僕は迷っている。飛び出てきたはいいものの、行くあてもない。ずっとあの部屋が生活の起点で、終点だった。雨でも降ってくれればこのみじめな気分も背景に滲んでうまく紛れそうなのに、夜空には恋人たちの為にあつらえたようなロマンチックな星が散らされていて、その片隅でほとんど真円に近い月が、痘痕だらけの顔で親しげにニコニコしていた。無性に煙草が吸いたかった。もっと悪いものが吸いたいと考えて、たちの悪い幻覚のようにきみの言葉が聞こえた。いいよ。
はじめは喜んだ、彼が与えてくれるものは何だって嬉しかった、目線ひとつ、ねぎらいひとつ、笑顔ひとつ。滑稽なB級映画のモンスター、ささやかなもので満足しておけばよかったのだ、今日のことを数に入れてさえ、あの夜は間違いなく人生で最悪の時間だった。好きな映画の一幕も、子供時代の失敗も、その日見たニュースも、行きたい世界遺産も、安い中華の悪口も、共演者のゴシップも、僕らは全部食べ尽くしてしまっていた。満ち足りた(と、あの時は思っていた)沈黙のなかで、酔いのまわったきみの横顔はどんな舞台の上で見るより綺麗だった。友達だと思っている男の視線に何が混じっているか気づいた様子のきみは、ためらいもなくたった一言でそれを受け入れた、それから慣れた様子で僕を誘い、一晩中楽しげにしていた、とても口には出せないようなことを、たくさん許しながら……。
「あいつは誰とでも寝るさ、そういう奴なんだよ」
隣でくつろぐ女は勢いよく煙を吐いた。悪いドラゴンが炎を吹きかけるように。「あ、そう。あんたフられたんだ」彼女はゴスで、唇は真っ黒だった。黒々した目元は少女とも老婆ともつかない、特にこんな青紫の照明の下では。
「そうだよ。慰めてくれ」
魔女はピアスだらけで重そうな耳を掻いて、お断り、とだけ返した。僕はやけになってグラスを空にした、アルコールなのは間違いないが、何を頼んだかも覚えていない。ひどい味だった。ひどい味。きみの趣味は良かった、きみの家で飲み食いするものはいつだって好みの味がして、雰囲気のいい食器に乗っていて、かける曲は僕のお気に入りばかりだった。たまにはきみの好きなやつを、そう言ったこともある。彼はいつもと変わらず笑いかけて、レコードを取り替えた。いいよ。前の日に僕が持ってきたものだった。
「それで、どんなふうに捨てられたわけ。すぐ泣く男はキモいとか?」
真っ黒な唇の端がつり上がった。他人のグラスに灰を落としながら、大きすぎる目がこちらを向く。そこに映りこむ僕は破局した恋人を想って酔いつぶれている惨めな男でしかない。きみの上着を借りてもいい? いいよ。袖口を汚して帰ってきても、彼は笑って許した。今日は外で食べたい気分なんだけど、それでいい? いいよ。下ごしらえの済んだ魚を冷蔵庫にしまい、彼は笑って許した。寒いんだ、きみに触ってもいい? いいよ。その日の撮影で打った頭を冷やすのをやめて、彼は笑って許した。許さないで欲しかった。ひとつ許されるごとに、大事だと思っていたものが紙屑かなにかに変わっていくようだった。僕が何をしても、何もしなくても彼にとっては同じなのだ、そう思うようになってから、彼がしてくれること全てが憎らしくなった。それでも、
「自分が彼の特別だって信じたかった」
「ふうん。ゲイなんだ」何本目か知らないが、長いつけ爪の間の一本は新しくなっていた。「遠慮しないでそのまま続けなよ、あたしはどっちともヤッてるし」
通りかかった男へ露骨な視線を送る彼女は、思いの外優しい聞き手だった。混み合ったフロアを見ていると思い出す、カウンセラーはごく朗らかな調子で繰り返し忠告した、あなたは一対一の関係を作ろうとすると、少し不安定になるみたい。まったくだ、僕は足場を失ってぐらぐらしていた、支えを求めて手を伸ばせばきみは一歩しりぞいて、そのせいでバランスを崩してしまう。きみは倒れない。人が無様に倒れるのを、平然と眺めている。きみと暮らすのをやめる。いいよ。そうしたらいい。お土産も忘れずに。止めて欲しかったわけじゃない、ただ、ほんの少しでも寂しそうにしてくれたら、傷ついたようなそぶりでいてくれたら、あの完璧な部屋には僕が必要不可欠だったと思わせてくれていたら、十分だった。本当に? もちろんそんなはずはない、君が泣いてすがってくれるのを期待していたんだ、君が愛してくれていることを期待していた。僕は最後の最後まで道化でしかなかった。
「へえ。くだらない喧嘩」
内容の刺々しさとは裏腹に声色は柔らかく、テーブルに伏せた僕の頭を、犬でも触るような調子で華奢な手が撫でた。ほとんど全部の指にはまった指輪が、髪に絡んで痛かった。