どちらの目にも

 私がZと呼ばれはじめてから数ヵ月になる。仲間うちでは哀れみや同情、ときに軽蔑を込めて発音されるこの名を、敬意をもって、愛情深く口にする者が市民の中にただ一人存在する。それは私の教え子であり、俺の友人だった。この関係をどう定義すればいいのかは私にも俺にも分かりかねているが、どちらにとってもその男は大事なようだ。少なくとも彼が仕事場で倒れた荷物の下敷きになったと聞いて一日中平静を欠いていた程度には。私ははじめZとしてあの家の階段を上ったが、戸口に立って呼び掛ける瞬間には危うく本名を名乗るところだった。扉の後ろから顔を覗かせたKが予想よりしゃんとしているので、私はほっと胸を撫で下ろした。これでわざわざ報告に走ってきたアレハンドロ・Kが極度の心配性かつ話を誇張する人間だと判断できる。とはいえこのアンヘル・Kは、包帯でぐるぐる巻きとまではいかないものの、確かに頭にこぶをこしらえていて、それが紫色に腫れあがっていた。
「K、もう大丈夫なのか」
「心配ない。それよりこんな小汚ない部屋までよく来たもんだ! さあ、入って」
“小汚ない部屋”に誇張はない。狭苦しい室内のありさまは、間借り人の貧しさの直喩となって訪問者を憂鬱にした。しかし他人を拒まなかった。ストーブの周りに漂う炊事の残り香は人を和ませる類いのもので、それはKの微笑みと同じだった。ようこそ、と言う彼はいかにも人なつこそうに笑った。
「君がここにいるのはおかしく見える、なにか滑稽な芝居のようで……」
「かなり強く頭を打ったとみえる。いいや、幻覚ではないよ。私は確かに君を見舞いに来たんだ。ほら、怪我人らしく横になっておいたほうがいい。頭の怪我は安静第一だ、甘く見ないことだよ」
 押しこまれるかたちで窮屈な寝台に乗り毛布にくるまった彼は、しばらくの間じっとしていたが、やがて枕元の監視人を眺めるのにも飽きたらしく、Z、と小さく呼び掛けてきた。聞いてやろうとかがみこむと、途端に彼は乱暴に私を引き寄せ、私の首元に顔をうずめてゆっくりと呼吸した。鼻の頭が擦れるくすぐったさに身をよじると、大きすぎる右手は抗議でもするかのように私のシャツに皺を寄せた。大人しくしててくれ、と言わんばかりだが、本当に大人しくすべきなのは彼の方だ。
「アンヘル、よさないか」
「そっちこそ暴れるのはやめてもらいたいね。こちとら安静にしたいんだ、石鹸の匂いを嗅いでいると落ち着く」
「仕方のない男だな」
 仕方のないどころか、内心で俺は『犬みたいな男だな!』との感想を抱いた。この印象は何度目か知れないが、恐らくいまがいっとう、真に迫っていることは間違いなかろう。結局俺は上着を脱いで彼にやり、代わりにせめてストーブの側に陣取って寒さを遠ざけることにした。Kははじめこそ文句を呟いていたものの、しまいには上着を抱いて静かな寝息を立てるようになった。まだ新しい服がひどく皺になったのに、私はまったく気にならず、俺はむしろどことなく機嫌が良かった。