僕は突然なにもかものやる気を失った。けど不幸にも撮影があって、そのうえ今作指折りの見せ場をやらなきゃならなかった。身体中チョコバーのキャラメルきみたいシーツにへばりついているのを、鋼鉄の意思で引き剥がしていく。起き上がりたくない。うつ伏せで圧のかかってた頬に段が入っていそうだし(枕から落ちてシーツの皺の上に落ち着いていた)、寝癖は薬中時代に迫る勢いで猛り狂っていそうだし、僕は彼に会いたくなさそうだった。クリスは久々の共演に嬉しそうで、僕もはじめはこれ以上ないほど喜んだ。彼のストイックな役作りがどう生かされるか現場で見聞きし触れることさえできるのは、友達以前にいちファンである僕の心を躍らせて余りある幸せだった。ただ、ファン心とは別に沸いてきた感情に、僕はこのところ心底疲れきってしまっていた。
しこたま呻き声のバリエーションを試しながら起き上がり、見える世界を枕とその周辺以外の空間に押し広げる。脱ぎ散らかした服とかどうでもいいダイレクトメールの封筒とかでしっちゃかめっちゃかになった床の上に、真っ白な線が一本、走っていた。それはやや潔癖症気味のクリスが見たら悲鳴をあげそうな凹凸に沿って柔軟に、かつ頑固にベッドの左後肢まで伸びている。最悪のクソ女(神様ごめんなさい)エカテリーナの腕の内側にあった傷痕そっくりの白い筋。あの頃心配してあれこれ気を揉んだその傷跡は、自分の顔よりはっきり思い出せる。カーチャは僕の人生に、その魅力的な痩せぎすの影を焦げ付きそうなほど色濃く落っことしていた。身内だらけの舞台やどうしようもないB級映画、それからメジャーな作品の悲しいエキストラなんかをやっている間に擦り切れてしまった僕の精神に、彼女は手っ取り早くつぎをあててまともにしてくれた。まあ結論から言うとまともとは程遠い手抜き工事だった訳だけど、あの時は心の底から救われたような気になっていた。それまでに知り合ってきた誰とも違う彼女が好きだった、すごく。マリファナの煙の向こうに見える紫がかった青い瞳はいつだって綺麗で、真っ赤に塗られた唇からこぼれる言葉は聖書の文句より尊く聞こえた。でも間違いだった、何もかも。僕は地獄がリゾートに思えるくらい激しい苦しみとリハビリ施設でのバカンスに貴重な青春の残りを費やす羽目になり、このさき一生『薬物依存だった男』のレッテルと付き合わざるをえなくなった。でも彼女が好きだった、とっても。僕はコカインからは足を洗えたけど、あの恐ろしい魔女からは未だに逃げられてないのかもしれない。誰と付き合ってもうまくいかないのを彼女のせいにしている限り、僕はきっとあの人の犬なんだろうな、ワンワン。
『ラファエル、君の家に行ってもいい?』
いいよ。僕はもう一度枕の上に倒れ込んだ。このまま窒息したい、カッコーの巣で親切な男がやったみたいに、僕をみじめな気持ちから追い出してくれる誰かさんが必要なんだ。でもそれは君じゃない。クリス、君は僕の首を死なない程度に締めてる、なんで親友みたいな顔するんだろう、僕らはただの共演者だろ、その時だけ仲良くなって、あとは顔見知り程度の関係に戻るだけの。そうやって何度も部屋に来ようとしないでくれ、掃除するのが面倒くさいし、酔った君は気さくすぎて最悪だ。僕は病気になってないのが不思議なくらい女も男も取っ替え引っ替えしてたけど、彼のほうは過去にあまり多くない数の彼女がいた、彼女しかいなかった。悩んでるふりでごまかすうち、枕がしっとり温まった。うんざりして飛び起きたら、あとはサクサクぜんまい仕掛けに身支度できる。ルーチン、ルーチン。シャワーの後で寝癖は完全に鎮圧し、小奇麗な服に着替えながら床でゴミになりかけの布のかたまりを集めて全部洗濯機に突っ込んだ。帰ってきたらこいつを回そう。僕は携帯のホーム画面が隠し撮りのクリスになっているのを見てもう一度ベッドに倒れ込みたくなった。頑張って燃やしたやる気が底をつきかけていた。クリストファー、君ってまったく意味不明。あんなに問題だらけのカーチャより、好きになるのが難しい。君に見られたい、君と話したい、君と一緒の映画に出て、君と毎日バーに行って、君をハグして笑いたい、あれもこれも憧れで片付けたいのに、僕はそれが憧れじゃないのを知ってる。