ああ悲しみよここにあれ

 男は相席になった相手の顔をじっくり眺めた。悪い癖だと自分でもはっきり分かっていたものの、どうにも控えられない性癖だった。向かいに座った男は身なりのきちんとした若者で、焦げ茶色の髪は艶々していた。見たところ官吏らしい、と男は思った。品のない観察を趣味にしているだけあって、人の生業を当てるのは得意だった。水を使えば手は荒れるし、機械を使えば服は汚れる。食べ物屋なら髪は綺麗だし、派手な耳飾りはいつだってその道の女についていた。役人は、こと免罪官と呼ばれる奇妙な役の担い手は、こうした簡素で清潔な風貌とともに、無作法な視線を意に介さないでいるという特徴を持っているから分かりやすかった──といっても免罪官なる人種を観測したのはまだ二人、それも二人とも教会で姿を見たのだったが、男には自信があった。
「相席を失礼しますよ」
 どうぞ、と官吏とおぼしき若い男は返事をし、やたらと大きな木の匙でスープをすくって一口飲んだ。どうやら赤かぶのスープらしく、空きっ腹には堪えられない香りがもくもくと放たれていたので、男はすぐに同じものと、追加して白パンを注文した。注文を待つあいだも、彼は目の前の若い男の飲み食いする様子をじっと観察していたが、どうしても好奇心を、それも不謹慎の謗りを受けても仕方ない類いの好奇心が、ムクムクと遠慮を退けてわき出て来、ついには男にこのような質問をさせてしまった。
「誰かお亡くなりになったようですな」
 若い男は食事の手を止め、まったく無意識の癖のように襟元へ手をやった。ほんの指先くらいの大きさの黒い布きれが、銀色のぴかぴかしたピンで丁寧に留めてある。彼はまっすぐ男の視線を受け止めて、それからスープ皿の草木模様へ目を落とした。そうして落ち着きはらった様子でこのように会話を始めた。
「友人が亡くなりましたので」
 分かりきっていたことだのに、男は今さら恐縮した。「ああ失敬、お悔やみを……」
「いえ、もうずいぶん前の事ですから。本当ならとうに喪が明けていても構わないくらいの日にちが経ちましたが、なにぶん機会を逃していましてね……もうそろそろ外してもいい頃でしょう」
 と彼はわずかに愛想笑いを浮かべながら、襟のピンを外そうとした。しかしどうだろう、十本の指はほんの小さな金具の上でごく簡単なはずの動作をためらうばかりで、いっこうに仕事をしようとはしなかった。若い男はわが手に言うことを聞かせようと眉間に皺を寄せ、そうと知れるか知れないかの苦しい息を一度つき、それから何秒か頑張ったあと、深いため息をついて諦めてしまった。男は恥じ入る様子の相手に対し、なにか励ますようなことを言ってやらなきゃならん、との思いにかられ、慌てて明るい声を出した。
「ああ、構いませんよ! そのままにしていらっしゃい、私は気にしやしませんからね。無理して外すようなものじゃない、誰が決めたわけでなし、好きなだけ着けていらっしゃい。きっと今は都合が悪いんでしょう」
「ええ、そうです、きっと都合が悪いんでしょう」若い男は両手を机の上に置き、肩を落として憂鬱をくつろげた。
「晩餐のお邪魔をいたしましたな、どうです、御友人を偲んで一杯やりませんか? 私が奢りますよ」
「ご厚意だけ受けとりましょう、あまり強くはない方でしてね。明日の仕事に障りますので」
 やんわりと遠慮する旨の言葉を受けても、男はそわそわ身動きした。関係のない文言からもやるせない喪失感が漂ってきて、尻が落ち着かなかったからだ。というわけで彼は急いでヴォートカを頼み、グラスを差し上げこう唱えた。「では勝手ながら私から……御友人に!」
 若い男が簡潔に礼を述べたあと、彼らは食事の続きにかかりきりになって、結局最後まで一言も交わさなかった。しかし男が去ったあと(随分な早食いだった)、若い免罪官は襟元へ手を伸ばし、黒い布きれをピンや襟の布地ごとそっと握りこみながら、私の友人に、と静かに呟くのだった。