たわむれ

 Zは友人同士の挨拶のあと、ほんの気まぐれから彼を引き留めることにした。玄関扉へ向き合おうとするKの襟首を捕まえると、そのままぐいと引き寄せて(ふだんの彼からすると考えられないほど乱暴なやり方だった)、まったく意味合いの異なる口づけをひとつ、わざと唇でなく少し外れた口角のあたりへ落とした。
「僕はもう帰るところだよ」とKは優しく呼びかけた。
「なら帰ったらいい」Zは相手の衣服を掴んだ片手はそのままに、ごく平坦な口調で返したが、目のあたりにはなにか妙に挑みかかるような、試すような感じがあった。「いま君がこのままドアを開けて寒空の下へ出ていっても、私は構わない」
 白髪頭の大男は観念しましたとばかりにため息をつき、そしてやはり観念して、自分より頭ひとつ小さい相手の身体をしっかりと抱きすくめた。そうするときにはいつも、なるべく広い部分が相手に触れるよう心がけているのだった──触れ合っている肌はたとえ布越しであっても温かく、かけがえのない大事なものを慈しんでいる感覚を呼び起こした。彼はそれを大層気に入っていた。
「ああ、Z、分かりきったことを! あんなふうに口づけてくる君を置いてどこに行けるだろう、君がなにか与えようとしてくれているとき、必要な全部がここにあるのに……」
 彼らはまた唇を重ね、今度はそれにいくらか性的なニュアンスを加えた。濡れた舌や口腔の感触は酩酊に似た幸福感をもたらした。とはいえ外気とはドアたった一枚を隔てた玄関先は肌寒く、睦み合うにはやや不向きな場所であったから、もつれあうようにして廊下を抜けて居間の明かりの下へ戻った。Zはシャツの裾から滑り込んだKの指先が背骨をたどるのを感じて目を開くと、わずかに距離を開けた。
「君は私に欲情している」彼は俯くKの瞳を羞恥の色が横切ったのに興奮を覚えた……「どんな風に? 言ってみてくれないか……私に分かるように」
 Kはためらいがちにではあるが、かなり正直な表現で、自らの欲求がなにに掻き立てられたのかを吐露しはじめた(どちらもZがそう望んだ通りだった)。
「さっきは君から誘ってきたね。僕は多分嬉しかった……僕はいまだに信じられずにいるのさ、君を愛せることがね……それどころか僕の胸には君の手があって、口づけるときにはあごを撫でたり耳たぶに触れたりするだろう。たまらなく幸せになるし、たまらなく苦しくなる。やわらげる方法は知っているが、それは何にもない砂漠の真ん中で、隣にいる親切なやつの水筒から、そいつが気絶している間を見計らって盗み飲みをするような下劣なことなんだ……でも僕も水が飲みたくてたまらなくなる、僕みたいなものにだって善意はあるからね……ただ、けだものになりたくないだけなんだ」
「けだものになっても構わないなら、君はどうしたい」
「言いたくない」
 Zはこのやんわりとした拒否と抵抗に、異端審問官のサディスティックな快楽を覚えた。穏やかに相手の胸に置いていた手のひらをほんのいたずら程度ではあるが、ささやかに爪を立てて握りこみ、Kの衣服をひどく皺にした。
「言うんだ」断固とした口調だった。「内面にあるものを君自身の言葉で言い表すのはどんな時でも君のためになる……生きている言葉だからだ。君が何をどう感じているか、いま現在の君の内面世界のありさまが私にも明らかになる。私はそれが知りたい、教えてくれ、K、人はどうせみな舌のよく回るけだものでしかない」
 Kは観念した。
「今すぐ君を抱きたい。めちゃくちゃにしてやりたい、壊れ物を扱うように大事に……君をむさぼりつくして、満たしてやりたい。僕がどれほど君を愛しているか、分からせてやりたい」
「比喩を使わずに……」
 Zはわざと唇が触れんばかりの距離で囁いた──ふだんの彼がこの時の自らの声色を耳にしたなら、羞恥のみならずばかばかしささえ頬に兆したことだろう、ほとんど喘ぎに近いそれは露骨すぎた。熱くなった息がKの皮膚を暖め、にもかかわらず突然の寒風に晒されたときのように身を震わせると、理性の箍が弾け飛んだように彼の愛撫は荒っぽくなった。飼い主の上着の隙間にはなづらを突っ込む犬よろしく、激しく抱き寄せたZの首筋へ熱のこもった接吻を立て続けに落としては柔らかい肌を舌で触れ、歯で触れして味わいはじめた。合間にZが促すと、このような野蛮な作法でしか彼を愛せないことへの後ろめたさやZに負担を強いるにもかかわらず我慢のきかない(同時に我慢のききすぎるヽヽヽヽヽヽヽヽ)自分への苛立ち、それから性交のときにはいつも感じている、魂とか意識とかいったものを隔てる互いの皮膚への不満などを口にした。聞き手の昂りは言わずもがなで、他人のお喋りヽヽヽを聞くのは免罪官として骨まで染み付いた習慣だが、受動的な行為でなしにきわめて能動的な活動だった。彼は寓話の太陽が旅人を丸裸にする挿絵を思い描き、先程Kが口にした不満から芽生えた考え、物理的には決して越えることのできないこの防壁の内側で、自分が彼の魂のまとう膜を一枚一枚剥がしていって(玉葱の皮をむくようにだ!)、最も無垢で感じやすい、純粋な部分に触れようとしているのだという考えに恍惚とした。
「K、そのまま……どちらもだ、やめなくていい……机なら片付いてる……君はどうやら幸福な男ではないようだ。私に遠慮するが、どうしてかな。……なるほど、どうやら君にとって私は可憐な少女であるらしい……近頃の私はひどくあけすけだ、君が思っているほど清純でも華奢でもない……ベルトを……ああ、こうして逆光で見る君は太陽を背にした狼のようだ! 私はそれを犠牲の視点から見ている気にさせられる。それで、このあとは? はあ、違う、だめだ、喋り続けろ、言うんだ……」彼は次の問いを口にしながら、何か妙な予感じみたものを感じたが、それがはっきりとした輪郭をとる前に言い終わってしまった。「なぜ私を抱きたいと思う」
「君を抱きたいのは」と生徒はあくまで忠実だった。「君が魅力的だからだ、君はとても綺麗だ、目で見ても肌で触れても……それにいい匂いがする、抱き締めたとき君の香りでいっぱいになると、本当に君が好きでたまらないことに気づく。君の教えてくれる全てが僕を豊かにするんだ、君はすばらしい……君はかわいい、すずらんの花みたいに」
「待ってくれ、それは……そこまでは」彼は身体中が熱くなるのを感じた。Kがそういう男であるとは知っていたが、いざ実際に耳にしてこれほど恥ずかしい話もなかった。「言わなくていい」
 だが一度火のついた藁山は少し水をかけたくらいでは鎮まらなかった。Kは構わず“あたまのてっぺんから爪先まで”方式で内面・肉体のどちらもについてZへひたむきな賛辞を捧げ、それは結局、彼らが寝台の上に至るまで続いた。Zとて歯の浮くような語句の並びには晒されたことがないでもなかったが、彼をうろたえさせたのはKの口ずさむそれが残らず偽りなく発されたものだったからで、彼は含羞の海に溺れながらも、言葉を尽くした愛情にかぎりない幸福を感じていたのは、あえて言い添えるまでもない。