来年

 クリスが死んで二ヶ月経った。
 周りの人間は未だに僕を心配したし、ことあるごとに構うのをやめなかった。お悔やみを言ったり肩を叩いたり、僕をハグして泣く人までいた。飲みに行ってもそう、僕が彼の名前を口にするとどんな愉快な飲みの席でも途端にしんみりした空気が漂い、みんなして次の一杯を彼に捧げたりした。
 でも僕は特に寂しくもなかった。毎日彼を見つけた。冷蔵庫の奥にはめちゃくちゃ安くてめちゃくちゃまずいピーナツバターがしまい込まれていて、僕は笑いこける君の顔を思い出しながら、それをトーストに塗って食べた。やっぱり冗談じゃなくまずくて笑った。酔っ払った君が買ってきた変な色のお皿を食器棚の隅っこで見つけた。それはサラダに使ってみたけど、せっかく彩りを考えて添えたパプリカが逆に最悪の組み合わせで、ディナーの見た目を台無しにした。電話脇のメモパッドにはいたずら書きが沢山してあった、“我が子を食らう”僕の悪趣味な似顔絵とか。真面目に描いてくれたこともあるけど、そういうのはなかなか見せてくれなかった。あとべッドの下では、君がなくしてしょげ返ってた靴下(ファンからのプレゼント)の片っぽがふて寝していたし──ファンといえば、ようやく君の使っていた机を片付ける気になって引き出しを開けたら、書きかけの手紙が一通出てきた。内容はファンレターの返事、宛先は十六歳の女の子。彼はその子をコクマルガラスにたとえたところで少し悩んだらしかった。僕は便箋の余白に「クリスは君をコクマルガラスだと思ったらしいけど、理由を書くのを忘れたみたいだ。でもきっと君には伝わってるよね。彼からの愛を込めて。クリスの友だちより」なんて気取った文句を書き添えて、趣味の良い封筒を閉じて郵便局に持っていった。それから二人で何日も検討しつくして買ったブルーレイレコーダーは僕の見ない音楽番組を録画し続けているし、バスルームには彼お気に入りの石鹸があと十年使えそうなくらい残っていた(十年は言い過ぎた。でも少なくとも今年いっぱいは持ちそう)。今日の分は贔屓にしていたコーヒーショップのレシートで、君が読みさしていた本の間に挟まっていた。僕はそれを落ちないよう大事に挟み直した。ページの上の探偵は見当外れの容疑者をしめあげているところで、つまり君は犯人を知らずじまいになったわけだ。いや、そうだろうか? もしかしたら最後のページから読むタイプだったかもしれない、そっちのほうが楽しめるって人も結構多い。僕はというと、はじめから読むけど推理はしない、ただ何となく読み流すだけ。クリスはこの怠惰な消費者根性を、どう読んだって楽しめればいいよ、なんて言ってくれたっけ。ともかくこんな風に、彼はどこにでもいた。
「お前、大丈夫か?」
 スタントマンのテディが聞いてきた時、僕はサンドイッチの大きすぎるレタスと格闘しているところだった。
「何が?」
「何がって」テディは片眉をあげたみたいだった。みたいというのは、彼には眉毛がないから額の皺と目の感じで判断するしかないから。「クリストファーの事」
 言葉少なで不器用なこのマッチョ男(一応言っとくと、僕はテディが大好き)からこんな細やかな思いやりと優しさを引き出してみせるんだから君はすごい。ただ、僕は別にそんな思いやりなんて必要としていなかった。それをそのまま言う。
「大丈夫だよ。大丈夫。みんな何でそんなに気にするんだい? 仕事ならきちんとこなしてるじゃないか。遅刻もミスも卒倒もなし。ハハ……なあ、まさかとは思うけど、薬に手を出すんじゃないかって事なら──」
「悪かった、もう大丈夫なんだな。それならいいよ」
 自分だって今から命がけのシーンを撮りにいくテディの背中を見ながら、不思議に思わずにいられなかった。どうしてそんなに心配するんだろう? もちろん僕はコカインと大事な青春を交換した前科者で、それなりにショックの大きい出来事を経験したばかりだから無理もないかもしれないけど。ただ僕は泣きわめいたり一日じゅう塞ぎ込んだりしなかったし、ごくごく穏やかに受け入れることができた。みんなはどうしてほしいんだ? 弔事を読む時に少し泣くべきだった? まさか。彼は嘘泣きなんて嫌いだったし、辛気臭い集まりなんか好きじゃなかったよ。あの場では当然のことながら誰も彼もが泣いていて、イギリス英語に囲まれた僕は彼の両親の手を握ったりと忙しかった。クリスの死は突然だったけど、仕方のないものだった。飛び出してきた子供を避けようとしたバンが、運悪く彼の方に突っ込んできて跳ねられた、それだけ。即死だった。つまり苦しまなかった。それに優しい彼はこう言うに違いなかった、子供は無事だった? ならいいよ。だったら泣き暮らしても仕方ない。何となくそのへんに居るような気がしているし。
 今回の映画は間の抜けた考古学博士の役で、自分で言うのもなんだけど、僕に合っていると思う。自然体でいられる、益のないことをべらべらしゃべくっているばかりだし、勝手に台詞を増やしても暖かい笑いに包まれて、現場の雰囲気もいい。君から借りてきた本はなかなか面白かった。休憩の間はそれで時間をつぶし、カメラの前では緑色のアスレチックの上を飛んだり跳ねたりしていた。どんくさいラング博士は足を踏み外すたびに冗談を飛ばし、快活で勇敢でちょっぴり手厳しいヒロインに、助けられた後こってり絞られる。彼女は売り出し中の若手女優で、ぼろぼろのタンクトップとカーゴパンツという出で立ちで顔を泥だらけにさせられていても、華があってチャーミングだった。彼女には次がありそうだ。顔を合わすたび気遣わしげな顔で僕にかける言葉はちょっと気が滅入るくらいいたわりに満ちていて、その優しさにはうんざりするけど、性格の悪いB級俳優が勝手にうざがっているだけで(彼女にはいつか何かお返しをしなきゃいけない。内心でもこんなひどいことを言うんだから)、こういう優しさを持ち続けていられるんなら、この先誰もが彼女を気に入るだろう。たぶん彼も気に入った筈だ。
 その日はみんなの誘いを断って家路を急いだ。きっと最後の一人が潰れる頃には凍え死んでしまいそうな気温になるだろうし、それにマフラーを忘れてきていたから。もっとも、ロスで凍え死ぬのは真冬でも難しい。ただ僕は寒がりだった。厚着した僕をからかったときのマフラー、あれを持ってくるつもりだったのに。君の服は趣味もいいし質もいい、サイズが合わなくて諦めたもの以外は無断で使ってしまっている。どうせ許すしね。街は冬支度をはじめていた、特にわくわくするようなクリスマス休暇の予感は街路樹や店先をイルミネーションで飾り、窓からぶら下がったサンタクロースは道行く人全員に親しげにウインクを飛ばしていた。鈴の音とクリスマスソング。今年は実家で過ごすのもいい、特大のツリーの下に甥っ子や姪っ子のためのプレゼントを山ほど置いて、ラファエルおじさんの威光をたっぷり知らしめるんだ。悪くない考えを携えて階段を登る。玄関にリースを飾ろうか。なんて思いながら入った部屋は静かだった。明かりを点けると、朝出てきたままの散らかった机とかソファーに置きっぱなしにしたジーンズが目に入る。苦笑いしてコートを脱いたどき、間違い探しの絵のように、今朝のこの部屋とは異なる点がひとつ見つかった。
 サボテンの花が咲いていた。白くてかわいらしい、小さなやつ。棚に置きっぱなしにしてほとんど忘れかけていたのに、こんな健気に花を咲かすなんて。クリスにそれを教えようとして、気づいた。
 彼がどこにもいない。
 僕はよたよたと歩き回った。隠れんぼでもしているかのように、ベッドの下やクローゼットの中を覗き込んだりした。いない。いるわけない。彼はいなくなってしまっていた。僕の指先はぞっとするほど冷え切って、次にバカみたいに体が震えだした。水が飲みたい。やっとのことでたどり着いたシンクの上には、君が使っていたマグカップが転がっていた。二ヶ月前から僕が使っている。毎朝。
 思えば僕の一日は君だらけだった。君のハミングで目覚め、君の淹れた珈琲を飲んで、君の焼いた卵を食べて、君の選んだ服を着て、君にキスをして家を出る、君が今頃何をしているか考えて、君の話を共演者として、君が気に入りそうなワインを買って帰り、君を待ちながら昨日とった中華のあまりを温め、君を出迎えてハグし、君が貰ってきた林檎を剥いて、君に自慢話を延々続け、君とワインの味を褒めて、君の歌を伴奏に踊り、君が浴びるシャワーの音を聞き、君とあくびをして、君と一緒にベッドに入って、それから……それから、君は死んでしまった。
 僕は自分が欠けてしまっていたことにようやく気がついた。もう立っていられない。顔をこすると手のひらが濡れた。悲しくはない、悲しくはない。ただ途方に暮れているだけだ。カレンダーの日付は残り少ない今年の量を教えていた。どうしよう、クリス、僕、君のいない来年を生きていかなくちゃならない。