当日、僕は寝不足で回転不良の頭を抱えて、時間までソファでゴロゴロしていた。一時間を切ったところで弱気になり、三十分前には錯乱状態、あと十分で家を出るという時になっては、逆に落ち着き払っていた。別にどうってことないと分かったからだ。いいとも、行けばクリスがいるだろ。だから何だっていうんだ? ふざけてんじゃねえや。僕はいきりたち、猛然と身支度して、ダッフルバッグ片手に外へ飛び出した。アパートの階段を下る間、誰ともすれ違わなかったけど、それもなんだか僕の躁状態の心に自信を塗りつけた。戦化粧だ、誰も僕を邪魔しないぞ。誰の目線も気にするもんか、クリスがなんだ、どうせ無視するって分かりきってるのになんでビクビク怯えなきゃいけないんだ。だいたい、もし絡んできたとしてもさすがの僕も生身の人間の指を噛みちぎるほど野蛮な男かよ。広い通りに出てタクシーを捕まえる。すぐに見つかった。それ見たことか、万事快調、やっぱり恐れることはない。僕は最強。僕は最強……
と、最強な気分はアルコールの助けを借りていい感じに続いていたのに、バーに入ってきた一人の男がそれをぶち壊しにした。僕と話していた海賊姿のエリックが意味ありげに目配せし、ものすごいツノを生やしたメリンダ・マレフィセントが口笛を吹く。僕は入り口に目を向けた。がやがやした店内の黄ばんだ照明が、そこだけ脱色されていた。君はあろうことか、嘘だろ、聖職者の装いに身を包んでいた。スマートなカソック姿の彼は厳格そうな表情を作って歩き回り、挨拶して回っている。バカっぽい天使の輪っかをつけたライアンの前で早速何か冗談を言ったようだった、そのあたりで笑いが弾ける。僕もこうなる前にしてたように彼に挨拶した。やあ、クリス。やあ、ラフ。楽しんでる? 君の目は、僕にだけ分かるように、冷ややかだった。最近恋人と別れたらしいけど、それも僕のせいにしたいのかな、なんだか責めるような目つきだ。僕は自慢の歯を見せつけるように満面の笑みで応えてやった。予想に反して彼は何らかの衝撃を受けたようだった。わずかに目を見開き、視線を外す。骨ばった右手が宙をさまよって、胸のところを痒そうにさすった。
「何?」僕はここ最近の苛立ちを露骨にぶつけた。エリックは間延びしたそばかすだらけの顔をしかめてこの敵意を非難した。おいラフ、お前そこまで役になりきらなくてもいいんだよ。こいつやっぱめちゃくちゃ鈍いな、そんなだから彼女できないんだよ。
「いや、少し喉が痛くて」
嘘おっしゃい。とは言えないほど彼の声は掠れて疲れ切っていた。いたわりの言葉が口をついて出る。大丈夫? それを聞いて、君はいつもの調子を取り戻した。にやりとして僕の肩を叩く。
「君こそ大丈夫か? 目の下が真っ黒だぜ」
「うるさいな。嫌味言いたいだけならあっちいけよ。それとも何? 僕に噛んでほしいわけ?」
やけくそで考えなしの一言だった。兄貴の警句を思い出す。黙ってろよ、ラフ。彼はやってみろとばかりにボタンを二つ三つ外してみせた。というか口に出して言った。
「やってみろ」
エリックは手を叩き、無用な注目を集めた。こいついつかとっちめてやるからな。周りがはやしたてる、僕らは仲よし時代に噛んでるとか噛んでないとかを言いふらしてしまっていたから、友達連中はみんな乗り気になっていた。彼はというと、クソ、蔑むような目を向けて待っている。シャツのボタンまで外して。この野郎、どうなっても知らないからな。僕はベラ・ルゴシに全身全霊のオマージュを捧げながら距離を詰め、むき出しになった彼の首筋に噛み付いた。
その時の気持ちを言葉にするのはちょっと難しい。友達の囃し立てる声と拍手が窓の向こうにあるみたいで、ただ君が小さく息を呑む音だけが鼓膜を控えめに叩き、その下を僕の血が流れている。多分誰にもこのことは分からなかっただろう、僕だけが君の身体のこわばりを感じていた。あれほど何度も夢に出てきた君の肌は、骨は、どうしようもないほどに現実だった。僕の邪悪な歯は揃ってざわつき、青ざめた肌の上に窪み以上のものを作ろうと躍起になった。なんだか不思議な甘さを感じる。感じるわけない、このままじゃやばいぞ。僕は恐ろしい混乱の中でなんとか理性の尻尾を掴み、彼から唇を離した、いや、歯先を引き剥がした。彼は嘘みたいに明るい声で僕がつけた歯型について小言を漏らすと、笑いこけるみんなを構いに行った。僕はさっきのがいつもの悪い夢だったような気がして、軽やかかつスッキリとした気持ちで自分のグラスの所に戻った。
そんな訳ない。おかしくなりかけだった僕の頭は完全に狂ってしまった。歯の根っこが痒くて仕方ない。それだけじゃない、目とか耳とかありきたりな奴らも沸き立っていた、それと乳香の匂いを楽しみたいとかも思っていたし、もう一度肌触り最高の彼を抱きしめて、ありとあらゆる事がしたいって気持ちで一杯だった。エリックは少し話してどっかに行き、代わりにいろんな人が僕の所に来てお喋りをした。僕もひと所にとどまらず、ふらふら歩き回ってははっきりしない頭でくだらない冗談を連発し、バカ笑いに付き合って、別のテーブルに移動して同じことを繰り返した。その最中も彼の姿を盗み見て、くそ、今夜のせいで僕はもうだめかもしれない。目の焦点が定まらないし、やけになって入れたアルコールも良くなかったのか、胃がひっくり返りそうだ。嫌な思い出が蘇ってくる。ダメだ、明日にでもベスの所に行かなくちゃ……
「ねえ、平気? 顔色真っ青」
「だめかも。風にあたってくる」
「そうしたほうがいいよ」
ローザ、ありがとう。君が天使に見える……実際はゾンビだけど。多分百人は喰らい尽くしたであろう恰幅のいい女ゾンビに途中まで付き添われ、僕は裏口から外に出た。ドアを開けた瞬間、夜の路地が熱くなった頬に冷たい息を吹きかけた。うーん、気持ちがいい。ただ、この爽やかな夜風も、僕の脳みそをグツグツ煮立たせているふざけた想像を洗い流してはくれない。それでも中に居るより具合はいい、クリスが視界に入らなくなっただけでもだいぶよかった。相変わらず歯の根本は今期イチの疼きをみせているけど、じき収まるはずだ。収まらなかったら帰ろう、きっとローザが体調不良で早退の旨を説明してくれる。してくれなかったら仕方ない。後日言い訳してまわればいいや。
僕はそのへんのあまり汚くないところに腰を落ち着けた。浮かれたハロウィンのモンスターは(観測範囲内には)どこにもいない。ウーン、こうして電灯の白けた光だけが照らしてる場所でやさぐれてる吸血鬼なんて、ちょっと面白い画なんじゃないかな。僕は一人になって余裕が出てきたのか、こんな呑気な考えが浮かび、吐き気の代わりに小さな笑いがこみ上げてきた。誰か撮ってくれないかな、現代社会で頑張ってる、ちっぽけな吸血鬼の話。親友だった男を食べたくて夢まで見てる。僕は余計なことまで考えてしまい、寒気に襲われて身を縮めた。本当は寒気なんかじゃなく、肋骨を順ぐりにくすぐって昇ってきたのは、ずっとやりたかった役を勝ち取った時みたいな──「喜び」に限りなく近いものだった。彼のことを貪り食いたい、あんなちょっとした一口がこれほど“いい”なら、思うままあちこちかじったら最高に決まってるな。だめだ、こんなのってどうかしてる。あなどってた、これじゃ完璧重症で、依存症患者に逆戻りだ。僕はなんだか泣きたくなってきて、膝を抱え、丸くなった。このまま朝になってもいいや。ここは静かで、静かで……静かじゃなくなった。ドアが開く音が聞こえる。ローザかな? 違うな、足音がもっと硬い。エリックかな? そうだと言ってくれ。
「ラフ」
ウワー、最悪だ。僕は反射的に立ち上がった。ゴメン、もう行かなきゃ。おばあちゃんが危篤なんだ。僕が八歳の頃に亡くなったけど。じゃあね、パーティ楽しんで。実際はただ呻いているだけの吸血鬼男は二三歩あとずさった。神父が腕を掴んで引き止める。僕、ジューとかいって蒸発すべきか?
「クリス、ごめん。僕すごく気分が悪いんだよ」
「それはこっちの台詞だ」
君の綺麗な目は、こんな光量の足りないお粗末な照明の下でも輝いて見える。熱っぽい僕が求めてやまない、清らかな水の温度。君の瞳に映り込むみじめな僕は、涼しそうで羨ましい。そこにいるなら君を噛むこともない。そうだ、こんな冷静ぶって目のことなんか褒めてる間も、僕は狂った野犬みたいに彼の袖口から覗く手首に歯を立てたがっている。
「君に噛まれてからずっと具合が悪かった。君、検査は受けたのか? こんな都会で狂犬病だなんて、本当に洒落にならない……」
君は喋っている内容とは全く関係なく動き、距離を取ろうと頑張る僕を、壁際まで追い詰めた。降参だ、僕は退治されるかもしれない。そろそろ立ち止まるかと思ったけれど、彼は常識の範囲を踏み越えて近づいてきた。鼻先が触れ合いそうになって、僕は顔をそむけた。
「だったらとっくに死んでるだろ。殴りたいなら殴れよ。そうでなかったらこんなこと止めて放っといてくれ、でないと僕……」
「でないとどうする?」
「君を食い殺すかも」
ついに告白させられたぞ。彼は赦しの微笑を与える代わりに、ぞっとするようなやりかたでゆっくりと目を細めた。やっぱり殺されるんだ。そう思い至った瞬間、僕は突然、何もかも洗いざらい話してしまいたくなった。これ以上ごまかしていたら、いつか本当に彼を殺すだろう。自分の欲求とうまく向き合えずに起きる破滅は飽きるほど目にしてきた、施設はそういうのの見本市だったし、何の救いもない末路についても沢山聞かされていたし。投げやりな気持ちといってもいい、とにかく話して楽になりたかった。
「はじめのうちはデンタルガムで全然我慢できたんだ。本当だよ、何もかも信じられないくらい上手くいってた。でもこの前、夢を見ちゃってさ……君が家に来て、僕に噛んでほしいって頼むんだ。僕は、なんていうか、いいよって返して……違う、君をめちゃくちゃにしたいって返してそのまま前みたいにしたんだよ。それで、つい君が美味しそうに見えて指を齧ったら、君はグミみたいなんだよ。甘かった。どこもかしこも。それから毎晩──眠らなかった日は別だけど──夢の中で君を食べてる。君ってすっごく甘いんだ。夢中になってかじっても、君は怒るどころか楽しそうで、それで……どうしたらいい? さっきので完全にいかれているって分かった。現実の君はグミなんかじゃないのに、夢よりずっとおいしかったんだよ。クリス、間違いだって知ってる。もう二度と薬なんかやりたくない」僕は半泣きだった。君は観察を続けていた。「入院しなきゃ」
「この数週間……」冷たい指先を首に感じた。それは徐々に上ってくる。「生きた心地がしなかった。君を恨んだ、憎くて、怒りが収まらなかった」唇をなぞる。「散々迷惑かけられたのにあっさり捨てられたから、それもある。君は僕を捨てたろ? 使い飽きたおもちゃみたいに」彼の手は一度離れ、再び首筋に触れる。それから耳の下を通り、ゆっくりと頭の後ろに這っていく。「言い訳なんか聞きたくない。君は捨てたんだ。だけど僕が眠れなくなったのはそれだけのせいじゃない、そうだ、僕は眠れなくなってた……毎晩胸をかきむしって、歯型が無くなったと思ったら傷だらけだ。どうしてだかずっと見当もつかなかった。さっき君に噛まれるまでね。ラフ、ラファエル、どうか僕をおもちゃにしてくれ」
後ろあたまを撫でていた手に急に力が込められ、油断した僕は彼の首元に顔を埋めるかたちになる。君の肌は例えようもなくいい匂いがして、僕の歯は残らず抜けてしまいそうなほど獰猛に騒ぎ出した。うろたえる僕を押さえつけて、君は囁く。責任を取ってくれよ。人をこんな風にした責任を。僕の理性はそこで少し困惑し、確かにそうかもしれないな、などと弱腰になった。すかさず三大欲求の一つが割り込んで、声高に宣言する。彼を食おうぜ、本人だって許してる。我々は責任を取らなきゃならんだろう。なあ。別の一つが激しく頷いた。もう一つはいびきをかいている。僕は本能に手綱を握られ、彼の身体を抱いてその柔らかい皮膚に歯を立ててしまった。血が滲み、それは夢と違って当たり前の鉄の味だったけど、そのへんはもう関係なかった。僕は夢中で彼を味わいだし、このけだものが何度も細かく位置を変えて噛みついている間、君は浅い呼吸をしながら背を少しのけぞらせ、メリンダが折角セットしてくれた僕の髪を、乱暴な手つきでめちゃくちゃにしていた。