TAKE OFF

 宇宙港スルジブラ・ステーションは盛況だった。この星系で最も栄えた惑星でなんとかという種族の女王が千年ぶりに交代したために、人類文明の根元たるおとめ座銀河団の閉鎖された一画から未だ開拓根性の抜けない辺境の田舎星系に至るまで、あらゆる星からあらゆる種族が集まってきていた。一見するとサピエンス原種と見分けのつかないアマゴアやヴェンノーク、亜種として歴史の長いストラタやジェマイア、果ては触手腕のストモゴイや不定形のプルタモゴイといった色物連中までが表通りにひしめいて、ドックは古今XYの宇宙船の見本市となっている。男はその中でも一級品の船に運ばれてやってきた、一級品の純地球人だった。彼は宇宙開拓以前から有力者として知られていたさる名家の一員で、使節としてやってきたうちでは第三位の要人だった。上二つは彼の姉と叔父で、この星の支配階級から正式な招待を受けた客人だった。彼はというと、今後の為に経験を積むべしと連れてこられただけの添え物であって、直接謁見して祝辞を述べる事は許されず、いいとこ晩餐会でぶらつくのが関の山という立場だった。 だもので彼は式典の始まる前にヒョイと自室を抜け出して、ドックに溢れた人混みにできるかぎり身を隠し、波に乗って盛り場まで我が身を運んでいった。うまくやったと内心ほくそ笑んだのもつかの間、天上人のためのドックから、甲虫じみた黒色の装備に身を固めたミニアチュアの衛兵がゾロゾロと列をなして現れた。思い切りこそ良いものの、もともとあまり強いほうでもなかった彼の精神は、いかめしい先端技術の鎧兜に身を包む強化外骨格の兵どもを目にして大いに恐慌した。明らかに追手と分かる彼らはというと、色とりどりの庶民の群れへ黒点を穿ち、ホモ・サピエンスの原種の威光をもって小競り合いを退けながら、苦も無く距離を詰めてきた。男は緊張に喉元を締め付けられつつも、逃げ場を探して右往左往した。そうやって貴重な時間を無駄にした末に、安らいで眠る鼠の看板につられ、半地下へ続く階段へ飛び込んで、安酒場の重い扉を押すことになった。中は隠れるにはおあつらえ向きの薄暗さで、見るからに廃材の継ぎ接ぎになった床板はどこを踏んでもべたべたしていた。客らは闖入者に気づかぬ様子ではあったが、おどおどした態度はにわかに耳目を集めつつあった。男は居場所を求めてすばやく視線を走らせた。全体的にごみごみした印象のある店内では、おおよそ十人ほどの客が席についており、乏しい照明の下で各々の時間を楽しんでいる様子だった。額に派手な角を掲げた若い男女は、頼るにはやや病的に過ぎるぎらぎらとした目つきをしていた。カウンターで店主と話しているアマゴア人の青肌に刻まれた刺青は干からびかけた生首を啄む翼竜で、声をかけるにはあまりにもいかつすぎた。小山のような男が山盛りにした巻き貝を殻ごと食い荒らすのにはぞっとさせられ、すぐ真横で吐き散らされた侮蔑語のあまりの品のなさには、温室育ちの地球の賓客も最早血の気が引く位にショックを受けてしまっていた。と、彼は店の奥まった一画、ちょうど電球がひとつ灯ったあたりに、いくぶん平和そうな人影を認めた。それは淡い灰青の羽毛もつ鳥人(ストラタ)で、擦れたジャケットの袖口から覗く鱗張りの手指と、その先の黒光りする鉤爪は獰猛そうで恐ろしかったが、眼差しと振る舞いはごく穏やかそうに見えた。男はひと目合わせた縁をたぐって、空いた向かいの席に押しかけた。そしてこのように懇願した。 「頼みます、どうか助けて頂きたい。私は追われる身でしてね……無論犯罪じゃありません、ええ断じて、卑劣な行いのために追い立てられているのではないのです。単に自由がないだけで」男は声の震えを情けなく思って恥じた。「どこへ行くにも警護人や世話係がつきまとうのです。羽毛のご友人、生活そのものはそう生まれついているものとして気に留めたこともありません。しかし、私は気づいてしまったのですよ。私の人生は、まったく血統の保存という以上の意味をもたないのです。なんと哀れなことでしょう、私は瓶詰めにされて、呼吸する遺伝子標本として同じ境遇の雌とつがい、連綿つづく繁殖の用に供されるのです……」
 鳥人は大昔に組み込まれた鳥類の遺伝子に忠実なやり方で首を傾げ、男を不安がらせた。しかしすぐに朗らかな調子で机を叩くと、店主に向かって酒をもう一杯! と大きな声で注文を飛ばした。彼は一度鋭く鳴いて注意を向けてから人語を使ったのだが、これに男はびくりと飛び上がった。
「なめらかな肌の友よ、そう怯えなくていい。私は地球の祖先に恩義を感じているほうではないし、君の身の上話を多少憐れんでもいる。そら、私の上着を貸してあげるから、これをお羽織りなさい。そんな服では誰が見ても地球人だと分かってしまう」
 おそるおそる指示に従った男は、革の(何の皮革であるかはまったく不明)ジャケットから何とも形容し難い快い香り―強いて例示するなら陽光をたっぷり吸い込んだカーテンの布地であるとか、午後いちばんに吹く春の風であるとか、そういうポジティブなふるさとじみた情景ばかりを想起する香りを嗅ぎ取った。縮みあがってばくばくしていた心臓がいくらか穏やかな調子で血液を送り出すようになると、彼はようやくお礼を言いそびれそうになっているのに気が付いた。
「ありがとう」
「おっと、礼ならば終わってから。恐らく君のファンが数人やってきたようだ。卓に突っ伏して、呑んだくれたふりをしたらいい。見咎められたら私がなんとか誤魔化そう」
 ファンというのが何か分からず、男は少しのあいだ呆けたが、店のすぐ外ががちゃがちゃしだしたのを聞いてようやく腑に落ちて、外套の分厚い襟に顔を埋めるように首をすくめると、先刻の助言に一句違わぬ状態に身を置いた。周りが見えなくなったので、不安が胃の壁をじりじりと炙りながら胸の下からせり上がったが、異星人の上着の匂いに包まれるとごく穏やかな安堵の感が、波のように打ち寄せてそれを鎮めた。という風に準備が整ったのを見計らったかのように、かなり礼を失したやり方で安酒場の扉が開け放たれ、有機物にまみれた不潔な床材と重量のある合金が擦れ合う音がなだれ込んだ。店主は地球政府の権威に逆らわなかったが、好きに漁ってさっさと出ていけ、と付け加えるのを忘れなかった。男は不安にかられたまましばらくの時間を突っ伏した腕の間の暗闇で過ごしたが、場の誰一人として仕立てのいい服を着た〝毛無し猿〟を売りそうな気配はなかった。眠り鼠の巣は偉そうな地球の為政者に膝を折ることを良しとしないはぐれ者の吹き溜まりであり、男は偶然に助けられ、逃げ込むには正しい場所を選んだのだった。そのうちに嵐の気配は、男の居る卓まで騒がしく吹き寄せてきた。
「貴様、顔を上げろ」
 男は内心縮み上がった。鼓動の音があまりにも耳の裏を叩くので、既に正体がばれているかと不安に胸を掻き荒らされて、腕の影で青くなったり白くなったりしていた。
「私の友人は酔い潰れて具合が悪いんだ。申し訳ない、だがあなた方は見聞きするに地球の使節の護衛なのでしょう。求めるのはやんごとなき身の行方とのこと、キューキアのストラタが高貴な血筋のお方とこうして差し向かいに酒をあおって、あまつさえ相手を酔い潰しているなどという事があるとお思いですかな。よくお考えになったらいい。私の知るスルジブラの群衆のざわめきに尋ね人の噂が混じらないところを見ると、あなた方の問題が起きたのはそう遠い時制のことではないでしょう。であれば私の友人がすっかり意識を手放してしまうまで……」
 と、ここで彼は鋭い叫びを上げた。ちょうど男の肩のところに、ごつい金属製の拡張された五指のひとつが迫っていたのであった。
「やめていただきたい、彼に少しでも触れてみろ。私の氏族の八番目の名のもとにお前を引き裂いてやるぞ。ストラタが始祖の名に誓う時、怖れも偽りも決して含まれぬことをご存知でしょうな」鳥人は猛然と立ち上がり、甲高い声を続けざまに飛ばした。人声を模倣せず用いられた鳴管のとてつもない音量が、強化外骨格の聴覚センサーへこっぴどく叩きつけられ、地球の一団はめいめいがひどく狼狽した。その後も彼は故郷の言葉で荒々しくわめき散らし、どこで息を継いでいるかも分からないほどの剣幕で畳み掛けると、ずいと寄った勢いのまま歩みを進め、最終的には追っ手全員を扉の外まで放逐してしまった。
「よくやった鳥野郎、お前に一杯奢らせてくれ」と始まった賞賛の一幕に、彼は照れ隠しのさえずりを合わせて朗らかに応えた。杯を拍手の中で一息に干してから、見世物は終わりだと宣言した。ものの分かったならず者どもはすぐに各々の世界へ戻った。それから小さな場の元英雄も、鉤爪をうまく使って騒動の渦中の男の髪をしこたま乱すと、これでよしとばかりに大股で店を出ていった。男はジャケットの襟を寄せ、肩を丸めた情けない姿勢で後に続いた。彼らは人の流れにうまく乗って歩きつつ、二言三言言葉を交わした。鳥人はほど近い場所に自分の船を停めており、そこで引き続き男を匿ってくれる心づもりでいるらしかった。
「親切をありがとう、旅のお方……」と男は口を開いたが、旅のお方だか出稼ぎの労働者だか分からない状態でそう呼ばわるのは失礼なような気がして撤回した。「羽軸並べ持つお方、本当にあなたに救われましたよ。まさかああいう手管でもって我が恐るべき親衛隊の目をくらますとは、恐れ入りました。とはいえこれ以上あなたを煩わすわけにはいきませんで、なぜなら私は依然としてお尋ね者、猟犬は何度でも我が身に迫り、周囲の無関係の人間まで噛み砕いてしまおうとするんですからね―私と関係した人間なら尚更です、翼持つものに倣い創られたお方、あなたに上着を返さなければなりません!」男は宣言通り脱ごうとしたが、やはり人目が気になって羽織り直した。「いずれ返します、ここではあんまりにも目立ちますから……私のいでたちときたら、本当に馬鹿馬鹿しい限りで」
 顔を赧める男を尻目に、鳥人はタラップへ上がった。軽やかな足取りで上まで登り切ってしまうと、馬鹿でかい金属の曲面を、手の骨ばったところを使って叩いた。
「どうぞ乗ってくれ、私の船だ。遠慮は結構、まさに文字通り乗りかかった船だからね。それに申し訳ないが、私は君が期待するほど無欲な善人ではない。助けたのには打算も混じっている……そう怯えた顔をしなさんな、人攫いならこんなところで腹のうちを仄めかしたりはしないだろう。さて、上着を返してくれるのではなかったかな?」
 ほら中へ、と招かれて、結局男はジャケットのやり取りを言い訳にしつつ、輸送機らしい中型船へ足を踏み入れた。明かりが点くと中は思いの外ごみごみとしているようだった。棚にはぎゅうぎゅうに本やら冊子やらが詰め込まれ、床に放り出された箱の中では新品らしいハンドキャノンが緩衝材に埋もれている。スプレー缶が予備のブーツと仲良く並び、机には自動印刷機から吐き出された請求書やら郵便やらが山と積まれていた。
「何でも触れられる形で持っていたいものでね」と船の持ち主は紙束を無意味にまとめて別の場所に置き、気恥ずかしげに頬を掻いた。返事代わりににこりとしてしまってから、男は〝親切をありがとう〟の立場をすっかり捨て去ってしまっている自分に気がついた。宇宙船の内部は鳥人の端正な顔立ちとそつのないふるまいからは想像出来ない乱雑さだったが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。男が人生を過ごしてきた空間の大半は神経質なほど片付いており、ちり一つでも落ちていれば、清掃ロボットどころかほうきとちりとりを手にした人間の掃除係がやってきて、その見苦しい物体を貴い身分のお方の視界から取り除いたものだった。
「構いませんよ、むしろ好ましいくらいなんです。本当に……私の住まいに比べたら遥かに居心地が良いものです。そこかしこに物があって、全てが生活に紐づいている。どれもあなた自身の切れ端のようじゃないですか。ここではあなたに囲まれているようですね……おっと、忘れるところでした。上着をお返ししましょう」
 彼は手渡したジャケットが天井からやる気なくぶら下がるロボットアームに掛けられるのを見、名残惜しさに胸が張り裂けそうになった。他人の持ち物へ自らの与えた温もりがやがて霧散して失われてしまうのが、どうにも我慢ならない、ひどく残酷なことのように思われた。荒れた男の情動をよそに、鳥人は満足げにそれを眺めた。
「君の所有にしても構わない。とてもよく似合っていた」
「それはどうも」と男は上の空で返答した。「とてもどうも」
「あとは君の地球産の動物の撚り合わせで編まれた目立ちすぎる布地を剥ぎ取って、私の服をもう少しお譲りして、いっぱしのバウンティ・ハンターふうに仕上げてしまえば完璧だろう。間をゆっくり楽しませてもらえたらなおのこと完璧だ」
 それはどういう意味ですか、と間の抜けた言葉を漏らしてしまってから、遅れて意味が理解されてきた。これはかなりあからさまな誘いで、衣服を取り去って二人で楽しむことといえば、まさかボードゲームのはずもなし、程度の差こそあれ性交渉と相場は決まっている。男は恐縮した。
「おお、なんという勿体ないお言葉でしょうか、本当に……ご冗談を!」彼は唐突に叫んだ。「ご冗談を、嘴高きストラタよ……いったい全体、私のような人間のどこに向かってそのような言葉をおかけになるのですか。値する何も持ち合わせていないというのに。無論私のこの肉体というのは人類種の最も混ぜものなき原型(アーキタイプ)ではありますがね、丸い爪などヴェンノークにだってありますし、二本足で歩くのはあなたとて同じこと。それにさして立派ではありません、いいですか、私のいとこなどは身の丈も幅も厚みも貧相な私とは比べ物にならない、それはもう彫像の英雄の如き堂々たる体躯なのですからね。そう、代わりにあいつを紹介して差し上げたいくらいですよ! いいですか、よし純粋の地球人が珍かに見えたとて、それは虫を虫と、星を星と十把一絡げに括って論じるようなもの、但し書きにつられて私のようなものに気を引かれているのやもしれませんが、一度姉や父をまじまじと見てご覧なさい!」
「いとこではなかったかな?」鳥人は首を傾げた。
「ええ、いとこです、付け加えるつもりでした……どうでもいい、鳥らしく些細なことを突っつかないで頂きたい。いいですか、あなたはご存知ないかも知れないが、私はくだらないものなんです!」
 わめき散らしてしまってから、彼はひどく惨めな気持ちになった。どうして恩人相手に劣等感をさらけているのかと自問した。自称する通りのくだらない人間にふさわしい幼稚な振る舞いに恥じ入って、急に息を潜めて押し黙ってしまった。対照的に、それまで一言くらいしか口を挟まず聞いていた鳥人は愉快げに声を転がして、途端に饒舌になった。
「随分と面倒なお方のようだ。どうだね、それならもういっそ君のその物思いなんかは適当に打っちゃっておいて、ただ私に身を任せてみるのは?」彼は相手の背中に手を添えて、それとなく歩みを促した。「私はひと目見た時から君を気に入っていたのだからね。君は自分で思うよりずっと魅力のあることを自覚したらいい……ええ、少々強引だし、性急すぎるというのは、確かにその通り―足元に気をつけて―いいかね、かわいい人。恋とは得てしてそういうものだ」
 結局二人は大ぶりのソファの上までたどり着き、そこで結局どうすべきなのか検討した。かかった時間はおよそ二秒で、男は鳥人の熱っぽい眼差しに胸の疼きが耐えられなくなり、鳥人はというと、並んで座った形を崩して、男が自分を振り仰ぐ姿勢になっても拒絶の言葉が出ないのを、暗黙のうちの合意として受け取った。彼は鉤爪の先で器用に男のボタンを下から外し、最後の一つは嘴でむしり取った。古い作法だが実に効果のある情熱の表しかたで、ついには男の口からはっきりとした返答を引き出した。いいですよ、やりましょう。そこで彼は宣言した通り、次々に男の衣服を剥ぎ取っていった。丸裸にされる前に、男は相手の服の裾に手をかけて、あなたの方も見せてくださらなくては困る、と控えめに非難した。甲斐あって相手はシャツを脱ぎ、露わにされた見事な肉体に、男が思わず漏らした宗教的なフレーズには感嘆符がいくつも乗った。羽毛で覆われた胸筋は飛行の用ならずとも何らかの必要に迫られ発達した、即ち実務に即して鍛え上げられたものであって、真白の羽が胸骨のあたりで淡い斑になっているのがなぜか無闇と劣情を煽り立てた。鱗のように均等に並ぶ細かな羽の下でも、腹部の筋肉の起伏がはっきりそうと分かる。目線が下に行くにつれて、男はろくでもない興奮に心拍が早まるのを感じ、羞恥に頬が熱くなるのを感じた。銀河に散らばった各種族に関してある程度の知識は蓄えていたものの、娯楽としての性にまつわる身体的な特徴や作法については仕入れるすべもなく、下履きの中にある部分にそもそも性差があるのかさえ分からなかった。
「お褒めに預かり光栄だ、地球の貴い方」鳥人は男の反応に満足し、簡易的なお辞儀をしてみせた。
「どのように始めたらいいか。そもそも嘴をどう扱えばいいのか分からないのです、私は……」
「君らのいう〝口づけ〟というのは馴染まないだろう。我々はそうだな、軽くぶつけたり、擦りつけたり……まあ色々だ。舌は使える」
 言葉通り、厚みのある長い舌が男の首から頬にかけてをべろりと舐めあげ、男の背筋に震えが走った。憎からず思う相手の体温がそのまま肌を滑っていくのは、いい具合だった。純人間のつるりとした肌は鳥人にとっても心地よく、彼は明らかな快楽の気配を追って探索を進めていった。男は湿った愛撫に身悶えしたが、突然、あっと声をあげた。鳥人が遠慮のない強さで彼の胸の飾りを啄んだからである。激しい痛みに耐えかねた彼は、憤然として相手の肩を押しやり、抗議した。
「何をするんですか! やめてください、少し離れて……申し訳ないが、そっちにとっちゃ飾りでも、こっちにとっちゃデリケートな感覚器官なんですよ。できるだけ優しく触っていただきたい」
「それはすまない。珍しくて」彼は軽やかに謝罪を述べてから、爪を隠して折った指の関節のところで、あらためて地球人の乳頭に触れた。それがあんまりおずおずとしていたわりに満ちた触れ方だったので、男は先の怒りも忘れ、思わず浮いた声を漏らした。鳥人は血流の増えた皮膚が曙の如く色を増すのを観察し、聞く人を思わずうっとりさせるような、甘く豊かなさえずりを披露した。
「ホモ・サピエンス・サピエンスは母親の胎の中で形を成し、乳を与えられ育まれる。これはその象徴だ。我らが祖先の捨て去った過程だが、故郷とは離れるほどに美しく見えるもの。あなたはどこも美しい。あなたの翼を折り取って、引き裂いて食べてしまいたい」
 穏やかならぬ語句に男は怯えかけたが、このぞっとする文言が鳥人の母なるキューキアにおけるありふれた慣用句だと思い当たると、もっとよく触ってください、などという恥知らずの台詞が口をついて出た。性的な興奮が高まるにつれその感触がころりと固まるのを面白がって、鳥人はまた何度か首を左右に傾け、クククと愉快げな音を出した。男もつられてくすくす笑ったが、この幸せな一幕は慇懃な機械音声によって中断されることになった。
『お盛んなところ大変失礼いたします、旦那様。地球の使節にちょっとしたトラブルがあったそうですよ。ご子息のうち両方がこのステーションで姿を消したようですが、大事になったのはもちろん跡継ぎのお方であって、そこのご立派な方の姉君です。傾聴をどうも、旦那様。飛び立ったばかりの船は〝砲塔貴族〟の高速船、いま出発しなければハイパースペースに入るのに追いつけなくなりますが、いかがなさいますか?』
「おっと、失礼。セックスどころではなくなった」彼は跳ね起き、上裸のままソファを降りた。
「待ってください、姉がなんですって?」
「君の姉上が誘拐された。ジド・アラクとザムザ・メレクは有名どころの悪党だ。私は賞金稼ぎだと言わなかったかな? 申し訳ないがこの仕事は初動が肝心でね」
「あなたは……君は言わなかったぞ、そんなこと。確かに匂わせはしましたがね、それにしたって……したって、僕らで行かなくても、誰であれ姉上を拐かして無事でいられるものか。地球の名家の跡継ぎですよ」
「申し訳ないが、君の家の護衛は信用できないとよく知ってしまっているからね。図らずも……来い、久々の追いかけっこだ。操縦席に花を添えてくれ」
 言い残し、彼はさっさと歩き去っていってしまった。男は慌ててボタンの抜けた自分の服を掴んで、しばし考え、適当なところへ投げ捨てた。代わりに鳥人の脱いだシャツに袖を通しながら後を追うと、自動扉をいくつか抜けた先にはわくわくするような光景が広がっていた。さすがに操縦室ではごみごみした雰囲気は消え、無数の計器が光る中に、鳥人の逞しい肉体が据えられている。両手にそれぞれ操縦桿を握った彼は、男が自分の服を身に着けているのを見てとり、満足げに目を細めた。
『旦那様、離陸の申請は済んでいますのでいつでもどうぞ』
「そこの壁にグリップがある。しばらく捕まっていてくれ……あるいは私の膝の間でもいい。どうする?」
「どうもしない。君の邪魔はしたくないし、ここからのほうが君をよく観察できる」口調はすっかりくだけていた。「君もお尋ね者に?」
 鳥人は笑った。
「まさか。奴を捕まえて姉上を取り戻せば、まあ君を誑かした事は有耶無耶になるだろう。準備はいいかな? いいだろう。では行こうか、出発だ」
 宇宙港スルジブラ・ステーションは盛況だった。コックピットに投影された無数の、極彩色の、あらゆる異形や非異形を眺め、小さくなっていくそれらを男はじっくりと記憶に刻んだ。それから恋人(と言っても良いものか悩ましい、行きずりに近い始まりだった!)の冠羽が、高揚を示すようにふわりと僅かに立つのを、夢のように味わった。眼前にあるのは何もかも新しい景色で、それがどこまでも続きそうだった。