彼らの挨拶

 雪はアンヘル・Kの帽子を目深に被らせて、緑混じりの薄い褐色の瞳を、薄暗がりへと押し込めてしまっていた。彼の長靴はそこかしこがほつれきって隙間だらけで、だもので放射冷却に降り積もらされたパウダー・スノーは靴下の繊維の隙間で融点に達し、入り込むそばから水に変わった。Kの爪先は勤め先を出ないうちから凍りつき、なまくらになった神経が、霜焼けに腫れ上がった指から妙な感触ばかりを返した。外套の襟を寄せると、襟巻きの隙間からやはり微細な氷の粒子が、彼の首筋に狙いをつけて滑り込んだ。これも膚を湿したが、頸は心臓に近い場所であるために(また、太い血管が走っているために)足でのようにははたらかず、ぬるま湯となっていつまでもそこに居座った。
 両脇の家並みに灯される照明やほのかに漂う夕餉の香りに、Kの胸中は芽生え出た愁いで一杯になった。これらは家であって、内部の実際がどうであろうとも、今この瞬間、路地の積雪を散らして歩く独り身の若い労働者にとっては、どれも団欒を抱いた箱なのだった。窓辺に漏れる電灯の光は蛍火の如くに行く手を彩り、関わり合うことのない幸福の味がKの精神を解きほぐしにかかった。彼は長らく帰る家のない子供で、町の片隅のひとつところに落ち着いた現在に至っても、その家が彼を欠くべからざる構成要素としてみなしている筈もなく、こうして彼以外の誰だかに与えられた楽園の傍らを、よそ者として通り過ぎていくしかないのだった。共同体の歯車の多くは彼のような団欒の場を持たぬ独身者であるにも関わらず、幼い夜闇が暗がりを膨らましだす頃合い、町はしばしばこうした人間をあぶれ者にした。
『それにしても寒いこった、これだけ着込んでいても風が漏っていてヽヽヽヽヽヽヽ、まるで太刀打ちできやしない。ひどいもんだ、だが……』ここで彼は、温かい紅茶が胃の底まで滑り落ちていく感覚を思い返した。『Zは今頃お湯でも沸かしている頃だろうか。それとも、僕の足取りが鈍いのを予想して、まだ支度にかかっていないか……なんにせよ早いとこ辿り着きたいものだなあ!』
 とはいえ足はゴムのような肉の塊になっていて、急ぎ足には耐えられないのが分かりきっていたために、いくら心が逸るにしろ、Kはそれまでの速度を維持するにとどまった。Zの住まいするよそよそしい集合住宅が見えてきたとき、彼の睫毛にはすっかり霜が下りてしまっていた。
 階段は最後の最後にひどい苦痛を与えたが、ともあれKは目的地までたどり着いた。ブザーを鳴らすと、数拍ののちに扉は開き、あまり厚着でないZの姿が、室内の暖気とともに彼を出迎えた。二人は石を割るような外の冷気があまり入り込まないよう、言葉も交わさず中へ引っ込んだ。玄関のところで、Kはうすく唇を開き、淡く食むようにして友人の唇へ接吻した。ZはのっぽのKがそうしやすいように頭を傾けるほかは、特に何をするでもなかった。挨拶の場合は軽く触れる以上のやり方は許されないとか、頬に手を添えてはいけないとか、姿勢の問題があっても相手の腰を支えてはいけないとか、それらは夫婦や恋人同士ですることであって、彼らのような関係性においては失礼にあたるとか、そういった諸々を指摘することもなく済ませていた。向こうの部屋ではケトルの息が沸騰を知らせていた。
 居間に戻ったZは生徒を定位置へ座らせると、預かった外套をハンガーにかけ、自分の上着の隣に吊るした。それから手順通りに飲み物を用意し、今日はそこにビスケットの小皿を添えた。Kは椅子に横座りしてその様子を飽きもせず眺めていたが、トレーを手にしたZが振り向きかけるやいなや、手元のノートに視線を移し、この間写し書きにした詞の一節を途中から読んだ。
「外は寒かったろう」
「それなりに。いつものことだ」とKは上目使いに話し相手の顔を見、カップと小皿とをこちらへ寄越すZの手元を見、ノートを閉じてきちんとした向きに座り直した。「お菓子があるね。ビスケットか、まさか君が焼いたんじゃないだろう?」彼はいたずらっぽく笑んでみせて、早速にそれを口に運んだ。ふくよかな甘味が広がった。
「まさか」紅茶を注ぎながら、Zは小さく肩を揺らして笑った。「配給のリストに載っているのに気づいてね。糖分は頭の働きを良くする」
「それにお茶にも合う」
「そうだ、お茶にも合う」
 二人はそうしてカップを手に取り、ほとんど揃ってはじめの一口を味わった。Kは期待した通り体の内を流れていく温度にうっとりし、向かいに座るZを窺った。彼は瞼を閉じて二口目を味わっているところで、自分の仕事に満足している様子だった。それに倣ってカップを傾けると、Kの胸は再び穏やかに温められた。彼はにわかに、これが道中自分の求め焦がれた、団欒の幸福ではないかと思うのだった。