにも反省してますというポーズのために、ソファの上で小さくなった。本当は彼にさんざん噛みついた床の上でやるべきかもしれないけど、彼もそこまで鬼じゃないはず……いや、鬼より怖い。スクリーンの前のみんなをうっとりとさせる切れ長の目は氷点下の冷ややかさで向けられていた、うーん、ファン冥利。いや、うっとりしている場合じゃない、僕の態度の何かが、温厚なクリスをキレさせちゃったみたいだ。僕は口を開きかけ、やめた。お前は頭がカラッポで喋るとますます人をイライラさせるから、まずは黙ってしおらしくしとけ、とは兄貴の弁。家族みんなが同意した。
気まずい沈黙のあと、彼はやおら立ち上がり、普段よりワントーン低い声で、呻くようにこう吐き捨てた。
「もういい、もうたくさんだ。一生そのバカみたいなガムでも噛んでればいいさ。君にはこれ以上付き合いきれない」
「付き合わなくていいんだって」
しまった。ラファエル、黙っとけって。彼は屹とこちらを睨むと、いや、睨むよりもっとぞっとするような冷たい視線を投げつけた。握りこぶしをわなわなと震わせ、かと思えば急に力が抜けてしまったように肩を落とした。
「出ていってくれ」
「うん」彼は百歳も年をとって見えた。嘘だけど。疲れきった横顔はぞっとするほど綺麗だった。僕は余計なことを口走る前に、家主の言うとおり部屋から出ていくことにした。玄関にたどり着くまでに身支度は終わってしまう。会話はなかったし、背中にはずっと彼の視線が突き刺さっていた。外に出てから、最低限の礼儀として挨拶しておく。
「来週どうする?」
「もう君には関わりたくない」
君はそっと、こういう言葉を口にした人間にしては驚くほど丁寧に、ゆっくりと扉を閉めた。鍵のかかる音がして、僕は廊下に取り残された。