やばい。彼を怒らせた。僕は自分が何をしたか思い出せなかった。部屋は何だか強盗でも入ったかのようにエントロピーを爆発させていて、僕自身はというと、脱げかけのズボンを引きずってほとんど全裸みたいなありさまだった。うわあ、お行儀の悪い女の子(もしくは男の子)があちこち口をつけて吸いまくったらしい、これじゃ脱ぐ役は当分無理だ。疫病で苦しむ男とかなら、なんとか。
こうやって冷静に状況確認していると、君の静かな怒りが――兄貴が持ってたナイフくらいの鋭さで刺さってくる(兄貴がアフガニスタンから帰ってきた時にいじってたら指が切れちゃって、兄貴もキレちゃったよ)。なんでそんな怖い顔してるんだ? そんな人殺しみたいな、いや違うな、復讐のためにずっと人生を無駄にしてきた男が、死んだはずの恋人がすべての黒幕だったのを知ったときみたいな顔、そんな顔は君には似合わないよ。嘘ごめん、びっくりするほど美人だ。君のファンなら骨抜きだ。僕は君の一番のファンだから、当然これにはうっとりした。うっとりしつつも密度いやましな沈黙とニンジャブレード的な冷視線に耐えかねて目をそらしたら、彼がこんなにも怒っている理由が分かった。おー、マジか。思わず口をついて出た言葉は放送ではピー音に変わるけど、君の耳には直接お届けされた。サイドテーブルでしっちゃかめっちゃか寝こけているのは、誰が見てもそれとわかる、コカイン基本セット入門編みたいな代物だった。急に頭が重くなってきた。僕って単純。
「あてつけのつもりか? こんな……クソ、なんてことを」
君が汚い言葉を使うのはめちゃくちゃ酔ってるかめちゃくちゃキレてるかのどちらかで、今は間違いなく後者だった。それははじめから分かっていたけど、最初に考えてたよりずっとシリアスで、ずっと惨めな事態になっている。そうだ、これだけじゃない。僕の頭は部分的にはっきりしてきた、靄をほかの所(たとえば体を起こしていようという意思とか)に追いやって、記憶を遡った。どれくらい? たぶん二週間くらい。
君と僕は喧嘩してた。僕が君に手ひどい裏切りをしたからだ。僕は君の役者人生にとってかなり重要になるであろう仕事を潰そうとした、彼が心の底から望んでいた役につけないよう、関係者とちょっとしたお喋りをして回ったり、別の役者を推しまくったりしたのだ。最近の君は役づくりに凝りすぎていて加減を知らず、あれをやったら本当に……餓死するだろうと思った。もしくは賞といっしょに病気をもらい、スピーチが車椅子の上になる。そんなのはごめんだった。僕のお粗末な工作がばれたとき、君は見たこともないくらい青ざめた顔で、拳をふるわせながら、僕に向かって激しい言葉を山ほどぶつけた。これまでに見聞きした罵倒の語彙を使いきる勢いだった。僕はその半分くらいを君に投げ返した、君が心配だったとかなんとか、ありきたりの言い訳を織り混ぜて。裏切り者の頬を力一杯殴りたい衝動をなんとか抑えた様子の君の、出ていってくれ、を聞いてから、僕らはお互い別の家で(つまり僕はモーテルを転々として)暮らしていた。君に謝りたい気持ちもないではなかったけど、謝ったところでくっつかないだろうなと容易に分かるほど、僕らの関係はばらばらに砕けてしまっていた。僕が丁寧に破片を叩いて粉にして、君が息を吹きかけるとそれは煙のように舞い上がり、空気に紛れて透明に……ならなかった。たった二週間ぽっちの孤独が僕をだめにした。粉! 僕は十代の頃さんざん舐めた辛酸を、もう一度味わいたくなってしまった。どのエリアのどの店のどの角の、どの人間がそれをくれるかは何となく分かった。人間っていうのは必要にかられるとどんなニブい奴でもそこそこ有能に(これは皮肉)なるもので、僕はブランクを感じさせない華麗な動きで底なし沼に飛び込んだのだった。
それでまあ、今だ。ズボンは脱げかけたんじゃなくて穿いて寝ようとしたってことまで思い出せた。よくよく見ればこの部屋には、僕以外にもずだ袋のような連中が転がっていた。誰も起きるなよ! こういう奴らに、生の彼は贅沢すぎる。
「来てくれたんだ。ごめん、散らかってて」
「『散らかってて』? ふざけるな……」君は息を詰まらせて、それから長く時間をかけて吐き出した。ひどく頭が痛むかのようにこめかみを押さえ(実際痛いのは僕の方だった)、独り言のように声を漏らす。
「君は大馬鹿だ」
僕は笑った。大馬鹿で裏切り者でどうしようもないクズの僕を、君は許してもいないくせにこうやって探し出してくれた。それが嬉しかった。きっともう一度裏切るべきなんだろう、それで足りなかったらさらにもう一度、もう一度……君が愛想を尽かすまで。