歪んだまなざし

 その日、扉を開けて入ってきた教え子が、綴りの練習をするのでも詩を口ずさむためでもなくもっと別の用事で訪ねてきたことを、Zはひと目で理解した。何ら問題のないときでさえ日陰の多いKの眼のまわりは、まさに腐りかけの肉よろしく黒々として、不健康な労働者の顔色は玄関の蛍光灯のもとではまったく土気色に見えたし、それは事情聴取もそこそこに連れ出した居間の光──より暖かな色彩のもとにおいても大して変わりばえしないどころか、健全な日常の背景に連れ出されたいまのKは、その身の病んだところばかりが強調されるようであった。具合の悪そうなKが大人しくしていたのは家主が椅子を引いてやるまでで、お茶を用意するから座るといい、という至極まっとうで思い遣りに満ちた提案を、彼は頑としてはね除けた。そればかりかZの肩を必要以上の力で掴み(はっきりとした呻き声が聞かれた)、お茶なんていらない、とうわごとそのものの調子でしつこく繰り返した。嫌な気配に毛羽立たされたZの精神は、今すぐにでもこの男を部屋から追い出したほうがいい、と分かりきった警鐘を鳴らした。それをひとまずなだめておいてから、彼は対話を試みることにした。白い手が、小汚ない外套の肩のほつれをなぞり、そのあたりを、友愛と歩み寄りを示すべく軽く二度叩いた。
「飲み過ぎでもしたのか? どうやら君は疲れていて、確かにお茶は必要ではないようだ。眠ったほうがいい、私のベッドを貸してやろう……」
「Z、寒いんだ」長い指がふたたびZの襯衣の肩口に噛みついた。「苦しくてたまらない、苦しい、だからここまで来て、君に……」
 そしてなおも自身の窮状について言い連ねようとしたが、言葉は残らず喉仏のあたりで引っ掛かり、うまく出てはこなかった。それらが砕けたあとのかけらとして、寒い、苦しい、つらい、といった類いの単語が漏れ出し、わずかな時間あたりに漂った。それから、慰めの方法を定めかねるZの当惑をよそに、具体性のない懇願を続けるのだった。Zはしばらく返事もできずに与えられる痛みをこらえていたが、このままでは埒が明きそうにないと悟ると、努めて優しくではあるが、しつこくまとわりつくKの指を引き剥がしにかかった。Kは狼狽し、自分から両手を離した。長すぎる腕が身体の両脇にだらりと垂れた。
「助けてくれ」彼はすすり泣いた。「Z、僕に必要なのは君だ」
 これを聞いたZの頭には、いかにしてこの正気を失った男を毛布の下へ押し込めるか、ということしかなかったが、Kのまなざし──雨だれに似た滴を落とす濡れた瞳の奥にある、熱病に冒されたもの特有の激しい渇き、目に入るものを残らず灰にしてしまおうとする焼けつくようなまなざしを受け止めてしまうと、寝台や毛布に関する考えは季節外れの陽光に晒された霜のようにじりじりと溶かされてしまい、あとに残ったのは自覚するのも厭わしい下劣な欲望だった。Zは平生この類いの情を卑しいものとして軽蔑していたが、いまは己にすがりつき普段の快活さを失ったこの陽気な労働者を、日々学びゆくことにみずみずしい知への欲求と喜びを見出だしまたそれを提供しもする無邪気な生徒を、恥ずべき動物的な衝動の赴くままに破壊してやりたかった。彼はKに歩み寄り口づけると、呼吸のために緩んだ唇の間を割り入って、力の抜けた相手の舌に自らのそれを絡ませようと躍起になった。寒いと繰り返す割にKの口内は熱く、小さな矛盾は良識を黙らせるのに好都合だった。粘膜接触の副産物として生まれる湿った音と荒く混ざりあう両者の息遣いが学びの場の素朴な静寂を汚すのを、Zは半ば恍惚として聞いていた。口づけが止むと力の抜けていたKの体は崩れおち、よく掃除された床板の上で跪くかたちになった。振りあおぐZの面に浮かぶ情欲のしるしは、彼の位置からは逆光となって判然とはしなかったが、このライティングがもたらす神秘性はむしろ平生この男が抱くひたむきな(狂気にも似る)信仰の対象、畏敬の念と盲目的な信頼とを捧ぐ偶像を飾るには相応しい演出効果だった。Kの頬はふたたび涙にそぼ濡れた。彼の崇拝する賢者は膝をつき身を屈め、自らを陰の内に閉じ込めたのと同じ光源に祝福されて輝く信徒の頬を掌で包み込み、新たに下る滴をそっと拭ってやった。いたわりに満ちた優しい仕草だった。しかし優しさが旗を振ったのはそこまでで、慈悲を与えていた両手はならず者の作法で胸ぐらを掴み、瞬きする間もなく相手を床に押し倒した。Zは無抵抗の獲物に馬乗りになった。組み敷かれたKは鈍い呻き声をあげ、いかにも苦しげに身をよじりはしたものの、緑とも薄茶ともつかない瞳の色には確かに淫らな期待が滲んでいた。彼は血の気の失せた唇で、はやく、と催促の言葉を口にした。それはふいごで風を送るようにZの心臓の裏に燻る暗い火種を煽り立て、爆ぜた火の粉で免罪官のまっさらな肌を焦がした。Zは自身の肉体と襯衣の間の僅かな空間が熱れるのを感じ、しばし呼吸を整えた。表情こそ変わらなかったが、今の自分は到底あの椅子に──他人の罪の告白を聞き届け赦しの文句を返すあの席に──座る資格などなかろうな、と考えていた。この類いの欲に流されて他人の、こと意識の混濁した弱い立場の人間を虐げるとは、国家がガイドラインに従ってこれを赦しても、官吏ではない個人としてのZは軽蔑を覚えずにはいられなかった。だが、いざ自分がそうなってみれば、良識も良心も遠巻きに非難する程度の力しか持ち得ないのだと悟らされ、ゆえに彼は遠慮の欠片もなく、引きむしるようにしてKの襯衣の前を開いた。いつになく粗暴なやり方ではあったが、床に転がった釦の位置を記憶しようとするのはやはり彼の律儀なところで、本人はそれを毫も意識しなかった。
 襟を寄せようともがくKの腕を床に打ち付けてしまってから、Zは口づけを落とすかわりに相手の喉笛に食らいついた。そのまま顔をそむけたKの首筋を探り、やや油臭い粗悪な石鹸の匂いのする襟足へ鼻先を埋め、乾燥して舌触りの悪い肌を貪る合間に、歯の浮くような文句を山ほど囁きかけた。赤面こそしないものの、憐れな病人は身に余る賛辞にむしろ劣等感を剥き出しにされて、その息遣いに苦痛を露にした。君は美しい、と降る度に呼吸は乱れ、喘ぐような音が続いた。虚飾に溺れる人間を喜ばす言葉が卑しい身の上の友には恥辱のみを呼び起こすのを認め、Zの心臓は歓喜にうち震えた。ありのままを言えば、Kの肉体は美しくなどなかった。いつか死にかけの痩せ牛がこれとそっくりな、憐憫の情を誘い起こさずにはおかない骨と皮ばかりの様相を見せていた(前に赴任した農村ではごくありふれた日常の一部だった)。色つやの悪い肌も、顔の深い陰影も、関節と関節との間の長すぎる指も、ぱさぱさして褪せた砂色の髪も、すべてがこの男の短い生を暗示するようだった。蜻蛉の詩的な儚さはなく、ただ貧困と不遇と遺伝的な欠陥が当然の末路に導いていくだけの、味気ない死の過程。生を受けた瞬間から窶れ果てていたKの胸に、餓えたことのない男の唇が触れた。団欒を知る男の接吻が、浮いた骨のひとつひとつに捧げられたが、神聖になりかけた行為をわざと貶めるがごとく、幾つかの鬱血痕を残した。それから、彼は病んだ男の肌を貪り、子に乳を与うには用を為さない痕跡的な構造に舌を這わせ、初めて抱いた女が望んだのと同じやり方で弄んだ。Kはこの戯れに経験があるらしいことを、Zは頭を撫ぜる慣れた手つきに感じ取った。恐らく物好きな婦人連の幾たりかがこの遊びに興じたものと察し、彼は不愉快になる一方でこのように考えた……今さら俺がKを汚したところでさしたる不都合もあるまい。彼は元々綺麗ではないのだし、本人もそうされることを望んで、ふらつく足でこの部屋までやってきたのだ……Zはずり下がり、骨格を欠いた部分のなだらかな起伏を楽しんだ……乞われるままに身体を与えるのと、依頼されて文字を教え込むのと、一体どこに線引きがある? どちらも施しだ、それに概してこうした地域の孤児は……
 と、彼は途端に恐ろしくなった。それまで彼を襲っていた性的欲求は無論おぞましいものだったが、たった今兆した考えに比べれば可愛らしいと評して差し支えないとさえ思われた。ゆっくりと唇を離すと、その頬をKの指先が不満げに追いすがった。Zは嘔気を催しながら、不自然にぎくしゃくした動きでKの身体から降りた。癒されぬ渇きに上下する胸の様子を眺め、うわごとのように自分を呼ぶ病人を抱き起こしてやると、乱れた着衣を直すこともせず、さりとて邪な意図もなく、震える身体を長く抱擁した。瞼に口づけてやりながら、彼自身も震えていた。
 こうした地域の孤児は幼少期に辱しめられた経験があってもおかしくはない、とZは思った。ごく自然に導かれた予想だった。だが果たして、Kが下級官吏のひとりなら、同じ教区の出身であれば、出会ったのが懺悔室でなくどこぞの貴族の邸宅であったなら? これは偏見だった。Zは自らの内に知らず知らずの内に根を張った偏見にこそ、心の底から怯えたのである。