雨ふりだった夜のこと

 耐えがたい春先の冷たい雨振りを、Kはいつものぼろ外套でやりすごそうとしていた。なぜ雪にならないのか、こんなに寒いのに……と恨みがましく踏む路面はやはり湖沼地帯と化していて、ひと足蹴るたびに別の水溜まりに靴のどこかが侵されるというありさまで、下を気にする余裕もない彼は避けようもなく両足をびしょ濡れにする羽目になった。とはいえ、もう彼にはびしょ濡れでないところがなかった──いまや下着まで雨濡れていて、不愉快な感触が体動のひとつひとつに付いてまわった。そしてたっぷり水を吸って重たくなった外套は、否応なしに彼を陰鬱な気分にさせた。なぜ雪にならないんだ? 彼はもう一度同じ不満を噛み潰した。こんなに寒いのに! コールタールに塗りつぶされた空はよく冷えた雨粒を休みなく浴びせかかり、骨まで凍りつきそうなほど冷やされた身体は震える気力も失いかけている。このままじゃ死んじまうぞ、と彼は思った。僕ときたらなんだってこんなろくでもない日に、外をほっつき歩いているんだ? 何故だか往来にK以外の人影はなかった。家並みに灯った明かりは誰も彼もが家にいて、雨風と無縁の夜を過ごしていることを伝えている。酒飲み友達が空模様を気にしてまっすぐ帰っていったのは、まったく正しい選択だった。Kは目に入るどの窓の向こうにも、考えうる限り暖かな団欒を思い描いた。家族やよく煮込まれたシチュー、ストーブ、それに会話。歌もあるかもしれなかった。孤児として育った独り身の労働者には、型どおりの陳腐な想像しかできなかったが、だからこそ家庭のぬくもりは手の届かない星のように、行く手に眩く灯ったのである。彼は勝手な想像でより一層みじめになって、高い背を丸めて休みなく歩みを進めた。まだ家までしばらくあった、着く頃には間違いなく風邪を引きそうで、Kはますます憂鬱になった。雨は彼の持ち物すべてを駄目にしてしまいかけていた。
 ところがここで、思わぬ出会いがこの哀れな男を救うことになった。誰あろう免罪官のZその人が、ほんの目の前の曲がり角から姿を現したのである。彼はきちんと傘をさしていて、突如行き遭ったばかでかいシルエットにぎょっとした様子だったが、ほどなくその惨めったらしい濡れ鼠が自分の生徒だと気づき、まだ歩道の煉瓦とにらめっこしているKの進路を遮るようにして、知り合いの存在に気づかせてやった。
「おや、Zじゃないか!」とのっぽの労働者は鬱々とした物思いを捨てて笑みを浮かべた。「こんな所で会うなんて珍しい、君の家は反対の方角だろう」
「お察しの通り道に迷ってね」
 などと、Zは珍しく皮肉を言った。言ってしまってから、相手がそうした類いの“軽い冗談”に慣れた人種ではないことを思い出し、取り消すように曖昧な、笑み混じりのしかめ面をつくってこうつけ加えた。
「少し野暮用で出かけたんだが、近道をしようとして逆に遠回りになった。君は正しい道を知っているね? 案内を頼みたい……うちで服を乾かしていくといい。お茶をご馳走しよう」
「そりゃ願ったり叶ったりだが、Z、君のうちに着く前に凍え死んじまいそうなんだ。傘に入れてくれるかい?」
 などと話しながら、Kは今更、ぶるぶる震えだした。一度そうなってしまうと、冷気に対する生理的反応はおさまらず、振動に合わせて歯と歯がぶつかって音を立てた。もちろん、とZが持ち上げてやった傘の内に、大男はなるべく身を小さくかがめて入った。保温の用を成さない外套の襟を意味もなく寄せ、彼はお礼の言葉を口にした。言われたほうはこれがあまり役に立っているか疑問ではあったが(Kの身体はだいぶはみ出していたし、既にどうしようもなく濡れきっていた)、とはいえそのまま雨に打たせておくよりはいいだろうと自らを納得させた。彼らは並んで歩いたが、間にはどことなく言い訳がましい距離が開いていた。それは端から見れば、めいめい勝手に傘を掲げたり、雨宿りに入っているといった風な印象を与えただろう。Kは無言のまま道案内を務めたが、不思議と沈黙は苦痛にならなかった。雨垂れの打つ音が始終耳を賑やかしているからだと彼は断じてそれきり考えるのをやめてしまった。Zのほうはというと、単に相手の寒そうな呼吸音の震えを心配するのに忙しくしているだけだった。彼らは誰にも会わずに──幸運にも誰にも会わずに、官舎の建物の直線ばかりの輪郭を認めるに至った。モルタル造りの家屋は雨をものともせず夜闇にそびえていたが、明かりのついた窓が少ないために、数多ある目を閉じて微睡むごとくにも見えた。Zはもたもたしていて余計な詮索を受けるのを嫌い、さっさと階段を昇って自分の部屋までたどり着くと、挨拶もそこそこに、まだずぶ濡れの友人を上げてしまった。

 シャワーを使うといい、服はここに置いてくれれば干しておくから。Kは熱い湯を浴びながら、Zの言葉を思い出していた。彼が置いて去った丸椅子に積んだずぶ濡れの衣服は、多分もうそこにないだろう。浴室はつくりそれ自体は工場にあるものとあまり変わらなかったが、タイルに割れや黴は見当たらなかったし、排水溝の金属が足の下でぬめるようなこともなかった。蛇口をひねって数秒で、狭い空間には湯気が満ち、凍えた男の肌を温める手助けをした。湯は冷えきった肌に当たるたび掻痒を引き起こし、Kの身体はどこもかしこも真っ赤になった。彼はそれに構わず皮膚を擦って刺激しながら、壁に作りつけになった石鹸置きに目をやった。しかし、触れようとはしなかった。家の主人は構いやしないだろうが、彼自身が、ここで石鹸を泡立てることにあまり気のりしなかったのだ──つまりいま立ちこめる湯気のように、Zのふだん使いの香りが満ち満ちていくのを、そしてそのただ中で裸身を晒していることを、想像するだけで妙に恥じ入るような心地がした。彼は最低限身奇麗にしてしまったあとは、凍りついた関節の痛みが溶けるまでじっとしていた。
 出てきてみると、丸椅子の上には畳まれたバスローブが、シャツやぼろ外套と置き換えられていた。遠慮がちに袖を通したKは明らかに足りない裾の丈と、前腕がほとんどむき出しになった袖を笑った。下着まで濡らした相手に貸すにはこれが丁度良かったのだろう、と彼はひとり納得した。廊下は冷えているものの、外に比べれば十分に暖かかったし、暖房のきいた居間に行けば湯冷めの心配もなさそうだった。居間の扉の向こうからは、ケトルの鳴く音も聞こえていた。それで開けて入っていった彼は、キッチンで予想通りの背中を見せているZを横目に、自分の居場所を見つけて座った。そこは授業でもおなじみの席だったが、裸足のKのために、親切な教師はわざわざマットを敷いてくれていた。お茶が運ばれてくると、客人はようやく礼儀にかなったふるまいができるとばかりに笑みを作って喋りだした。
「ありがとう、僕は凍え死にせず済んだ上に、君とお茶までできるわけだ」
「こんなことはなんでもない」Zは通例通り、Kのはす向かいの席についた。「それにこれで君と私は貸し借りなしだ、違うかな? 道案内してもらえなければ私のほうが凍え死にしていたかもしれない」
「おっとどっこい、君にはいつだって借りがあるじゃないか、僕がなにか読むたびに、君は僕に貸しを作っているんだよ! だから君はやりすぎたのさ。いいかい、僕はなんとしても、なんとしてもだ……浴びたお湯と沸かしたお茶のお礼を考えなきゃならんよ」
 Zは片眉をわずかに上げて疑問符の代わりにしたが、それを口には出さずにおいた。そうしたどこか皮肉めいた仕草はZ地区の労働者には馴染みが薄く、Kの無邪気な笑いを誘った。官吏のほうもつられ笑いに頬を緩め、場は和やかな雰囲気に包まれた。二人は視線こそ交わさぬものの、相手が何を感じ、何を好ましく思っているか手に取るようにはっきり分かった。暖かいのだ、とZは思った。温かいのだ、とKは思った。彼らは互いの指の骨が机の天板とぶつかって立てる音を聞いた。砂糖を溶かすために茶をかき回す匙と陶器の鳴る音も、空想に等しく遠くなった外の雨垂れの呟きも。いったん席を外した家主が小皿にクッキーをとり分けている間、客人はふとあたりを見回して自分の一張羅がどこに行ったかを探した。それらはストーブのそばで乾かされていた。どこから出してきたやらの長い棒が、丈を足された外套の腕から腕へ通されて、それがうまいこと部屋の角の出っ張りの間に渡してあった。シャツとズボンがかかっている隣のハンガーに薄汚れた下着が同じようにしてぶら下がっているのを見つけると、Kはとたんに恥ずかしくなった。僕は何をさせてるんだ? と彼はばつの悪さに縮こまった。彼も彼で、几帳面もほどほどにしたらいい! ……しかしながら、腹を抱えて笑い転げたくもあった、免罪官にあんな小汚い下着を手ずから干していただいたのは、果たして罪になるんだろうか! Zが戻ってくると、Kは懺悔の文句が頭に浮かんでくる前に、出された小皿の菓子を口へ放り込んでにやにや顔を誤魔化しにかかった。配給のやや粉っぽいクッキーの雑な甘みは、Kの好みによく合った。
「君はできもしない礼のことなど考えず、よい生徒でいてくれればそれでいい。正直に言うと、私の報酬は君との会話なんだ。読んだ本について人と語らう楽しさは、そこいらで簡単に得られるものではないからね──君の解釈は興味深いし、向き合い方が真面目で好ましい。それに半人前の教師としては、教えたことを自分なりの形で身につけていると分かるのが何より嬉しい」
「おお、あんまり僕を買いかぶらないでくれ」とKは謙遜してみせたが、疑いようもなく言葉の端には素朴な照れが滲んでいた。「先生がいいのさ」
 二人はまた笑みを交わし、紅茶を飲んで、この間授業で使った物語について話した。会話が途切れても、その隙間を埋めたのは豊かな沈黙だった。減ったお茶を注いだり、焼き菓子をつまんだり、あるいは、互いの目を見ることもあった。彼らはぬくもりと優しさに満ちた相手の眼差しを愛し、そして相手の瞳に映る自らを、同じくらいに愛していた。