あなたの罪は許されましたよ

 その日は朝から雪だった。Z地区免罪官はかじかむ指先を吐息で暖めながら“教会”の門扉を越えて、裏手にある職員通用口を開けると、傘の雪を落として中に入った。室内は暖かく、外套についた氷の粒が一息つく頃には生地をいくらか湿らせていた。彼は道中、路上の積雪につけられた足跡に労働者たちの亡霊を幻視し、そこにひときわ背の高い影を混じらせては、翌日のことを考えた。随分と性急に予定を詰まらせたものだ! もうそろ他人を教え導くことにも慣れかけた新米教師は内心苦い笑いを漏らし、次に何ができるかに議題を移した。Kは立って歩くことを知ったばかりの子供のように、新しい能力を試したくて仕方がないようだった。彼はどこへでも歩いていこうとするだろう、しかし手綱は必要で──ここでZは比喩をいじった──暴れ馬になった若駒が堀に気づかず脚を折る前に、きちんと進むべき道の選び方を示してやるべきだった。彼はこの世に溢れた望ましくもない欺瞞や、薄っぺらな警句のことを思った……それから、思慮の足りない人間を唆すのに必要なあらゆる甘言のリストを。皮肉なことに、だいたいの嘘偽りと美辞麗句はまさにこの官吏に俸給を与える養い親、愛すべき国家によって吐き散らされているもので、Z自身にもこの手の辞書を引いた覚えがないでもなかった。出勤の路程を終えていままさに虚しい慰めの席につかんとする彼は、鞄から筆記具の缶を取り出すと、意味もなく角度を揃えてノートの横へ据え付けた。
 椅子を引いて適切な位置へ落ち着けると、もうそろ業務の時間だった。衝立の向こうの立方には確かに厳かな空気が漂い、この見捨てられた街の罪人を待ち受けていた。いつでも妙な感じがするものだ、ありふれた小部屋の珍しくもない衝立の向こうに同じ人間が座っていて、ただ「どうぞ」と告白を促し「あなたの罪は許されましたよ」などとお決まりの文句を口にするだけなのに、ある種の人々には侵しがたい、神聖な何ものかを相手どって儀式をするのと何ら変わりない効果をもたらすのだから。要は誰であろうと構わないのだ、清貧の誓いを立てて全身全霊で耳を傾ける神の僕と、命令されてそこにいるだけの小役人には実際上の大した差もなく、舞台があって役名が分かっていさえすれば、用意された満足に入り込むことができるものである。免罪官の多くは「私でなければ」といった義務感を持たなかった……というより、そういう類いの情熱はいわば救世主願望というべき面倒な要素と結び付きがちなため、適性試験の複数の項目で大きな原点対象になっているため、救済の道に生きようとする下級官吏は、二三の例外を除き現れなかった。Zにしても、まあ話を聞いていくらか罪深い市民の心が軽くなったなら喜ばしいなどと思いはしているものの、どれほど悲劇的かつ破滅的な悔恨の叫びを聞いたところで(幸か不幸か、重すぎる罪を抱えた人間は前の任地にもZ地区にも居なかった)、例の定型文が少しでも慰めになればといくらか優しい声色をつかってみる程度にしか干渉しようとしなかっただろう。面倒事と片付けて薄情な距離にあるのではなく、単に自己の限界をわきまえているといったほうが、彼の名誉のためにも正しい。
 定められた時刻から分針がいくらか進んでも、“ある種の”人は訪れなかった。今日一日の暇を予期した教誨師は、早くも馴染みぶかい退屈が忍び寄るのを感じていた。語り手が来るまでは思い思いの方法でやり過ごしても構わない、許されたサボタージュ。彼はもう半刻待ってみて誰も来なければ、読みかけにした詩集の残りのページと親しんでも悪くないな、などと思いはじめた。Kに勧めるにはやや難解な、というより前衛的な言い回しを多用するきらいのある代物で、父親からの餞別のひとつだった。何事においても保守的な父がこのような詩を息子に読ませたがったかどうかは疑問の余地があるものの、鮮烈な語句の並びは気分転換には丁度よかった。免罪官の日々がどのようなものか承知している彼だからこそあえて物珍しさのある詩を贈ったのかもしれず、ともすると、彼自身が仕事につきものの退屈を読み慣れぬ前衛詩で紛らわせたのかもしれなかった。
 結局、最初の罪人がやってくるまでにノンブルの数字を10ほど進めることになった。はじめに入ってきたのはまあどこの街にも一人はいるタイプの年寄りで、家族への不親切やちょっとした嘘を告白した。続いてちらほらと市民が訪れ、心に負った荷を下ろして帰っていったが、どれも重荷には程遠く微笑ましいくらいのもので、なかには同情や憐憫に眉の寄るようなものもあったにしろ(不注意で子猫を殺してしまった若い女性の涙などだ)、Zも問題なく聞き流した。彼は今日も大した起伏なしに終わるだろうと予想したが、そうはならなかった。十一時を回った頃に来た一人の男が、小さな丘を──あるいは窪地を、この一日に残していったのだった。
「俺は懺悔することなんか何にもありゃしません」と男は慌ただしく席に座って、開口一番こう宣言した。「ここひと月、罪なんぞ犯しちゃおらんもので」
「そうですか」Zは聞いていることを示すため軽く返事をしながら、この男が来る前にしていた落書きを眺めた。先程の詩の中で印象的だった一節は、互いの尾を噛む蛇のように組み立てられていて面白かったのだ。「それは何よりです」
「だから代わりに来たんですよ、罪のある人間の代わりにね。やつは教会の前までは来ても、中に入ってきやしないでしょう。なにせ戸籍がないもんだから。しかしあのでかい図体にどれほど悪事を詰め込んでるかといったらね、天使だなんだと呼ばれちゃいますが、まるっきり悪魔なんですよ」
(おや、Kは恨みを買ったらしい。とすると、これが喧嘩の相手だな)とZは俄然興味を持った。下世話だとは分かっていたが、好奇心というものは、こと向こうから勝手に押しかけてくる場合には仕方のないことと舌を出して生き生きと跳ねるものである。
「あの男があなたにその、何か読み書きみたいなことを教わっているのは知っているんですがね、やつは真面目に取り組む気なんてさらさらないんだ、あなたは知ってますかね、あの男が半年っきりしか続けるつもりのないことを?」
「ええ、知っていますよ」
 Zの返事はこのようなものだった。むろん多少驚きはした、したものの、喧嘩相手の告発はいかにも自棄っぽく聞こえたし、もっと色々なものが読みたいと頼んできたKの瞳のかがやきと比べれば遥かに真実らしさに欠けていた。
「なんだって、くそ、そうですか、でもそれでいいんですか? みたところあなたは高給取りというわけでもないでしょう……ああすみません、私らに比べたら王様みたいなもんだが──」
「強制ではありませんから。お世辞は結構ですよ、あなたの罪は赦されました。ご友人のものも赦されるでしょう」
「ああそうですか、“ご友人”とはね! でも忘れんでください。半年です、半年ですよ!」
 最後の忠告に、どたどたした足音と扉の閉まる音が続いた。静けさが戻ってから、Zはもう一度《《半年》》の告発を噛み締めた。聞いたばかりのときは一笑に付したにせよ、やはり不穏ではあった。わざわざ中傷で思いつくものだろうか? 馬鹿馬鹿しい、あんな私怨に満ちていそうな男のために、Kを厚顔の嘘つきにするというのか、半年で終わりならああも楽しそうに授業に顔を出すものか。しかしながら、この日の業務の終わりごろ、控えめな様子で入ってきた痩せっぽち一人のために、この懸命な弁護人も柱を失ってお手上げ状態になってしまったのである。顛末はこうだった……
 分針と中天に打たれたドットの距離をまんじりともせず測っていたZは、まずやれやれと思った。駆け込みの客はだいたいが《《話好き》》の連中で、内容も最後まで傾聴するのが難しいような、言ってしまえば熱病が腹話術師を務めて喋らせるうわ言に限りなく近いものだったから、Zはどうしても──もう何時間も他人の話をじっと聞いていた後味というのもあって──気を散らして聞き流すことが多かった。ただ、話の終わりにきちんと例の相槌を打ってやれば特に問題も起こらないので、それが双方にとってよい形でもあった。
「あなたはZさんですよね」おずおずと男は切り出した。ひどく萎縮して、相手の機嫌を伺うような声色だった。「Kに授業をしてやっている」
『またKか!』とZは帰りがけに用品店へ寄ろうか寄るまいかといった検討から現実へと引き戻された。「はい、そうですが……」気のない返事しか出なかったものである。
「あのう、私はKの……アンヘル・Kの知り合いです」と彼はいっそ憐れなほどにかしこまった。「あなたは彼に読み書きを教えていますよね」
 こういう時にはどんな人間にも不思議と勘のはたらくものである。Zは今すぐ荷物をまとめて出ていきたい衝動にかられた。とはいえ彼は実行に移すほど不誠実な人間ではなかったし、霊的感覚への信仰も持ち合わせていなかった。だから彼は鞄の留め金を閉じるかわりに、短い応答で先を促したのだった。
「ええ、それが何か」
「何か、何かとおっしゃいましたね……今日のは懺悔じゃありません、その何かのために、勤め終わりを短くしてもらって、一目散に飛んできたというわけなんです。ええ、もちろん息は整えましたが……Kに教えてやっていることを、僕にも教えちゃいただけませんかね。忙しいとは聞いていますが、アンヘルは半年経てば卒業なんでしょう。なに、彼自身がそう賭けたという話ですからね。それじゃあとひと月そこいらで空きができるわけでしょう。ならそのあとで、僕を新しい生徒にしてくださいませんか」と彼は地に膝をつかんばかりの調子で懇願した。
「考えてはおきますが」Zはしきりに万年筆をもてあそんだ。「お約束はできません。私だってどうなっているか分かりませんからね。辞令が来ればどこか別の地区へ異動になります。それに、病みついてしまわないとも限りません。ここは空気があまり良くないようですし」
「ああ……」
 がっくりと肩を落とす男の姿が容易に想像できる特大の溜め息が、衝立の向こうから聞こえてきた。思わず失笑してもおかしくないようなものだったが、Zはとても笑うどころではなかった。わかりました、さようなら、との律儀な挨拶におうむ返しでただ、さようなら、と呟くのが精一杯だった。彼は動揺していたのである!
『Kは本当に半年に賭けていたのか。あんな朴訥そうにしていてとんだ食わせ物じゃあないか、ええ?』鞄を提げたほうの掌が、ゴムのようだった……『しかし、俺もまんまと騙されたものだ、つまり金づるだったという訳か。といっても所詮は《《はした》》金だろう、労働者の賭けで動く札びらといったら……』
 彼はその先に語を接ぐことができなかった。Kが見せた無邪気さやひたむきさが次々と思い返され、脳裏に現れるたび耐え難いものになりだしたのである。
 次の日の朝、Zは役場のほうの人間──ここでの直属の上司にあたる人間に、ちょうど半年、二ヶ月後の転勤の意志の有無を訊かれた。いかにもできすぎた展開で、Zは思わず無用な聞き返しをし、初老の上司を不機嫌にした。A地区の免罪官に長期的な治療を必要とする病が見つかったとかで、代打として行ってくれないか、ということだった。この手の話はZ地区へ真っ先に回ってきた。というのも、Z地区は多少空きができても問題ない土地柄であるし、この地区の担当者は大抵ここに残りたがらず、急な話であっても二つ返事で移動するからである。Zもそうした。“半年”は既に双方合意のもとで取り決められた雇用の期限のように思われていたからだった。そして夜にはKとお茶を飲み、童話を読ませてやった。おとぎ話を喜ぶ歳はとうに過ぎ去ったのっぽの労働者は、相も変わらず楽しげにしながら、気に入ったフレーズを何度も繰り返し書き、気取ったやり方で読み上げた。
「君はいずれ、どうなりたい」とZは唐突に切り出した。
「そうだね、もっと長い本が読めたらいい。君が読んでいるみたいな。どれくらいかかると思う?」
「さあ。あと一年くらいすれば君にもこれくらいのものは軽く読みこなせる」
「そうか。じゃあ、それまで頑張ろう」
 Zの黒い瞳に映ったKは、詐欺師ではなかった。役者でもなく、物思いの中で真実にすり替えることで虚言を正当化する精神病の患者とも違った。Zは経験したことのない情がわき起こるのを感じた。Kならそれを分からないままにしてしまうところだが、Zにはそれを、世間話を続けながら切り剖けてみるだけの余裕があった。彼は失望や悲しみ、寂しさ、やや自嘲的な安堵、ほんの僅かな怒りなどを構成要素として知ることができたが、総体として何と名付ければいいものやら、見極めんとすればするほど混沌として観測者を惑わす東洋の怪物のように、ついに正体を捉えることは叶わなかった。
「でも今日のところはそろそろおしまいにしたほうがいいんだろうね、あんまり雪が積もるか、もっと悪くて吹雪になったりしたら、来年本を読むどころか今夜道の真ん中でくたばるかもしれないぞ……じゃあ、また今度」
「来週の木曜はどうだろう」
「金曜にならないかな」
「では金曜に」
 次回の約束をしながら玄関までたどり着いた彼らは、言葉を交わすだけの挨拶を別れの合図に、そのまま今日の予定を終えた。Kは憂慮していた通りに吹雪かんばかりの寒風に、ぼろ外套の前をぐっと寄せ、くたびれた生地の無力を少しでも誤魔化そうとした。Zは居間に戻り、もう一度先程の感情と向き合ってみようとしたが、片付いたテーブルの上の空白と同じく、既に何もなくなっていた。彼はさっさと寝てしまった。ほのかな疲労が肩を抱いたが、運動のあとのそれとは違い、心地よい眠りをもたらさなかった。

 ルドルフ・アナトーリエヴィチ・フォンヴィージンは予約した席に腰を下ろし、トランクの置き場にほんの少し迷ったあと、隣の空席へ放り出した。現地で買ったものは現地で捨ててきてしまったし、もともと大した引っ越しでもなかったので、荷物は最小限になった。向こうの生活に必要なものは、あらかじめ用意しておいてくれる手はずになっている。彼は擦り傷の目立つ持ち手をぼんやり眺めていたが、発車を知らせるベルが鳴ると、肩でも叩かれたようにはっとして、ややあってから、窓の外へと顔を向けた。列車はすぐに動き始めた。ごみごみして、不潔で貧しく、病んだ活気に溢れた袋小路の街並みは、のんびりと後方へ滑っていったが、すぐに近くの建物がおぼろな色を残して流れていくようになった。これが見納めになる。彼はある工場の高い壁の前に、みすぼらしい外套を見つけた気がして思わず身を乗り出しかけたが、見間違いか確かめる前に遠くへ離れていってしまった。彼は席のあまり柔らかくもないクッションへ深く背を預け、疲れとも苦悩とも縁のない、筋肉と体勢の関係で、肺から空気が押し出されただけのため息をひとつついた。窓を開けたくなったが、よしておいた。どうせこの地区の空気は煤けて淀んでいたし、速度の力を借りた真冬の冷気が、暖房に気を許して外套を脱いでしまった体を嬉々として切り刻むであろうことが分かりきっていたからである。Kとは“次”の約束をして出てきてしまったが、停車する駅の名前が変わるごとに、罪悪感も薄れていった。Kは納得するだろう。いくら待っていても来ないことで、プレートの文字が変わっていることで、官舎の窓が中身を透かして真っ黒になっていることで。あの男は金を手にして、多分勝ちの取り分をその場で使ってしまうのだろう、負けた奴らへ豪勢に酒を振る舞ってやることで。愉快げに笑う彼を想像するとどことなく寂しいような感じもしたが、一つ目のトンネルを抜ける頃には、それもどうでもよくなった。これから住むA地区は、仲間内でもそこそこ評判のいい土地である。