それからというもの、Kはどこへ行っても上機嫌に習いたての歌を口ずさみ、指や枝やチョークやら、その他筆記具になりうるものを片端から手にとって、歌の題名や歌詞をそこかしこへ書きつけてはまた機嫌をよくして肩を揺らした。その無邪気なことといったら、これが五つの子供なら誰だって抱きしめてやらずには済まないくらいのものだったが、生憎とKは馬鹿げた身丈をもて余す大人の男だったから、せいぜい親しい人間が面白がって場を賑やかす程度に留まった。ひょろ長のベリョーザ・Nなどは休憩の合間に愛すべきのっぽの歌に合わせ、お得意のタップダンスを披露して(どこで習ったか、ほとんどでたらめに近かった)一同の笑いを誘った。が、もちろんナターリヤ・Fやアレハンドロ・Kの二人は特別で、新しい学びを反芻し愉快げに時を過ごす彼とその心に跳ねる喜びを我が物として分かち合い、ことナターリヤはそうした兄の姿に胸打たれ、ほとんど恍惚として眺めるのだった。ここでことわっておかなければならないのは、彼らは決してKを羨んだり、憧れたり、ましてや自分も彼のように教えを乞うて教養を身に付けようなどといった意志が芽生えたりはしなかったということだ。もちろん、彼らから見たKはなにかしら楽しく、素晴らしいことをしていた。誠実な導き手によって戸の掛け金を外された新しい庭で、彼は幸福をその身からほとばしらさて跳ね回る子犬そのものの調子だったが、画は生き生きとした生徒を見守る教師という二人だけで完結しているのだった。他人ならまだしも、血を分けた兄弟のように思い合っているナターリヤとアレハンドロに、この余剰も余地もない幸福が分からぬ道理はなかった。事実、Kは同じ子犬の遊び相手を必要としてはいなかったのである。
授業のない週、Kは手持ち無沙汰に教会へ行き、懺悔室の前をうろついたりもした。これはなかなか実のある散歩で、前に来たときには読めなかったプレートの文字ははっきりと《地区免罪官 Z》であることが明らかになったし、パトリス・Lが青白い顔じゅうにたたえた悔悟の表情──それはまったく、数日にわたり胃がしくしくやっている顔と何ら変わるところがなかった──に、《信心深い》を示すのに適切なややひねくれた表現を探して頭を体操させることもできた。そしてはからずも詩をこしらえることになった……幽霊だ、と彼は思った。理屈はこうである。死ねばお終い的な価値観でいれば霊魂がこの世に留まり続けるなどとは考えず、したがって死ねばやはり綺麗さっぱり消え去るわけで、幽霊が存在するならそれらは皆霊魂や死後の世界なるものを心の底から信仰している連中に他ならないのだ。Kは学習のささやかな成果に満足し、冷やかしだけで待合室を去った。彼に懺悔すべきことはなかった。今日は例のとてつもない秘密を抱えた罪人の遊びもやらなかったし、空っぽの話はやめどきが分からないからZと会うのも──免罪官のZと会うのも憚られたのだった。彼は出がけに教会の門扉のところで足を止め、軽く寄りかかってみた。日のあるうちの景色には、灰色の外套に身を包んだ免罪官のきちんと撫で付けられた髪も生真面目な面差しも、馴染まぬ夢に等しかった。彼は表通りへ身を翻し、沸き上がりかけた不安感からすたこらと逃げ出してまっすぐナターリヤ・Fの元へ向かった。その日もアレハンドロ・Kはお決まりの席へやってきて、血は分けねども心を分けた双子の兄弟を抱擁した。そして盃とともに交わされたのが以下のような会話である……
「Zは大した聞き上手さ、どんなにとりとめのない話をしたってきちんとこっちの言いたいことを掴んで、返してくれる。聞いてるふりなら僕でもお前さんたちにでもできるがね、その先がまあ誰にでも簡単にできる芸当じゃないんだ……ああ、僕の話ときたらお粗末きわまりないものさね! いいかい、同じ単語を見ても受けとる人間が違うんなら、頭の中では違うものになるというようなことを言ってみたんだよ、すると奴さん、僕の話を上手いこと整頓して(僕の話はしっちゃかめっちゃかで、ひどい有り様だった!)、君とか、ベリョーザとか、それからあのアレクセイ・セミョーノヴィチなんかが聞いてもああなるほどと納得できるような形に整えてくれたのさ。なに、人の話を盗んだとか、作り変えたとかじゃない、僕が言いたかったのは、Zがこっちの言いたいことを分かって、その上で
「そりゃ結構だな!」とアレハンドロ・Kは髭をつたって滴るラム酒を袖で吸い取った。こうすることで後々まで香りを楽しめるというわけだ。「まったく結構なこった……歌をおそわったんだと評判だぜ、アンヘルよ、まさか音楽まで嗜むとは。Cのやつが羨ましがるよ。あいつめ、教養とか品性にまつわることなら何だってどうにかして自分の身につけてやろうと躍起になっているんだものなあ」
Kはこの間のやりとりを思い出し、少しばかり尻の据わりが悪くなった。何とはなしに、意地悪な心持ちであしらったような気がしてならなかったのである。
「そこまできちんとしたものじゃない、ちょっとしたお遊戯程度のものなんだよ。絵入りの冊子でお勉強しているんだからな、Cだって膨らませすぎた話に飛びついて、実際どうだかを目の当たりにしたならきっと失望するだろうて! 先生は対等に接してくれちゃいるがね、僕の読み書きがまだほんのひよっ子なのをきちんと知っているものだから、ひよっ子の段階から始めてくれているのさ。ミーシャがひよっ子扱いに耐えられると思うかい? ああ、無理だろうな……僕は違うぞ、むしろ楽しんでるんだ……この図体でひよっ子扱いしてもらえることなんてそうそうないものな!」
アレハンドロは目元をしわくちゃにしてしばらくの間笑いこけた。アンヘルが身丈の話でふざけるときは、いつでも最大限におかしかったのである。彼らが並んで立てば大人と子供を比べる戯画的なサイズ差のユーモアがあり、髭もじゃで禿げかけの子供になるのがことさら滑稽みを醸し出した。そして大男が本人も気に入りのこの栄養状態に不釣り合いな背の高さを素材に冗談を言うとき、 アレハンドロ・Kの頭には常にちぐはぐな兄弟の画が浮かんでは腹の底まで手を伸ばし、胃の裏っかわをこそばゆくするのだった。アレハンドロ・Kが笑うとなぜか普通に喋るよりよく響くので、食器のがちゃがちゃいう音や罵り合いやばか笑いの渦にもどこか朗らかな調子が加わった。
「そうだとも、そうだとも……お前さんときたらこんな手をしているんだものな! 手首から指の先までいったいどれくらいあるんだか、ナターシャの手のひらがいくつ収まることやら。ナターリヤが、俺たちの妹、麗しのF嬢が俺をちっちゃなミーチェンカと呼ぶのも頷ける……ところで、大先生のたっぱはどのくらいだったかな」
「君より高いが、僕よりは低い」と分かりきった返事をした。「ベリョーザと同じくらいはあるだろうな……いつも前を歩いていくのについていきがちでね、あまりよく覚えちゃいないよ、どうにも遠近感ってやつがだな……ああ違う、後にくっついて行ったら彼の家の、家というか間借りなんだがとにかく彼の部屋までの途中にある階段じゃ、前を行かれれば僕らは目の高さが同じになるよ、二段くらいの差だろうか。なに頭ひとつ分さ、ふだんは頭ひとつ分僕は彼を見下ろすんだが、彼が──」Kは途端に言葉をなくした。
「彼がなんだって?」
「いやなに、つまらんことさ。机についてしまえば僕より小さかろうと大きかろうとそんなに気にならんよ、ちょうどいまの僕らみたいにな。眉を上げてみろよ、高さが同じくらいになるから。そうだそうだ、その顔、やれ、おどけ者の顔をしたな!」
善良なる髭面の友は言われるがままに両の眉を上げてみて、茶化されたのに気づくとまた快活な笑い声を喧騒の幕に撒いた。
彼の喉を詰まらせたのはいわば伏せ置かれた一枚の写真で、めくる前から厄やそれに準じたものをもたらしそうだと予感できたので、ひとまずは放っておいて、視界の外にあるうちに風が連れ去ってしまうのを期待してよそ見をせずにはいられないような代物だった。もしも酩酊がここぞの判断を鈍らせていたなら、Kは記憶のフィルムに焼き付けられたZの姿、門扉のところへ現れて自分に挨拶をよこす官吏の身の丈も服装も顔立ちも、驚くほど明瞭であることに気づいただろう。そして