涙の理由

 僕と彼とは普通の仕事仲間に戻ったらしかった。もっとも僕らがあれほど"親しかった"のを知っている人間は誰も居なかったから、別に何ということもなく日々は過ぎていった。正確には二週間と四日と十一時間と三十七分だ(彼と別れてからの最初の午前零時から数え始めて)。お互いにとって幸運だったのはもう同じシーンに出る必要がなかったことで、端役の僕などは既に撮影自体が終わりそうだったからもうじきスタジオに顔を出さなくても良くなる予定だった。時おり見かける彼は相変わらずだった、テキサス生まれの大食漢に言わせればかなり痩せぎすの菜食主義者(比喩表現)はよくセンスのいい冗談を飛ばして失態を犯したばかりの新人のスタッフを和ませ、小道具のひとつひとつを手にとってじっくり眺めまわしてははその出来を褒め、撮影の合間に共演者と流行りの歌をうろ覚えで歌い、笑った。
 悲しいかな、僕は彼個人への気持ちは複雑だったとしても、クリストファー・リヨンズという役者については相変わらずファンだった。今日だって本当はケータリングのチキンでもつまんでいればいいものを、こうして撮影中のセットまでのこのこやってきて、目立たない物陰からストーカーじみた視線を向けているんだから情けない。彼はこのシーンで、コンパートメント車のフェルメール風の陰影のなか、窓いちめんの"青空"をそこにスイスの急峻な山々を背負ったこまこまとした町やなだらかな丘といった景色があるかのように眺め、朝一番で故郷を経ったばかりの贋作画家の憂鬱をひと呼吸ぶんの空気とともに吐き出したりしていた。そしてたった今彼自身が心の底からすくいあげた本心だとしか思えないやり方で台本通りの台詞を口ずさみ、僅かに重たい瞬きとともに、その横顔の青白い頬の上へ、一滴だけの涙を添えたりもした。僕はこの一枚の絵に彼のファンだからという以上に魅せられている自分に気づいて胸が悪くなった。ふたつ前のシーンはこうだった、長い間依頼主となり私的にも画家を支えてきていた商人が、ある一枚の贋作を拵えてくれるなら、今度は贋作でなく君自身の絵を扱ってやってもいい……などと言うのに対し、普段は半ば諦めたように隷従している画家が猛然と拒絶し、語気を荒らげ言い争ったすえ乱雑に荷物をまとめて出ていってしまう、というものだった。依頼された絵というのが、名こそ売れてはいないものの画家にとって芸術のなんたるかを教え導いてくれた教師に等しい存在だとかで、決してその作品の偽物を描くことはしない、というのが所謂お抱えの犯罪者になる上で画家がたった一つ提示した条件だった。彼はほとんど絶叫するようにしてこんな台詞を叩きつけた、「いやだ、君の頼みでもそれだけは聞けないと言った筈だ、それだけは!」。あまりの剣幕に相手役は演技以上に縮みあがり、目を合わせることもできずにぼそぼそと言い繕う姿がかなり真に迫って見えた。カットの声がしても、クリスはにこりともせず、強ばった顔の筋肉をほぐせずにいるらしかった。僕は撮影があったのでそそくさとその場を離れ、何日かおいて……今だ。僕にはこの画家が旅のはじまりに捧いだ涙の理由がよく分からない。話の仕立てとしては簡単で、自分のありかたに疑問を抱いた彼はこれからあてもなくぶらついた後に辿り着いた村で本当の芸術家になるとかならないとかする訳だけど、憤りはしてもあれほど悲しい涙を流すほど贋作画家の身分やそれまでの暮らしに愛執があるとは思えなかった。いち映画ファンとしては彼にあの涙の意図を聞きたかったけど、無理だった。昔ならともかく……
 大昔のようにスタジオの裏手で飲酒の罪に手を染めていると、その習慣にどっぷりだった頃の僕を知らない男が思いがけず顔を覗かせた。僕は立ち上がり、半端な陰に入りきれない前髪が日に焼ける。僕は場所を変えようと思ってそうしたものの、どうにもその場から動けずにいた。何せ久々にこの距離で見るクリストファー・リヨンズは中国ビールのつまみにはぴったりだったからで、そんな筈もなく味気なくなった温みかけのアルコールが胃の粘膜を荒らしはじめていたからだった。彼は僕のぐれた様子に明らかな不快感を透かした上で、友達じみた挨拶を投げた。「やあ」。僕は「やあ」と応じる、それから「撮影は終わった?」と答えの分かりきった質問をする。無神経な直射日光にいじめられた目をかばうように手で庇をつくると、彼はため息ともうめき声ともつかない調子で「ああ」と返した。それから何か躊躇う様子を見せた。むかつく仕草だ。
「なら用もないだろ。どうして声なんてかけてきたんだ、誰もいないこんな場所で取り繕う必要もないだろうに……」僕は何故だか自分の発言にひどく傷ついていた。そして頭の中の妙に冷静な一角で、余計な一言を言いそうだぞ、と思った。「どうでもいい癖に」彼ははじめ、何とも思っていないような顔をしてこちらを見ていた。それから、目元に影をつくっていた手をゆっくりと下ろし、ため息の出来損ないみたいな息をついた。いいよ。僕が家を出ていくときの彼の台詞がいやにはっきりと耳によみがえった。僕はあの場面を一度ならず夢に見て、そのたび部屋にとって返して彼を抱き締めたくなったけれど、いつもこの台詞が邪魔をしていた。後になにを続けてもただ僕をむなしくさせる魔法の言葉。いいよ、君なんか居なくたって。早いとこ出ていったらいい、ワインは邪魔になるから持って帰ってくれるとありがたいかな。クリスはあの日と同じように、さっさと僕を追い出したいのかもしれなかった。撮影後の疲れた身体だ、どんなつまらない嫌味でも浴びたいとは思わない。僕は空き缶を放り投げ(環境に対する罪)、スタジオに戻ろうとした。
「ラファエル」彼はひどく頼りなげな声を出した。それから僕が振り返るのを認めると、次の一言は打って変わって冷めた調子になった。「君はどうなんだ」
「どうでもよかったらこんな風に苦しまない」口をついて出た言葉の未練たらしさに自分でも驚かされる。「どうして僕だったんだ? 共演者の中でも扱いやすそうだったから? それとも簡単そうだったからかな。ああそうそう、僕は薬物中毒の前科者で、楽しいことには弱いんだ」
 悪意たっぷりの返しは聞くに堪えないあてつけがましさになった。君は……と言いかけた彼は目をそらし、滅多にない歯切れの悪さで同じ台詞を繰り返した。すぐにでも彼を置いて立ち去るべきだと思うのに、そうできないのは今の彼があまりにも、無様だったからかもしれない。常日頃会話で言い淀んだことのない男が、この瞬間は吃音の子供のようだった。そうしてしばらく沈黙したあと、彼は突然こちらに刺すような視線を向け、堰をきったように喋りはじめた。
「君は一度たりとも僕を見てくれたことはなかった。そんなに余裕そうだったかい? 君と話すときも、君と会うときも、君にキスするときだって? そうだろう、クリストファー・リヨンズは君の顔色を伺ったり、用意した食事が君の気に入るかどうか不安になったりしない、君に触れられて十五の女の子みたいに緊張したりしない。それにあのときだって」クリスは頭痛に襲われたかのように眉根を寄せ、苦しみをあらわにした。「本当は怖かった。でも君より歳上の癖にそんなことで怯えていたら格好がつかない」
 彼は苦痛を残したまま微笑んだ。自虐的な彩りがこの笑みに付け加えたやるせなさが、怒り狂った薬物中毒の女の拳より激しく僕の胸を打った。僕には時間が必要だった。たった今彼が何を言ったのか、何を告白したのかということを理解するための時間が。