君を呼ぶときは

 授業が終わった。文字盤から手元へ目を落としたZは読みかけの小説を閉じ(それは次にKへの宿題にしようかと検討中のものだった)、時間が来た旨を告げつつ生徒の鉛筆が罫線の間に刻んだシュプールを追った。徐々にこなれてきてはいるものの、まだ拙い筆跡はいかにも無邪気に弾んでいて、書き手の心持ちが推しはかられるようだった。Kは自ら望んではじめた書き取りを楽しんでいた。最近では自分の手で文字を書くことそのものが楽しいらしく、積み木を並べる赤ん坊よろしくいつまででもこの新しいおもちゃで遊んでいた。効果のほどは定かでなかったが、少なくとも手と頭を慣らすのには申し分ない練習であると思われたし、心なしか綴りの間違いが矯正されていくようなので、Zはしばらく教え子の好きなようにさせてやろうと決めていた。
「僕としては上手くいったほうだが、とても君のようにはいかない。君は何年選手なんだい、実際のところ?いや、いい。きっと生まれた時からだろう」とKは一方的に喋りかけながら、広げていた冊子をいそいそとまとめ、ずだ袋の中に放り込んだ。それは雑多な物入れになっている袋で、こういう小物を携えたKはいくぶん親しいZの目にもみすぼらしく映ったし、はっきり言うとほとんど浮浪者同然だと思うことすらあるのだった。然しZは席を立ったのっぽの労働者をきちんと玄関まで見送ったし、相手が向けてきた笑顔には自然と口元が和らいで、親愛の情を隠さずに表した。
 生徒が行ってしまってから、Zはあることを思い出した。彼は暗い寝室へ電気も点けないで引っ込むと、珍しく慌てた足取りで居間の明かりの下に戻ってきた。それから、そのままの勢いで玄関扉を開け放ち、上着なしでは寒い外へとそのままの服装で飛び出していった。
 上から目に入る門のあたりでは誰ぞがやかましくしていたが、耳慣れぬその声は、注意して聞くまでもなくKの名前を連呼していた。アンヘル! まさか君がこんな所で勉強していたとはね!陰鬱な建物じゃないか、ええ、アンヘル、陰鬱な建物じゃないか……階段を降りていくと、声はますます大きくなったが、不平不満や官吏の中傷といった内容にそぐわず不思議と嫌味ったらしさのないのがZをどことなく愉快にした。
「アレハンドロ・K、兄弟よ! そこまでにしておかないと鼻っ柱をへし折るぞ……」
 から始まって、Zの二個目の踊り場をまわったばかりの視界の外で、親しげで粗野で品のない会話が無闇な大声で交わされた。途端、近いほうの足音の間隔が早くなり、地階を踏んだZの前には、駆けていくKの外套が重たげに翻る様子があった。身丈もあれば脚の長さもそれなりなKは飛ぶような速さで遠ざかり、門扉のあたりでせわしなくうろうろしていた髭の男の肩を抱くと、大きく揺さぶってからわざとらしい大股で歩きだした。アレハンドロ・Kと呼ばれた髭もじゃは、かなり無理をして自分も友人の肩を抱こうとしたが、そうはできずに背中の適当なところに腕を回すことになった。二人は何やら歌い始める気配だった。Zはこれを眺めて、いくらか躊躇うそぶりを見せた──K、と呼び掛ければどちらの男も振り向くことが明白だったからである。かといって、今まで業務の文脈以外で、ZがKに対しアンヘルと呼びかけたことは、ただの一度もなかった。だが彼は思い切りの悪くないたちであったから、最後には決心してしまって、声をはりあげてこう叫んだ。
「アンヘル! 君に渡すものがあった!」
 彼は距離を詰めるため少しばかり小走りに駆けると、上着のポケットからくしゃくしゃになった小さな紙袋を取り出し、振り返ったアンヘル・Kのきょとんとした間抜け面へ、飛距離が出るようにやや上向きに軌道を定め、思い切り投げた。アンヘルは慌てて友人から離れ、Zの放った小包をすんでのところで手の内におさめた。
「うちに帰ったら開けるといい、腐るようなものでないから」
 そう言ってZは身をひるがえし、自分の住まいへ戻っていった。アンヘルはアレハンドロの訝るような視線を片手で散らし、Zが寄越した紙袋をそっとポケットへしまいこんだ。彼はそれからの道中すっかり上の空で、奢りだと何度親友に誘われても、かたくなに断って屋根裏部屋へと帰っていった。Kは外套を脱いでしまうまで、袋の中身よりもZのことばかり考えていた。正確にはZ本人ではなく、Zによって発音された「アンヘル」のなだらかで美しい響きのことを、であった。