僕はかじっていたローハイドガムを放っぽり投げて、背中から勢いよくベッドに身を投げた。歯のむず痒さはくそまずい(ペットフード会社の人ごめん。人間用ガムも出して!)ガムのおかげでだいぶ弱まり、集中力もアップした。いいことづくめだ、NGの数は限りなくゼロになったし、お馴染みのナチスゾンビシリーズのエリックからは死ぬほどバカバカしい吸血鬼もののオファーがきていた。二秒で快諾。僕はあと数週間もすれば血液アレルギーと付き合いながら憂鬱な日々を過ごす吸血鬼になり、蕁麻疹なく飲めるであろう古代ムー大陸の生き残りを探すんだ。これはネタバレだけど、この映画の最大の見所は僕演じるちょっと気取ってプライドの高いエリート吸血鬼と、役場の窓口で働いてる地味だけど気のいい、笑顔のかわいい……ハゲで小太りのおっさんとの濃厚なラブシーンだ。彼こそがムー大陸の生き残りってわけ。相手がティモシーじゃなかったらぶん殴りたい設定だけど、小さい頃ミニ・ヴァンパイアロードをやった僕の初めての従者は彼だったから、二秒のうち一秒迷ってオーケーにした。ティモシー、大好きだよ……
それはともかくとして、この完璧に近い最近の生活にもひとつだけ問題があった。クリスだ。表面上は仲良しのふりを続けているけど、二人きりで話すことはあれから一度たりともなかった。何が彼をそこまで怒らせたのか見当もつかないので困ってる。まさか本人に聞くわけにもいかないし、正直なところ聞いたけど答えてくれなかった。ただニヒルな笑みを浮かべて、怒ってない、と言うだけだった。クールな男だ。まあ、彼が僕に対して何か我慢ならないことがあって、それで僕とは金輪際関わりたくないっていうんなら、もう前みたいに飲んでふざけたりできないのは仕方のないことだろう。たまに悲しいけど、友達が友達じゃなくなるなんてのはままあることで、彼との関係もそういうものだったってだけだ。どうせそのうち忘れる。現に僕は彼の肌へどういう風に歯形をつけていたかさっぱり忘れ去っていた。
今夜はビールが妙に美味しくて、冷蔵庫は空になっていた。このごろ外食ばかりで買い物もしてないから当然だ。アルコールのほかはしなびきったレタスの切れ端と、カチカチに乾いたチーズしかなかった。その二つをごみ箱へ捨てていたら、磨いたばかりの歯がむずつきだした。でもってガムをかじることにしたんだけど、いい加減眠かった。放り出したやつは床に落ちたから明日続きは食べられない。このガムと同じだ、彼との事だってどれほどくよくよしたところで、どうしようもないんだからな……なんてベッドでぐずぐず起きていると、ノックの音が聞こえてきた。こんな時間に誰だ?
彼だったから僕は驚いた。それも、今までのつれない態度が嘘のように親しげで、熱っぽいまなざしを送ってきている。どうして、そう尋ねる前に君のほうから口を開く。
「君にかじられに来たんだよ。僕じゃなくても大丈夫だなんて嘘だろ?」
いや、大丈夫だよ。「うん、嘘だ……今すぐにでもきみのことめちゃくちゃにしてやりたい」こいつ何口走ってんだ?
「そうだと思った」
彼はシャツのボタンを外し、僕の首に腕を回した。僕らはもつれ合いながら短い廊下を進み、最終的に僕は彼を床へと押し倒し、その上に覆い被さった。ウウ、見飽きた視界だけどご無沙汰だから最高にそそるぜ。僕らは前みたいに野蛮な遊びに興じる、あちこち噛みつくたびに君は楽しそうに声を立てて笑った。笑うと少し掠れるんだ、君の喉はあんまり高い音を出し慣れちゃいないから。かわいそうなくらい骨ばっている彼の指先を味わっていると、よくない考えが首をもたげた。このまま本当にかじり取ってしまうのはどうだろう?
恐ろしい考えだったけど、僕はそうした。少し力を込めると、予想に反して彼の指はいともたやすくちぎれてしまい、そのまま僕の舌の上に収まる。二つ目の予想も外れ、鉄錆の味の代わりに甘酸っぱさが広がった。噛めば噛むほど、そうだ、骨なんかないみたいにぐにゃぐにゃした彼の小指は、まさしくハリボーのコーラ味そのものだった。傷口から滴るのは苺シロップで、人工甘味料のあと引く甘さをそこに添える。
「こら、悪い子だ」指をなくしても彼はご機嫌、どうやら痛みはなさそうだった。「まだ撮影が残ってるのに」
ごめんよ、と僕は悪びれずに弁解した。だって君って甘くて美味しいんだもの、僕が思ってた通りにね。そしたら彼はこう返す、しょうがないな、君ならいいよ。許しを得た僕の歯はいつにも増して根元がむずむずしだした。大喜びで彼の手首に歯を立てて、肘を食い、鎖骨にかじりつく。彼も同じくらい喜んだ。青い目は僕のより深い色で、潤い豊かにきらきらしていて吸い込まれそうに綺麗だったけど、空腹ってのはしょうもないことしか考えさせない、僕の頭に浮かんだのは、この綺麗な一そろいの瞳は一体どんな味なのかってことだけだった。
「クリス、僕、やっぱり君じゃなきゃだめだ。君が一番美味しいよ、君はいい匂いがするし、歯ごたえもあるし、何より味が最高だ。君以外考えられない、全部まるごと食べちゃいたい……ねえ、いいだろ……ずっとお預けだったんだ、もうお腹が空いてしょうがない、歯の根っこが痒くて仕方ないんだ……」
クラクションの音に飛び起きる。窓の外からはろれつの回らない怒号が聞こえ、僕は背中にじっとりかいた汗の冷たさに身震いした。いま何時だ? 三時十六分。起きるには早いし寝直すには遅すぎる、中途半端な時間。カーテンも閉めずに寝たらしい。ベッドには眩しすぎる電灯の光がもろに注いで、カバーの色を変えている。僕は片手でゆっくりと顔を擦った。額から頬、唇に顎。口の中はカラカラになっていた。目も渇いてきたけど、どうしても瞬きする気になれなかった。慌てた様子で涙が出てきて視界が曇る。染みるけど我慢しないと、瞼の裏にまだあの楽しそうな血まみれのクリスが横たわっていそうで怖い。何の間違いがあったとしても、この部屋に君が来るはずないのが今は何よりありがたかった。
あれほどうるさかった歯は、静かにしている。まぼろしの獲物に満足した狐みたいに。いつの間にか外も静かになっていた。喧嘩は終わったらしい。