この世に彼とわたしの二人きりしか居なくなればいいと思ったことがある。そういうとき、あの優しい司祭は普段より長く歌ってくれたものだった。今日もそんな気分だった、瞼を閉じかけの月は、貝の粉を撒いた夜空のまだ低い場所でまどろんでいた。飲み切らずそのままにしてしまったお茶が、書きもの机で冷えている。
「動かないで……」
わたしは気分はふさいでいたが、それとは別にとても気持ちがよかった。柔らかいシーツの上に押し付けられた身体を巡るのは温かいぶどう酒、この酩酊は首もとにうずくまる女の唾液がもたらしたもののようだった。彼女は食事に慣れている、傷口は美しく、一滴も逃さずにわたしを啜る、わたしの知っている捕食者の不器用な代償行為とは違う、優雅で洗練された作法で。爪先が不意に痙攣する。「悪い子ね」それが昔わたしに礼儀を教えた女の発音にそっくりで、頬に触れた髪の色を確認したくなる。首を傾けるまでもなく黒髪、身投げした彼女はパロミノだった。肺を病んだアパルーサ……
「普通の人よりずっと濃い」
うつろいかけた意識を吐息が撫で上げる。わたしはなかば恍惚として、ゆっくり時間をかけてまばたきした。四つ肢すべてが抗うことを忘れて虚脱し、生を受けたその時から抱いてきた暗がりは、いまや右側まで食指を伸ばしていた。やがてわたしの夜は新月を迎え、脇役に甘んじていた星々がさざめき、さわぎたてる。いつの間にか降りていた幕の裏側で、目が眩むほど。
この世に彼とわたしの二人きりしか居なくなればいいと思ったことがある。いま彼の席にあるのは空白で、名も知らぬ誰かが後ろから、俯いたわたしを抱いている。