何となくこういうことになると思ってた。僕はキッチンの床の上でうずくまる君を見下ろして、心をからっぽにしてしまっていた。こっちを向いた君の目尻は珍しく赤らんでいて、光るものが浮かんでいる。涙だ。君は泣いていて、僕は絶望的な気分になった。心をからっぽにしておかなきゃいけないのは、そうでもしないと空が落ちてくるまで笑い続ける羽目になるからで、絶望的な気分になったのは、恋人の笑いが彼を深く傷つけるだろうということがよく分かったからだ。君はパイを消し炭にした。
「ラフ、僕を嗤いに来たんだろ……わかるよ、レシピ本を見ながらこんな風にオーブンを駄目にするんだからな」
「それはさ、ンフ」ウッ。僕の唇は一瞬醜くねじけただろう。「ぜんぜん大丈夫だよ」
なにが大丈夫なんだ、この馬鹿犬、きみなんて嫌いだ。拗ねて丸まったキュートな君は、紳士の国で培った無限に近い嫌味のレパートリーから、かなりマイルドなやつを選んで投げつけてきた。焦げ臭い空気の中で、それは僕の懐に収まって尻尾を振った。
「大丈夫だって」僕は彼の隣にひざまずき、その華奢な肩を抱いた。これはもちろん僕の夢見がちなスラッシュゴーグルを120%稼働させた時の表現であって、クリスの骨組みはしっかりしていたし、肉付きもわるくなかった。僕ほどじゃないのはやっぱり、君が肉を薄切りにしすぎるからだ。「クリス、あんなパイなんかの失敗でめげるなよ、そんなんで凹まれたら僕、立つ瀬がないよ。昨日だってやらかしたからね、セットのソファで爆睡」該当のシーンには居ないはずの僕の足が紛れ込みかけた。「それに君の失敗ってすごくかわいい……」
君はほんのちょっぴり機嫌を直したらしかった。顔を上げて僕を見つめる瞳、なんて澄みきった深い色なんだろう。なにか気のきいた宝石に例えたいけど、残念ながら青い石をサファイアくらいしか知らなかった。サファイアじゃないんだよなあ。
「それよりさ、一緒に作れなくてごめんね」
「いいよ……」君は目をつむり、つらそうに眉を寄せた。世界一悩ましくて世界一キュートだよ。この一瞬が永遠になりますように! 君の苦悩はすぐに過ぎ去り、困ったような八の字眉毛と微笑みに変わった。さっきのお願い取り消し、有限こそ至高。「これから一緒にオーブンを掃除してくれるならね」
掃除、するする。僕は壊れた水飲み鳥みたいに激しく頷いた。本当は彼と掃除以外のことがしたかったけど、それは潔く諦めた。早めになんとかしておかないと後々面倒そうだったし、掃除だって悪くない、ちっとも悪くないからね。