Kは彼の教師の命令に素直に従うことにした。というのも頭を打ってしばらく元気で、その後突然ぽっくり逝ってしまった人間を何人か知っていて、そいつらの顛末を思い出したからだった。額は熱をもってじりじりうずいていたものの、痛みはそれほどでもなかったので、毛玉とほつれだらけの毛布の下でZのことを考えた。どこで聞きつけてきたやら、彼はわざわざこのせせこましいぼろ家の三階まで上ってきて、立って歩き回れる怪我人に世話なんか焼いてやっているのだった。部屋にひとつきりの椅子に腰かけ、どことなく所在なさげにしながらも本を片手に見守ってくれる様子の友人の姿に、Kは言いようのない寂しさを覚えた。まともな名前すらもたない工場労働者の貧しいひとり住まいに、身なりのきちんとした教会勤めの男が居て、部屋の主をいたわったあとに読書なぞしている光景は、やはり幻覚のように突飛で妄想じみていた。彼はたまらなくなってZに向かって手招きした。律儀な官吏は席を立ち、喉でも渇いているなら下からお茶の一杯でも手にいれてきてやろうか、などと思いながら枕元へ座ると、怪我人の声を聞き漏らすまいと少しばかりかがみこんだ。すると迷惑な怪我人はこれ幸いとばかりに相手の肩のあたりを掴んで引き、嗅ぎ煙草でも吸うようにシャツの隙間から覗く肌へ鼻をすり寄せた。いつものように、そしてKが望んだように、彼の膚は清潔な香りがしていた。吸い込めば石鹸とニスと紅茶とで形作られたひとつの日常に、おおかた一本くゆらせてきたのであろう火の匂いが混じった。額の表面に燻る不愉快を紛らわすにはぴったりのお楽しみに、Kは思わずうっとりした。それから身を起こそうとするZの身体を逃すまいとして躍起になった。
「アンヘル、よさないか」
官吏は美しい発音で相手の通り名を呼んだ。馬鹿馬鹿しいほど早い朝の外気に触れて立つのと同じ震えの波が、Kの背骨のどこかから生じて、冷えきった爪先や熱を帯びた額をくすぐった。
「そっちこそ暴れるのはやめてもらいたいね」彼の理性は胸の裏側へ滑り降り、しきりに《幸福》という単語を綴った。「こちとら安静にしたいんだ。石鹸の匂いを嗅いでいると落ち着く」
「仕方のない男だな」
男は呆れかえる相手のまなざしが素朴な情に温まるのを感じた。黒い瞳は古木のようにしんと静まりかえっていて、焦がした砂糖のように優しげだった。彼はだだっ子に(あるいはおもちゃを放そうとしない飼い犬に)根気強く言い聞かせる調子で、さっきのように静かに眠っているようにと語りかけ、Kの心はまた同じ文字を書きつけ、Zの唇がなにか音を紡ぐたび、寄せてくるさざ波に揺られた。彼らは低めた声でしばらく問答したのち、折衷案で合意に至った。Zは上着を脱いで与え、Kはその裾を頭の下へ押し込んで満足することになった。Zがジャケツの皺を諦めたのは、捧がれる愛情のひたむきさに多少なりとも心地よさを感じていたからかもしれなかった。
月が昇りかけるまで、Zはストーヴの火にあたっていた。眠るKはあの硝子細工のごとく透き通る無垢な瞳を薄い瞼の裏に隠してしまって、魔法の解けたように疲れ、病んで惨めったらしく年老いて見えた。巻き方こそおざなりではあれど、包帯などしているとますます死に添い寝されているようで、それで他人の上着なぞ大事に抱えて顔を埋めているのには、どこかもの悲しささえあった。腕時計の二本の針のゆくえを辿ったZは、そろそろ帰るためその上着の回収にかかった。額を腫らした貧乏人は声をかければすぐ目を開いた。すると薄い茶色と緑とが、再び彼に魔法をかけた──Zは初めて視線を交わした日と同様に、この男に顔見知りの天使の肖像を重ねたのだった。
「もう行くのか。ならこいつがなきゃ君はさぞかし凍えるだろうね……や、随分皺にしてしまったなあ!」
くしゃくしゃの布地を手放して起き上がる様子のKを押し止めながら、Zは一連の動作の一部としてKの唇に自分の唇を重ね、触れ合わせた。慎ましい口づけの後、彼は痩せた頬にそっと手を添えて滑らせながら、こう言い残して部屋を去った。
「怪我が治ったら続きをしよう……では、さよなら。上着のことは気にしなくていい」
Kは短いさよならを返し、精一杯身体を丸めて毛布をずりあげた。早いところ夢の中へ戻りたかった──手っ取り早く約束を守れるからだ。彼はいい気分でいた。Zが囁きかけるときには、いつも何かしら楽しみにできる事柄が含まれている……