人生

 「どうぞ」
「そうだね、終わりごろに来て、君を少しでも暖かいところで待とうとしている。利己主義というんだろうね、こういう考えや行動に走るのは」
 それからしばらく無言が続いて、Kはおや、と思った。自分がこうして懺悔の場に相応しくない朗らかさで罪というには程度の低い何かしらで国の努力義務を茶化してみせるときには、それがつまらん類いの冗談であってもZはほのかな笑みを含んだ(それは衝立の向こうにはっきり目視されるかと錯覚するほど明確に混ぜられた好意だった)声色で「はい」とか「ええ」とか「構いませんよ」とかの返事をしてくれるのだったが、今日はおし黙ったまま一向に場面が先へ進まなかった──「あなたの罪は許されましたよ」すら返っては来なかったのだ!
「利己主義は罪のリストには入っちゃいないのかな、それとも君が実はもう仕事を切り上げちまって、僕はここで一人芝居をやらされているか……」でっちあげだがもっともらしい説に聞こえだし、Kは同僚の声で『奴らが見てるぞ!』を聞くような気がした。「まあ許されなくたって胸の潰れないくらいの過ちしかしでかしちゃいないからね、そろそろ退散したほうがいいようだ……」
「待ってくれ」と声がかかって、立ち上がりかけたKを椅子に戻した。「そこにいてくれ、話したいことがある」
 なんでもどうぞ、とKは言ったが、これはどうもただならぬことが告げられるぞと身構えずにはいられなかった。Zはこれまで友人の冗談に笑いこそすれ、職場を歓談の場にすることはなく、ましてや自分から話しかけるようなことは一度もなかったからである。Kは衝立の向こうに意識を向けすぎないよう、あたりへぼんやり目を配った。それほど新しくもない、むしろ古めかしく印象づけるべく作られた懺悔室は、どこも地味で落ち着いて茶色に属する色彩で構成され、床の板目に落ちる影も完全な黒ではないようだった。Zはなかなか次の言葉を継がず、聞き手の目は見るべきものを失って何周も同じ要素を拾った。しかし沈黙は永遠になるはずもなく、ついに話は切り出されたのである。
「異動になった」声は淡々と響き続けた。「明日にも荷物をまとめて出ていかないといけない。荷造りがあるから今夜の授業は取り止めにしてほしい。K、残念でならない。君にはまだ教えたいことがあった。本当にすまない」
 Kは肩の力を抜いた。そして人生には想像できる不幸しか起こらないという誰かの言葉を思い出した。飽きるほど眺めた部屋の四隅が迫り、空間が急に狭まったような気がした。衝立のこちら側、狭いほうで他人の懺悔を聞いたなら、返事はひとつきりしかなかった。Kは天気の話でもするような気軽さでそれを口にした。
「あなたの罪は許されましたよ」
 すべきことが残らず終わって、彼らは同時に席を立った。正反対の方向へ出ていき、別々の扉から出てそのままそれぞれの家へ帰った。Kは食事もせずに寝支度をし、Zは着替えもそこそこに旅支度を始めた。二人の部屋の温度はあまり変わらなかった。Zは暖房をつけないまま作業に没頭した。彼は文房具や本をまとめる時、あれもこれも生徒のために置いていってやりたくなるのがいちいち悲しかった。おそらく会う暇もなければ、託せる誰もいなかった。Kはさっさと薄い毛布にくるまると、今まであったことを早く忘れてしまおうとした。彼は“がらくた男”のようになりたくなかったのである──昔は家が金持ちだったこの男は、どうしようもなく落ちぶれてしまってからも幸福だった子供時代のことばかり話し、考え、思い出に浸るがために酒に溺れたあわれな奴として知られていた。彼にとって優しい母親やぴかぴかの子馬、蜂蜜をたっぷりかけたパンや数えきれないほどのおもちゃの贈り物などといったものどもは皆、もう二度と帰らぬ日々として苦痛を与えるだけになっていたのである。Kはまず、教師の淹れたお茶の香りを捨てた。詩を読み上げる声を捨て、紙を押さえる左手の甲の傷を捨て、生徒を励ますべくかけられたいくつもの言葉を捨てた。質問をするたび向けられた誠実さを捨て、歌や冗談やとんちんかんな思い違いの場面ではいつも現れたあの親しげな笑みを捨てた。彼は一晩かけてなにもかも捨ててしまったが、朝になっても床にうち捨てられたビールのラベルが読めることや、鳥を見ればそのつづりが浮かぶこと、明け暮れの空模様にも連想される詩人たちの言葉から逃げるにはもう数年かかることには、気づかないまま朝を迎えたのである。