死んだはずの社畜が電車に乗っていたので声をかけると、まだ生きているような気がするから会社に行かなくちゃならん、と言うので、心臓が止まったら死んでもいいんだよ、と諭してやったら、社畜は少しだけ泣いてそのあと死んだ。みんな生き方ばかりにかまけていて、彼に休み方を教えてやらなかった。
とじる ツ博士はろくでなしそのものの無精髭をこすりながら、今しがた僕がまとめた資料のページをさもつまらなさそうに読み流した。内容は確かここ数年の事件の記録で、トップニュースで取り沙汰された有名なものもいくつか混じっていた。
「他人の悲劇っていうのはウン千年前から各界御用達のお手軽なポルノなんだよ」
「ヘエ、そんなもんですか」
博士は僕をチラと見やって、世間話の調子でこう続けた。
「そこいくと君、君みた様な平々凡々の普通人間はおもしろみがないね、とてもじゃないがモデルにゃならんよ」
侮辱と受け取られかねないこの発言に、僕は大した憤慨もなく、さりとて大した感慨も抱かなかった。僕の人生はそうあるべくして平凡で、平坦で、平和だったから。
「ヘエ、そんなもんですか」
僕の返事に博士はまたチラと視線を送り、ニッコリとして頷くのだった。
「そうだよ君、ねえ君、ウン、ほんとにそうなんだ……」
金糸を織り込んだびろうどの夜空に、茫々としてやる気のない光をたずさえた月が昇ってくると、宵闇にきらめくのが星ではなく有害な金属粉だということに気づかされる。街は気の遠くなるほど昔からずっとこうで、この先どれほど時が経とうと、悪くはなっても良くなる気配は一切なかった。 テレビから流れてくるやる気のないアナウンスは、陰気な展望ばかりを伝えている。あるものは空の向こうに新天地を探しているという。いくたびもロケットが飛んだ、飛んでいってはテラフォーミングの困難性を携えて戻った。 人類は外へ出ようとすればするほど、この汚しきった地上に押し込められるようだった。降り立つどの地平も冷たく、暑すぎ、殺風景で、無慈悲に乾いていた。星に手が届いたかと思えば、あの安らかな光の粒は、ほら穴に住んでいた頃よりずっと遠くなってしまった。
とじるなにか古めかしいものの香りがしていた。メリーゴーランドの傾いた屋根の下で、めっきの剥げた白馬が串刺しになっている。色褪せた看板を貼り付けたアイスクリームの売店は、もう誰の笑顔も生み出すことはない。 きらびやかで楽しげだった装飾はそこかしこで朽ちてゆく姿を風雨に晒していて、かつてあった幸福の幻を虚しい彩りで映し出す。そのくせひと足踏み出すごとに、オルゴールの夢の香りがあたりをいっぱいにした。僕はただただ寂しくなる。
とじる友人に会う。日中は恥じるように縮み上がっているせむしの彼も、アーク灯の魔法のもとでは、年寄りの偉大な猛禽が話し相手の地虫に向かって、対等さを示すべく身を屈めているのにそっくりの格好である。 僕はしばらくのあいだこれを遠巻きにして、彼がひとたび口を開けば失われてしまうこの高貴な幻覚を楽しんだ。
とじる僕、排気口で四角くなって、あの子がシッポを出さないかどうか、ずっと待っていたんです、それで段々眠たくなって、瞼を閉じるか閉じないかの間際になって、目の前にピョンと現れましてね、しめた、と思って掴みましたらね、 そしたら彼女、一本きりじゃなくってよ、と言うじゃありませんか。そういう訳で。
とじる遠い海ばかり眺めております。時折、なんにも知らない若いかもめが、張りぼてと気付かずに、空にぶつかって死んでいきます。あるいは知っていながら自由の為に死ぬのかもしれませんが、私にはとてもとても、死にむかって漕ぎだす勇気がありませんで、 それで日がな一日、遠い海ばかり眺めております。
とじる奥方はなにやら秘密めかした優雅なしぐさをした。真紅のドレスのひだのひとつひとつに、逃れようのないかすかな予感がにじんでいる。彼女の前でこうして萎縮する、緊張する、狼狽する、 そのあまり汗ばんだ手でフエルト帽をギュウと虐待死させているのに気がついたりなんかしていると、どういうわけか、前より自分が好きになるのだ。
とじる「誰にも必要とされない」って、君はどんなふうに必要とされたいんだい?
光や水のように?歯車やネジのように?つらいとき傍に寄り添ってくれる飼い犬のように?
それとも愛によってきみをこの世界につなぎ留めてくれるたった一人のように?
少年期の夢のすべてが羽化したあとの脱け殻、閉鎖して久しいテーマパーク。ベンチに腰かけていると、あの頃買ってもらいたかったアイスクリームの屋台が、観覧車の死骸に寄り添い、こと切れている。今朝がたのセンチメンタルな回想は、ここで死に場所を見つけたらしい。なんの感慨もなく呆けている。
(これはリフレインだ。僕はロマンチストをやめてしまった。どういった心境の変化かは分からんが、とにかく、もう二度と幻想は現れないだろうし、もう二度と心に染み入ることもないのだ、昔らしいやさしく甘い思い出の香りは。思い出すことは尽きないのに、なんの感慨もなく呆けている。なんの感慨もなく呆けている。なんの感慨もなく呆けている……)
とじる架空のお花畑にコスモスを植えていると(この花がいっとう好きなのだ)、人がやってきて変な遊びはやめろという、やめろといってあんまり責めたてるので、コスモスは遊びなんだろうとあきらめて、いまは架空のお花畑に大麻を植えている。
とじる昼間は空だったものが宇宙に変わる夜が好きで、つい風邪を引く手前まで公園で体を冷やしてしまう。見上げた星屑の数だけあった夢は、いまの裸眼には遠すぎる。夜空はドーム状の穴である、毎晩こうして冥い矛盾がちっぽけな文明を覆っている。 この下の誰かの手が星に届くといい、たった二、三年まえの自分の目にはきらめいていた夢。
とじる天丼を食っている。食えども食えどもいっこうにかさの減らない天丼である。業を煮やして、犬にでもやってしまおうかと立ち上がる。だが矢っ張勿体なくて座り直して食っている。食い物のくせに、いくら食っても食いきれやしない、 まったくひとを食った天丼だ、などと考えて、ひとりでニヤリとする。天丼を食っている。
とじる生身のヲンナノコが苦手である。まずもってブヨブヨしている。ブヨブヨしているのでなめくじである。あの軟体の輩をしてガアルと称することの是非はこの際置いておくとして、架空のヲンナノコがかわいいのである。 まずもって清潔である。そうして、絶対に僕を裏切らないのである。この世に人を裏切らぬ現実はない。
とじるお前の肌は青いんだから、流れる血潮も青いんだろうね、と博士がおっしゃるので、成る程青いものかと、光に手のひらをかざしておりますと、やはり海底から水面を仰ぎ見たあの青が、鮮やかに脈打っているように錯覚いたします。 しかしいざ針でつつくと緑色をしております、光がいたずらをするのです。
とじる「これは心が軽くなるお薬ですよ」
「ハア。怪しいもんだが、ものは試しだ、ひとつ貰うよ」
「それで十分でございますよ、サアお水をどうぞ」
「フムフム、ゴクリ。なんだ、何ともないぞ、矢っ張ぺてんじゃないか。いやまて、軽い、軽いぞ、なんと、おれは今までこんな重荷をかかえて生きていたのか……」
白いご飯が天丼から脱走したとの報せはまたたく間に食卓をかけめぐり、台所のこんろの上で、味噌汁が怒りのあまりグラグラと沸騰し始めるのにもそう長くはかからなかった。 外野ですらそうなんだから、当事者の天ぷらはどれほど悲しむか憎むかしていることだろう、そう思って見てみるが、どっこい、メシが消えたら天になったと上機嫌なのである。
とじる自分の人生がシャーレの上で殖えたのを観察する。隣の吉田くんの銀色に輝く綿毛状の集塊や、向かいの青山さんの七色に変化する微細な露滴の広がりと違い、自分のはつまらないクリーム色の円ひとつきりで、そのくせなにやら不格好だった。 観察用紙には、単に「辺縁不整」と書き込んだ。
とじる南の溶鉱炉に飛び込めば死ねると聞いて逃げてきた。自分が造られた時と比べると、スモッグが昼夜構わず街を覆うて車窓は随分つまらなくなった。隣であくびをする白い肉も、長らえすぎた生に倦いている。南は終点で、まだ遠い。
とじるきみ見てみろ、表を歩けない僕の嫉妬がアスファルトを焦がしている、いまにあそこで楽しそうにしている連中も、みんなして炭に変わってしまうはずだから。なあんて、きみは寝台の上で、指の先っぽすら動かせずにいた。 目だけがクルクルと活発に行ったり来たりしていた。口ばかり達者に回っていた。寝返りをうたせてやると、痩せた背中が焦げついた。
とじる真白い光が地平線の彼方で閃いた。ガラス窓の向こうに、爆風が全てをなぎ倒してこちらへ向かってくるのが見える。おれたちはそれをよそに、朝食には最悪のギトギトしたフライにかじりついている。 振動と地鳴りが大きくなり、小さくなり、そして収まり、窓の外で小鳥がさえずり、脂はギトギトしていた。
とじる人間愛護団体が逃がした実験人間が研究施設に戻ってきた。彼らはとても飢えて、凍え、やつれ、怪我をしたものさえいた。なんというあわれな姿だろう。私は彼らを迎え入れ、熱い湯で洗ってやり、 清潔な衣服に着替えさせ、水と温かい食べ物を与えた。私にとって、彼らはなによりも大事な財産である。私には彼らの生命に責任がある。
とじる「あー」と「うー」でしか会話のできない部族に出会った。我々は彼らを笑ったが、そのうち私は彼らには「あー」と「うー」しか必要ないのだと気づいた。 彼らと話をしたかった、しかしたった二つの音声に込められた意味が私に理解できるはずもなく、粉々にくだかれた言葉の断片を舌のうえで転がすしかない。
とじる夢のような時間をすごしましたね、彼女はしおらしく首を傾げて、その口もとに可憐なほほ笑みを宿している。僕はそのまましおれてしまえと思った、だが祭り囃子と境内の人並みから外れた薄暗がり、 そのまましおれてしまえと口に出せばすべて終わってしまう、浴衣の君と夏の宵のために黙っておく。
とじる王様の耳はロバの耳。僕はそれを知ってから興奮が抑えられない。ああ、王様の耳はロバの耳、高貴で理知的な王様の顔の両側に、愚鈍をよそおった賢い獣の耳が付いている。 僕はその事実に、堪えられないほど胸を締め付けられるのだ!王様よ、その和毛に覆われた耳に触れる想像で僕はまた達している。
とじるそれは人間ばかりの世の中ですから、人の道理が世界の正義なわけです。我々の人生、もとい人ならざるものの生が排斥されずに全うされるためには、この鋳型のなかに身を折りたたんで、真っ赤な鉄を流し込み、 もとの体を忘れているよりほか、仕様がないのであります。施しは無用です、赦された人間からの憐れみが何になりましょう。どうか線を引いてください、こうした問題には無関心こそが特効薬、ただ一線を引き、歩み退いて、我々をほうっておいてくださればそれで一向、構わないのです
とじるおもしろいほど上手くいった打ち上げの残り香に頭をくらくらさせて通りへくりだすと、案の定町は浮かれきって愉快に飲んだくれていた。この祝宴に盃を交わすほとんど皆んなの知らないことだが、 飛行士は犬でなく人間である。地球では誰にも愛されなかった宇宙世紀の人柱に乾杯しながら、僕はそっと夜空をうかがった。
とじる貴方のざんぎり頭を叩いても開化の音などしないので、私すっかり安心しました。開化の為にはほかを閉めなくちゃ、頭の中がすきま風だらけになってしまうんですものね。だから私、文明開化が怖いんですの、文明に、けだものの居場所が有るとお思いになって?
とじる苦しみばかりのこの時代、日々を送るのも苦痛なら、たがのはずれた享楽が、良識に首輪をつけて、我が世の春を謳歌する。春といえば桜の木の下に、埋めたものとばかり思っていた君の死骸も、
なんのことはない、感染の恩恵に浴していまも往来をぶらぶら、気ままに散歩してまわっているのだそうだ。死にはあまり意味がなくなったから、思想の下に殉教しようとか、させようとか、そうした気運も衰弱し、後の世には、子供らの価値観に見放された平和が、ぽかんと口をあけている。
生物と物質の境界に立つ彼らが、人殺しから大義を剥ぎ取って笑っている。死者は苦しみを肴に笑っている。よい時代である。
それは僕でなければならないのだ、私ほど真剣に取り組むわけでなし、俺ほど即物的に現実を飲み下すこともできなければ、自分ほど忠実であることもできずに、人生が線路を滑っていくのをボンヤリ傍観していて、 そのくせ考えなしに飛び込んでしまえる、僕でなければならないのだ、街かどにあふれる他人事の記録者となるのは。
とじるがじがじかじっている。いい加減にした方が良いと思うが、コレがなかなか楽しいので黙っている。理性が沈黙を好むのと理由を異にして、本能もまた黙っているのが大好きである。 他人が気になりだすと言葉が入り用になるが、ひとりきりで過敏になっているのは莫迦である。そのうち神経が衰弱しきって駄目になってしまうだろう。だからこうして、本能の好むように、理性にその監督を任せきりにして、 その他の部分は昼寝でもしているのがよろしい。沈黙は金という。だからがじがじかじっている。がじがじかじっている。がじがじかじっている。
とじる育ちの良さっていうものは、何につけても、その所作やお喋りの端々から、漏れでてきてしまうものでございます。育ちの悪さなどは、言うまでもありません。けだものが、どんな上等なうわっ張りに、その不恰好な身体を押し込めたところで、 やはり、けだものはけだものです。ステッキ片手に、帽子をチョンと傾けて、紳士ぜんに澄ましてみたところで、滑稽の調子を毛皮に添えるだけなのです。そういう愚を犯して、ほんものの紳士たちの見世物になっているのに、 自分ではそうと気づかず得意になっているようなけだものもおります。その数は、多くはありませんが、少なくもありません。そんな同胞の、うら悲しいシルエットが、アーク灯の下で伸びているのを見ると、胸骨の裏っかわがやけに切ないような、 歯の根っこが煮え立つような、ぬるい水に両足の指を浸したような、とにかく、大黒柱の根っこが白蟻にむしばまれていく要領で、段々しんどくなってしまうのです…
とじるチェビオット氏のワイングラスを持つ手が震える。誰のグラスか忘れてしまった。持っているかも分からない。読点の位置ひとつでいかようにも解釈しうるのが虚構である。 私はそこに存在するのか、情景に背負われた神の視点か、文字列に眼をこらしても、いっこうに見えてはこない。
とじる混じりっけなしの人間が少なくなったら、地球人の手のひら返し、今までしこたま取ってつけた角やら鱗やら翼やらが、煩わしいだけの退屈な余剰とみなされはじめ、 今ではありのままのホモ・サピエンスが、あるべき姿、機能的デザインの到達点などと持て囃されている。私はどこも弄っちゃいないが、サロンにたむろしている友達連中なんかは、 二の腕から七色の羽毛をひきむしったり、長くとがった牙を憂鬱げになでてみたり、ぬらぬら光る鱗だらけの逆関節を、どうにかしてスラックスに具合よく収めようとしてみたりなんかして、しょぼくれた顔を揃えて、 馬鹿馬鹿しい後悔の浅瀬にたゆたっている。私がひとたび道を歩けばさながら現代のモーセ、人波を割って憧憬の眼を率い、そうすると、あとを付いてくるフリークどもと、愉快なサーカス行列になる。
とじるなんだかびっくりしてしまうような鮫の歯が、君の口には並んでいる。三月の気候は千鳥足、太陽が地上の寸劇に飽き、雲をかぶって寝てしまうと、あたりはぐっと冷え込んでゆく。 心臓の真裏でうまれた寒気が背骨の上を這いまわり、失言を気にして唇が凍りつく間に、君はその鋸をかみ合わせて、過ごしてきた時間や見過ごしてきた思い出を、のこらず切り裂いて食べてしまう。終わりになる。
とじるおまえ、随分小賢しくなったよな。首輪が食い込んでただれてしまった言葉の群れが引っ張り回されている。身の丈に合わない言葉を奴隷商から買いあさって得意満面、お前のおしゃべりは哀れなほど薄っぺらいよ。 それ見てみろ、詩人が言葉と連れだって歩いていく。子供にだって使えるものが、あんなに立派になるのだ、威風堂々とたてがみを振って、あれこそが本物の言葉だ、単なる意味付けの音声を超えて、たった一語ですべての遠い思い出を、たちまちのうちに蘇らせる、本物の言葉だ。
とじる男が微笑んでいる。生憎手持ちが少ないもので、チップにできる金がない。笑顔は注文していないぞ、と念を押しておくと、サーヴィスですよ、と白い歯を覗かせた。この笑みを拝もうと大枚はたいた女もあっただろうに、たった一枚の硬貨には重すぎるような気がした。
とじる死んだ筈がこうして電車に乗っている。一緒に箱詰めになった乗客は誰一人として気づかない風である。ただ、乗り降りの際には避けてゆくから見えてはいるらしい。 幽霊をつくるのは未練だそうだが、その未練があんまり俗だから、浮世離れした感じが出ないとみえる。帰りたくて未練が益々俗になる。
とじるうららかな陽気の下で、うらぶれた僕のまなかいにうす紅の春が舞う。あの桜並木のひとつに縄をかけて、首でも吊れたらどんなにかいいだろう。花のもとにて春死なむ、風雅な幕引きはいつだって憧憬でしかない。
とじる「まっとうな人間になろう」というウェブサイトに日記を投稿している。まっとうな人間になりたいやつはまっとうな事しか書かないからつまらない。 といって、面白いものを書くやつはまっとうでないから医者から読むのを止められている。ここにいる奴らは、自分のままでまっとうな人間にはなれない。
とじる「結婚したのか……俺以外の奴と」
「だって貴方ときたらいくら待っていたって迎えに来てくださらないんだもの、妾待ちくたびれたわ」
男はかぎづめを開いたり閉じたりしながら、十六揃いの瞼を震わせている。
「娘、」
「もう娘って歳じゃないのよ。もう貴方の永遠には付き合えないの」女は席を立つ。
おまえ! アスファルトに寝転がったことがあるか きたないアスファルトだ いぬのうんこや だれかのつばや 味のなくなったガム いろんな生き物の死骸 そういうものが粉になってへばり付いているあの道路のアスファルトだ ねころんでみるとな あたたかいぞ あたたかい あたたかいんだ
とじるウロドノとウゾロノゲのちょうど中間くらいにそれはあります。われわれに視認できる局面というのはあまりにも限定的なものであるといえます。どちらの領域も侵すことなく面積をもたない境界線の内側に、それはあります。
とじる「エッ、お前人間になりたいのか」
「はい博士」
「なんでまた人間なんかに」
「何も考えずに生きてみたいのです」
「ハハハ、あのね、私らだって少しは物を考えているんだからね」
「そうでしょうか」
「はた目には空っぽな頭でも案外煮詰まっているものだよ」
「そういうものでしょうか」
「そういうものさ」
タアはユボとの会話において、しかるべきときに目を丸めた。ユボの村では目は丸くするもので、タアの丸めた目は異様に映った。同じ行為を示しているとて、異なる単語に二人の受容器は混乱し、そこで対話は終わりになった。
とじる暗がりで犯罪者の気持ちになっていると、家に入れなくなってしまった。折角ローンを三十年も組んで買った理想の家だのに、鍵を忘れた暇に任せたほんの思い付きのために、マイホームからマイハウス、 悪くするとただのハウスに変じていっこうに戻らない。下らない冗談で帰る場所をなくした。
とじるパナナプゥはきのこです。狭い世界ですから果物と勘違いする馬鹿も居らっしゃいますが、何をどうしたってやはりパナナプゥはきのこです、それも毒きのこですから毒があります。認めてやらなくちゃパナナプゥが可哀想じゃありませんか、可哀想じゃありませんか。
とじるそいでね、おもしろいことがあったんだよ、と彼は上機嫌にしている。僕は嬉しくなって、へえ、それはなんだい。と尋ねるが、答える代わりにウンウンうなるばかりで、すっかり忘れてしまっていた。 互いに惨めな気もちで向き合っている。あったんだよ、たしかにあったんだよ、おもしろいことがあったんだよ、ほんとだよ。
とじる宮殿を売りに出した。妃もしぼんでしまっていた。空しくなった玉座を見るのが厭になって、王国もろとも手放してしまった。買い手は菓子をつまんだ指をべろべろなめていた。しゃぶっていた。 宮殿を売った金で、小さな家を買った。庭に林檎を植えたら、後悔が酸い実をつけた。
とじる私のいたのは右ねじの工場で、北半球では左ねじが規格となっておりますので、右ねじの工場はひと欠片も余さず輸出向けでありました。朝の五時から、運動場に集まってエイエイとかけ声しながら体操をします。 東のほうで、空をかぎ裂きにしているひときわ大きなビルヂングの角べりから、ソロリソロリと太陽が夜の大気にはみ出してくると、われわれの居る紺ねずの砂地まで、薄紅のインクが流れてきて、 やがて運動場にわだかまる不格好なろくでなしの夢が、判然と覚醒したあけぼのとなります。そうすると、工場長付副監督代理補佐補助役のぴんとはね上げたひげの先が、われわれの精神に、 ねじ山を切り茫茫千里渦巻く海原へ決然と舳先を向ける、そういう気概を付与するのです。右ねじは左ねじの知りうる限界のその薄膜を鋭く突き破ってどこか遠いところへ運ばれていくのですから、 あながち検討違いとも言えませんでしょう。荷札に記された行先、定めし楽園はそこにあります。
とじる
「博士、人間のことで頭が一杯になっています。昼夜を問わず、ですが作業に支障をきたすような激しさはありません。」
「おまえ、恋から剥けたね。それは愛ってやつさ。」
「では彼も、彼女も、愛しています。勿論あなたも愛していますよ、博士。」
「ふうん、おまえの愛は安いね。」
平たい板の上で無影灯に色を吸い取られている。医者は難しい手術じゃないから心配めされるなと請け合ったが、こうして白黒の陰影になっているとやっぱり死ぬんじゃないかと思う。 白黒しているのは遺影でなく鯨幕だが、どうも写真に刷られた様な心持がする。無論術者を信じられぬ訳ではない。信じられぬどころか、鼻水を垂らして野山を駆け回っていた頃からの知己であるから、 手先の器用なのと、几帳面なのと、真面目で勉強家なのと、然るに世間から名医と判を押されて居ることも承知している。いま視界の右端を横切ったのがそうだろう。落ち着きはらった身ぶりである。 きちんと訓練されたメスの刃は無闇とはらわたを裂いたりしない。疑るような自分を恥じる、恥じる一方、それでも死ぬんじゃないかと思う。もの思いも白黒になっている。
とじる坊ちゃまはしきりに外が見たいとおっしゃっておりました。旦那様は以前から虚妄に肩まで浸かっていて、大事なひとり息子の遺伝子に太陽光が致命的な害を与えると信じきっておりましたから、 屋外に出るなどということは、決してお許しにはなりませんでした。その日私は秘密裏に、坊ちゃまを連れ出す心づもりで地下通路を“散歩”しておりました。坊ちゃまは急に足を止めて、 「お前壊されるよ、帰ろう」と言いました。その小さな手を握ったまま返す言葉を失った私を、立ち尽くすちっぽけな私達を、ナトリウム灯はいつまでも照らしておりました。
とじるNがまた女に振られたので、僕は心底愉快な気持ちで酒を飲んだ。この男の恋愛ときたら毎度々々末路は珍妙で、それが実におもしろい。今度の女は突然Nのことを狼だと思い込み、山羊と駆け落ちするのだと散々喚き散らした挙句病院に入ったという。 大の男がこうやって、下戸の癖に無闇に飲んで、おれのなにがいけないんですかあ、などとひとしきりくだをまいて、べそなんかかいている様はこたえられないほどおもしろい。Nの涙でおでんがうまい。
とじる昼のあいだ、太陽の焼けつくままに荒々しい顔を見せて僕らを欺いていた砂は今、するどく冷えきった夜気のもと、彼方へと没した伴侶の喪に服している。蜃気楼は単調さを厭う僕らに優しかったが、夜の砂漠は矮小な全ての生を無視して、ただそこにあるだけだった。 友人たちはこの静寂を受け入れて静かに毛布にくるまっているが、僕は彼らのように夜の底へ横たわる気になれず、無謀な散歩に出ることを選んだ。死はこの世界のすべてだった。それと同時に、ひとたび見出そうとさえすれば、生はどの砂の下にも、埋もれているはずだった。
とじるお前もこんな地上によく生きていてくれたものだね、と、男。冬は星を覆うて久しく、僅かばかりになった人間の、流浪の幾星霜、新天地とて出迎えるのは灰色の雪に白い骨。お前もこんな私のためによく生きていてくれたものだね、と男、
小鳥はその手袋に雪ひとひらの重さを軽ろくのせて、リルリルと歌う。それを男の手が握り砕くと、もうどこにもない空の色が、歯車を抱いた綿毛の塊に変じている。
「私は、私たちは確かにお前に恋していた、また熱烈に恋せずにはいられないのだ。」
旧世界の生命はなべて今日の青い鳥。
西の果てまで逃げていった男がいる。名前は知らない。殺した女の名前だけがある。口承の虚像に連なり齢を重ねた魔女の名前である。魔女が最後のひと息で呪った男は、死に見放されて逃避の途上にある。 彼はみたび甦り、おのが血と肉がもはや此岸の物でなく、おのが心と魂が、彼岸へ渡ることが叶わぬのを知った。砂礫に埋もれた骨の色を、おごそかに横たわる鳥葬の皮を、疱瘡に包まれた両の手の震えを、憧憬としたのも今は昔のことである。 見棄てられた伝承は東に楽園を語り、男を西へと歩ませた。熱く乾いた風の手で乱暴に擦られた黄色い地平線の向こうに、乱雑に撒かれた石炭のような輪郭が形を成してきた。人智の及ばぬ土地の極限に据え付けられた城塞、楽園の裏口、人の世の果てである。
とじる#かわいそうな人ですね と言ってやりますと、男は青膨れの顔をぶるぶる震わせて、かわいそうなんて者じゃありません、などと興奮しだすのです、それがまた、古くなった豚のゼラチンのようで、かわいそうなのです。 自然わき上がる感じです、只それが、彼にとっては我慢ならないことのようなのです。
とじる俗な夢しか見ませんで。矢張り俗物なんでしょうか、起きているときはいっぱしの夢想家を気取ってなんやかや絵空事を口ずさんでおりますが、夢ときたらひどいものでございます、どんなに実際的な人だって、 みる夢は私の脳がこねるよりずっと豊な幻想の境に遊ばせております、下らない現を裁って純然たるファンタシイを仕立てあげております、昼間の口ではなんと言おうと、私のは詰らない、詰らないから恥ばかり感じて黙っております……
とじる震える牙を隠して、私は朽ちかけたあばら屋の隅にうずくまりました。薄明のなかで影絵に変じた私の姿を、仔細判然と目に留めた者はおらぬと思われます。人は人ならざるものが自分たちの小道を、門の下を、 戸口の脇を、歩き回ることを決して許しはしません。こうして、打ち捨てられているとはいえ、錆び付いた熊手や煤けたランタン、積み上げられたまぐさといった、明らかに人の生活の営まれていた痕跡の隙間に、 肩を丸めて納まっている、これはやはり危険なことなのです、罰に値する禁忌なのです。
とじるこの声が聞こえたならば、どうかお返事くださいな、トントン。などと、女が部屋の戸を叩いている。黙って居留守を使っていても、戸の取っ手を外してしまったから、必然出られるはずもなく、 留守ということはないのである。俺はここで即身仏になると決めた。女の声がみたび震えても、空いた腹を抱えて黙っている。
とじる村が燃えている。生まれ育った村である。息のつまる様な貧困を、親切と隣人愛とで塗り隠しているような村だった。私は羊を小屋に返してきたところだった。 子供たちがひそかに見張り台と呼んでいる、ぼろの羽根をぶる下げた風車の化石に背を預け、見下ろしている。自分を育んできたたおやかな貧しさが炭化していくのを、炎の舌先が夕まぐれの厳かな紫苑を舐めるのを、 わきあがる煙の灰色が、あの場所で生きていた時間を塗りつぶしてしまうのを。
とじる生まれてみれば異世界だった。小さい頃は言うことの聞けないやつだとよくぶたれていた。少し育って学校へ行けば、誰も彼も話が通じないので弱った。 一人くらい自分の言うことを分かってくれるものが居るだろうと思いながら、結局ひとりで大人になった。兎角この世は生きにくい。やはり異世界である。
とじる愛している男が犬になった。あくせく走り回って呪いを解いても、男は犬のままだった。バケツの水をコップに移してもう一度バケツに戻しても、溢れた分は戻らない。愛していた男を犬に変える呪いを探している。
とじる我々の生命というものは、天秤にかけてしまえばひと山のアルミ片にも傾く程度の価値しかないわけです、権力が口をすぼめてフウと吹いた息に舞い上がる紙くずのごときものです。 まったく嫌になります、あの塔の上から眺めわたすはるけき山並みと、遠眼鏡のたった1かけ1かけ3.14の箱庭をあくせく歩き回る無邪気なゴマ粒、かように残酷な対比が永遠なるものの雄大さと我々の間で煙草をふかしておるのですから。 然し矜持というものは一寸の虫にも宿るもの、我々の魂はきっかり1グラム、それ以上はまかりませんで。
とじるうみがめのスープ : 男はスープを飲んで、このおいしいスープに使われているのはなんの肉ですか?と聞いた。ウエイターは「人肉ですよ。」と答え、男は家に帰って自殺した。 ウエイターは男が自殺したのに気がつかなかった。昨日のお客に対しただ、マナー違反だな、と渋い顔をしていた。彼があまりにもスープを気に入って何杯も何杯もおかわりを頼むので。 だから今日も来るだろうと思っていたが、それも山高帽の男が店のしきいをまたいだ時に、すべて忘れられてしまった。山高帽の男は人間のスープを何度人間だと教えてやっても、 頑固にうみがめのスープだと信じている。この男の娘は、門限を破って友達と、それも異性の友達と夜更けまで遊び歩いていたために、数日後には壁の中に埋まった。シェフの弟が彼女のゆびさきに愛を運んだものだったが、 それはそうとして鍋の中でうみがめが煮えている。うみがめが煮えている。この町ではあまり人肉のスープが人気ではなくなっている……
とじる東の果てから逃げてきた女を知っている。やはり東にも楽園はないものかと訪ねると、東にあるのは紛う事なき楽園で、人びとの幸福な窓辺には不幸の影さえしのび寄ることもないのだと言う。 ではなぜそこから逃げるのかと問えば、女ってそういうものよ、と笑っていた。成る程、女とはそういうものかと思う。
とじる君が得意げにリノリウムの床を踏んでいる時、僕はサイリウム®の床の上で、夢を現に変えようとあくせくしていた、記憶をこねくりまわしていた。肋骨から女を作ったのは、 フライドチキンの食べかすを竜にしたのと同じ類いの創造だ。だからこうしてこねていれば虚像も、上等な土くれのように偶像となってくれるだろう。
とじる下を向いて歩いていると、街中で土の臭いがする。おや、へんだなと思って顔を上げると、さら地の隣で重機がぶんぶんいっている。家の並びの、間がぽっかり開いている。 いつのまに取り壊されたんだろうか。昔からよく通った場所だのに、そこにあったのがどんな家かも思い出せない。変化というものはおおむねそんな風にして起こる。
とじるポストワトウの前に、玉砂利の道が彼方の山の裾まで続いている。黒ずんでごろごろした礫の野原に挟まれて、血の気の失せた顔をぶら下げて呆けていると、乾いた風がやたらに吹きまくっている。 ごわついた灰色の作業着の襟を寄せて見上げれば、無彩色の風景の後ろに、ただ青いだけの空が貼りついている。
とじる人生のうえに幸福を添える仕事をしています。
無論ごくささやかなもので、運命と呼べる程劇的な変化をもたらす訳ではありませんが、日々の苦役の小さな報酬、それだけで人は満足し、人生を続けてゆけるものです。
この仕事こそが私に添えられた幸福であります。なんと素晴らしいのでしょうか、私の幸福、私の私の人生私の人生は……
「むりをいって、きましたけど、やっぱりだめですね。」と頬をかく友人は海の人である。水からそう離れていない、浜辺の空気ですら体にこたえるようなのに、陸も陸の真ん中に来てしまったのだから、 かいたそばから頬の薄皮がぽろぽろ剥がれ落ちている。山の春は諦めて、次の駅で降りて海へ帰す。
とじる憎まれて生きるより惜しまれて死んだほうがよかろうと、誰も望まなかった役目を背負ってえっちらおっちら、丘の上の石棺へと続く小道に音もなく寄せては返す春の香は、何だか生きていたいような気を起こさせて、 あまり沢山吸い込むと、塩でも擦りこんだように目がしぱしぱ痛み、あとからあとから涙が溢れて、ひびの入った地表で巻き上がる砂埃がぼやけた視界に沈んでしまうと、ふたたびこの宇宙に、水の惑星が甦る。春は来るのだった。
とじる 僕はほんとに長いこと、悲劇役者としてやってきましたから……。そうするとね、笑うということがどういうことなのか、判然と分かるんです。知ることができます、
泣き濡れて枯れはてた心の底に、酒石のように結晶しているのは、希望であり歓びです。囚人が運命の夜に処刑台で見上げる星の光、命をかけた真の芸術が血膿の中から生まれ出るのにも似ています、空気の色を見ることが不可能なように、
当然そこにあるものとして幸いを呼吸している限り、私が見つけたような輝きは、決して知りうることではありません。
それで何でしたっけ、何の話でしたっけ、ああ思い出しました。たんぽぽだったってことです。君は遠い星で首をうち振るうたびに、種子をぶら下げた綿毛を飛ばしている、
綿毛を飛ばしているんです………………それが我々一人一人の頭へと根付いて、じき幸いをもたらしてくれます。(天を仰いでおし黙ってしまう。照明が消えていき、彼を照らす一条の光だけが残る。)
文字盤の上で、ペロチキ、ペロチキと時が涙を流している。夜明けが来るのを待っている四時の部屋の隅、あたりを覆う黒とも青ともつかない色のない色彩を、こどもの頃はうすらむらさきと呼んでいた。 大人になった気がしていた脚の真ん中では、膝小僧だけがやたらと大きく目立っている。やめてよ、やめてよと五年前の自分が助けを求めていて、慌てて閉じた両の目の裏で、熱い涙が瞼を焦がす。 夜が明けたら全てうまくいく。夜が明けたら時計の針は時を切り刻む堂々巡りをやめて、新しいカレンダーを冷蔵庫の向かいの壁にかけるだろう。このうすらむらさきの夜が明けたら。
とじる空の隙間にありえた未来を探しています。私は過去のある時点で確かにそれを現実にできました、そんで何もしなかったので、未来は傍流に堕してイフの囲いに遊んでいる筈なのですが、 探せども探せども一向に見当たらないのです。私は東に行きました、一晩じゅう浜をつつきまわした挙げ句、日が昇ってくるのを見てここは違うと気づきました、それから南へ行きました、 地底湖を泳ぐめくらの魚に鱗を貰って悟りました、ここにはありません、ですから西へ行きました、ざっくりとした岩肌にかじりついておりますとね、まあしんどいものでした、どの砂粒も汗の雫を吸うだけで、 お目当てのものを譲り渡すに至らない、それでもう疲労困憊、いい加減うんざりしてしまって平たい石の上に寝転びますとね、天晴の天が雲だらけなのが目に入りまして、ようやく了解できたのです、私の探しものは空の隙間にあるのです、 以来ここに腰を落ち着けて探しています、北へ行く必要はありません、私はここで、この空の隙間に、ありえた未来を探しています。
とじるお馬鹿さんね、わざわざこんな重たいの、とN夫人は僕の贈ったデンドロビュウムの鉢の側面を、大げさな身ぶりで撫ぜた。彼女は可憐というには少々華やかすぎるくらいで、また自身でそれが分からない女でもなかった。 僕とNはいつでもこの少女の奴隷だったし、白を黒にする為に、死んだ小鳥をさえずらせる為に、夕暮れを東に置く為に、随分骨を折ったものだ。いま淡く色づいた花のひとつに頬寄せる彼女はなるほど美しく、 そのくちびるが音もなく密やかになにか意味のある形に結ばれたとき、僕はNの破滅を悟った。
とじる人間の皮の中に、腎臓が八組も入っているんです、とN博士の指がヒョコヒョコ動く。その指す先では、だいたい十五歳くらいの少年が、水槽の中で、黄みどり色の粘性の高い液体に、頭のてっぺんまで浸かって、 ふやけた白い肌を晒している。言われてみれば、どことなく胴や手足が長い気がする。半開きの口の端からのそりと顔をだした泡ぶくが、緩慢な動きで頬の凹凸に沿って這い登ると、かたく閉じた瞼のところで、 綺麗にそろった睫毛に足止めされた。何も動きがなければ、いつまででも留まっていそうである。それでねHさん、こいつは人造人間ならぬ、腎臓人間なんだというのが、うちの先生のお気に入りの冗談なんですよ、 と博士が耳障りな笑い声を立てると、少年の目もとに震えが走り、真珠のような泡の玉が、音もなく睫毛を離れ、水面へと上っていく。八組の腎臓は全て移植に使われるのだという。泡はなかなか、水面までたどり着かない。
とじる一日の終わりに、「もっと何かすればよかった」と思うことがある。無駄遣いしてしまった時間を今さらになって後悔し、明日はもっと良くするぞ、なんて決意を抱いて眠るのだけど、明くる日起きたらまた何となく一日が過ぎていってしまう。 そういう一日を繰り返しながら、やがて年老いて「もっと何かすればよかった」と一生を振り返るのだろう。
とじる「N、俺がなんで怒ってるか分かるか」
沈黙。向こうで梢を揺らした風がここまで吹き抜けてきて、コートの裾をいたずらに翻らせた。いま太陽は高い雲の縁をなぞり、時折姿を隠してはまた現れる。そのたびに、なだらかな芝生の上を、大きな陰が光に追い回されるように滑っていく。
静寂は無音ではなく、あるのは静かな鳥のさえずりや木の葉のさやめきだ。時間をかけてゆっくりと瞬きすれば、開いた目に映るのは変わらず、白い石に刻まれた文字列だった。
死者は黙して語らない。名前の下に記された短い年月に、名状しがたい様々な思いがわいては消えた。Nは無鉄砲な男だった。死ぬんなら人を守って死にたいなどとヒロイックなことをよく口走っていた。
そして奴は俺が大事にしてほしかった命を、ちんけな悪党ひとり守るのに使ってしまった。
音が鳴ってるな、と思ってボンヤリしておりますと、誰かが五〇〇語くらい使って、音楽のもつ比類なき力を称賛しはじめました。夕焼けは只オレンジ色で綺麗でしたが、誰かがこのオレンジに、無限の色彩と心さざめくもの悲しさを見いだしました。
何事も私を通すと単純でつまらない。どんな物もがらくた同然、目に入る草花に名前はなく、青い空に浮かんだ雲も、季節を無視して白く流れてゆきます。
私の人生は貧しく、それはとても悲しいものなのでした。ということを、私は死ぬまで、知りたくはありませんでした。
君は裏切られて生きてきたと感じている。人生のあらゆる努力や思惑を、君は無視されてきたと思っている。何ひとつ君に報いはしなかった! 顧みられぬ人としてある君、誰ひとり君と歩みはしない。 だが君は知っている、すべてが君をこの生という荒れ野にうち捨てていっても、死だけは君を裏切らずに、終わりまでやさしく寄り添っていてくれることだろう。
とじる「私があれを描いたのかって?いいえ。ただ……帰りたいんです」
私はてっきり彼がこの絵の画家と同郷なのだと思っていたが、いま振り返ってみればあの横顔に滲んだ郷愁はもっと具体的なもので、あの丘の小路や青々とした生け垣、並ぶ家々のクリーム色の壁が囲む空隙は、まさしく彼の為にそこにあった。
うちの部署では病気の認定をやってるんですがね、毎日いろいろと変なのが来て困りますって、今日もちいさな女の子に「“ばか”と“つかえない”もびょうきにして」とか言われましたが、どだい無理な話で、世の中なめんじゃないよと、そういうわけなんですな、いやまったく。
とじる電気羊なんて夢見てあくせく働くのは人間だけですよ、なーんて馬鹿にしたように言うもんだから、うるせえ電気人間、と返してやると、深刻な顔で黙りこむもんだから、なだめすかして機嫌をとってやる……壊れかけのコピー機そのもの……
とじる握れなかった手も君を想う気持ちも、些事でございますね、爛漫たる春に蕾はほころび咲くでしょう、ひらいたばかりの花びらを、雨が残らず流してしまうでしょう、この世はそんなものですよ先生、期待するだけ無駄というものです、 それでも希望はとっておき、無駄こそが最も価値ある富、人生は楽しい。
とじる主任はニハ23号を見おろして、やっと素直になったな、と言った。ニハ23号は大量生産の機械人間にしては珍しく、自分の運命を受け入れられずにいた。機械人間は奴隷なのだ、なのだが僕はこの機械の、彼が最後に僕にむけた、助けてくれ、という眼差しを忘れられそうにない。
とじる幸福を喉に詰まらせてのたうち回っている。息はできるがやりきれぬ、悲しみに胸がふさいだ時よりも七転八倒の滾転、天の青と地の灰白が入り乱れダンス、急に痛みが引いたつかの間、ほっそりした君の脚を見てまた脂汗をかきはじめている。
とじるイスパ・クク・ジルナクはその一報を聞いてただ、忙しくなるぞ、とだけ思った。それから国境ほど近いニラペレ、小さな田舎町を死の沈黙で覆っているであろう目に見えない殺戮者のことを思った。 また彼は一緒に仕事をするはずの誰かがあまり勤務態度にうるさくない人間だといいと思い、吹き込んできたすきま風に、いまのうちに修理しておかないとまずいな、と思う。思考、思考は思い思いにうろついて、 思いのままに弧を描く、忘れえぬものを巧みに避けて。ニレ。ジェンチリ。ふたつの国の間。目を閉じて深く息をつき、押し込めた記憶へそっと触れようとしたその刹那、ケトルが甲高く鳴いて、開いた目の前に現実が広がった。 嘴するどい忠実な隼(ジルネ)、いいとも、おまえが沸かしてくれた湯でコーヒーを淹れよう。きっと明日から忙しい。
とじるマリアナの底が見える、と君は震える指先をこけた頬の前でさまよわせた。まるでお話にならない、近くには川すらない楯状地の真ん中で熱病に追いたてられて命の縁の縁、海に焦がれて流された貴重な水分が目尻のワジへ鉄砲水を起こす。骨を撒いてやることを約束する。
とじるワア、ワア、ワア。と言った。もう一度? ワア、ワア、ワア。にがりきった曇天が村中から彩度を奪い取って腹を満たしたこの春の日は麗ら、錯誤の寒風が縁側にむかってびゅうびゅうと吹き付ける。 僕が背を餅のように丸めるたびに、硝子がびりびり文句をつけた。だからそれに答えてワア、ワア、ワアと言った。寒かった。隣人が裏の畑から怪訝な顔を向ける。もう一度? ワア、ワア、ワア。
とじる私が最後にそれを見たのはいつのことだったでしょうか、虚しい季節がいくつも過ぎ去って、チョッキの脇腹のところがみじめにすり減ってきたあたりのことと記憶しておりますが、なにぶん半端者の海馬のこと、 賽銭泥棒の信心程度にしか当てにできません。ともかく路面のゲボとか染みだらけの痩せ猫の死骸とかいったものがひどく哀愁まみれになって目につく午後でした、わたしはひびだらけのアスファルトにへばりつくマンホールの無機質な凹凸から顔をあげ、 どこか見えない公園で鳴るサイレンを聞いておりました。むろん腹は空いておりました、なにぶん浮浪者のうちでも指折りに間の抜けたほうでありますから、いつまでも飯屋の裏で敗北者の苦汁ばかり啜り、新米気分で食いあぶれているわけなのです。
とじるクソが付くほど寒い朝だった。俺はクレバスの底でまん丸くなって、誰か優しいママがあの明るい裂け目から産んでくれるのを待っていた。多分折れたらしい右足は文字通り凍りついていて、 触れると足首まで棒を通してつつかれるような感じがした。夜がきたら(それまでには随分かかりそうだった)、どんな幸運も救ってはくれないことが分かっていた。視界いっぱいにそびえたつ氷の壁は、 ほとんどの光を吸って純粋に青だけよこす。やつらはその高さでもって希望を絶ちきるのに忙しいらしいが、最期の景色としては悪くない。悪かないが、やっぱり俺は記念日の恋人が頬にはたいた、目玉が飛び出るほど高い、とっておきのばら色が恋しかった。
とじる彼は不機嫌に窓を指差してこう言った、あいつが憎い。あいつが肥太っていくたび、僕の居場所は狭くなる。なるほど独房ではじめての夜を過ごす囚人のかたちで、部屋の隅っこにうずくまっている。 ひざを抱えた袖口から、肉のほとんどついていない、痩せた手首がのぞいていた。「でも君、月明かりだぜ」と言えば、「あれはあいつが反射した太陽の光だよ」と返った。UVカットのシートを透かして地球の裏側から差す光の索に、骨のかたちがぼうと浮かぶ。
とじる黄色はおそろしい速さでキーを叩き、わたしはぎょっとした。色つきがこんな風に悪意をむき出しにするのは初めてだった、まるで楽しみにしていたコンサートがわたしのせいで延期になったかのように、 恨みがましく睨めつけて乱暴に用紙を千切りとった。こんなしわくちゃの許可証を、パスポートに貼りたくはなかった。
とじる恋人はめまとい、病気を運ぶ唇が目尻に溜まった海を舐めとると、ああ失明する、そんな気がした。西向きの窓は掛け軸、長細く切り取られた表通りは忙しない。翌日から視界を虫が泳ぐ。電線の上を糸のような虫が自由に動き回っている。小さな海に溺れる。
とじるかなり地獄だな。プクプク。やつのふかした煙草のけむりは、だらしない楕円を描く唇の間からつぎつぎと立ちのぼった。空は薄めたヨードチンキ、そこへ白けたけむり数珠つなぎ、プクプク。そういえば循環学の授業をさぼっていた時もこんな風にけむりを吹いていた、害のないほらを吹くのが上手いくせに、嘘をこしらえるのは昔から苦手なやつだった。飛行場の空気は燃料の臭いを混ぜて清涼で、シャトルに並ぶ冗談みたいなミニチュア人形の行列は、色とりどりに不安と希望を踏んで絶えずゆれ動いていた。じゃあ僕は抽選から漏れたのか、と雑談の隙間に気まずい一瞬を貼り付けてやったら、けむりを途切らして、おまえ鋭いよな、と返ってくる。プクプク。まあ、月になんか行きたくないさ、だって殺風景じゃないか。ご存じの通り僕は飽きっぽいし、と柵にもたれてアルミ細工の頼りない軋みを聞いたらば、やつは台詞を補足して、それに人混みも嫌いだし、と呟いた。プクプク。水槽の中のあわれなライギョがこんな顔をしていた、こんなやかましくあぶくを吹いたりしなかったけれど。放った吸い殻を踏みつけにする、その横顔をぼかして気楽な憂鬱が漂い、やつは絶滅しかけの魚のように、僕の嘘をうまそうに食べた。
とじる「わたしの権利を手放したんですね」
「金がないからね」
「わたしは幾らくらいですか」
「借金を返した余りで家が建つよ」
「それは良かった」と彼女は七色を抱いたオパールの瞳を向けた。
「もうぼくにはきみの設定はいじれない」
「会社のものになるんですものね」
「そうだね」
悲壮感はない。ほっそりとした喉もとで、朗らかに合金の鈴を振る。
「わたし忘れません、わたしは、最後には、本当は人間だったってこと」
ぼくは返す言葉がなくなって、手のひらの内でみっともなくすすり泣いた。きみは永遠にロボット娘。
男はぐったりしていた。夜だった。真夜中だった。そうして墨を塗りたくったような夜の真ん中に、星がひとつだけぎらぎらしていた。今日は新月である。グリスを塗っててらてらした光の波は男の体を脱色し、次いでめっきを施していた。 はっきりと2:1を保った敷石の並びは彼を安心させ、同時に不安にさせもした。耀星の明輝、この世の悪をなぶり殺しにする気配。罪過染み込む芯材は、消毒された街のどこにも居場所がない。
とじる死んでくれよお、後生だから死んでおくれよお、などと泣きわめき、ところ構わず体液を飛び散らしていた不憫な男は、自分のほうが縄にくくられて死んでしまった。麻袋の下の顔はよく見えないが、明日は晴れそうな予感がした。
とじるゼルニカ、私には君と向き合う勇気がない。君の手を握る勇気がない。君の髪にシロツメクサを挿してやる勇気がない。君の隣を足どり軽やかに歩いていく勇気がない。ゼルニカ、私には勇気がない、ゼルニカ、ゼルニカ、ゼルニカ……
とじる「私はロボットではありません」。
チェックボックスをクリックしようとした手が止まる。なぜだ?私は人差し指にもう一度力をかけた。指はブルブルと痙攣したが、ボタンを押し込みはしなかった。指を変えても無駄だった。親指が反りかえり、額から汗が滴った。
心臓マッサージの要領で体重をかけても、手のひらはボタンに触れるか触れないかの位置で静止したままだった。ありえない、物理法則に反している。肩で息をしていると、チェックボックスの空白がやたらとぎらぎら目につきだした。
そういえば、五日くらい前に飲み過ぎて……千鳥足の視界が脳裏で揺れる。知らない道の向こうからやってくる、眩しい前照灯の光。マウスに手を置く、人差し指が曲がらない。画面の文字が滲んだ。私はロボットではありません。私はロボットではありません。私はロボットではありません。
おい、あんた、あんた今おれを憐れんだろ。冗談じゃねえ、その薄っぺらい同情を下げろ、下げろ。臭いのを我慢して、よくぞこんな親切な施しをしてくださいました、だ。は! なんと貴いご身分だ、好き勝手見下してかわいそうがりやがって、 おれたちの不幸はあんたらの慰みのためにあるんじゃねえや。
とじるわたしが「右」と言いましたなら、この世の正義は「左」と叫びます。実のところ、我々人類が邁進すべき道は真っ直ぐ正面に伸びておりますゆえ、前だけ見据えて生きてゆかれればそれでいいのです、いいのです。 然るに前進あるのみ、さすれば後退なきなり、二足歩行の諸兄には両眼視の加護ありて、この道程を妨げる憂苦にはサプライズのエスもなく、明日をしっかと踏みつけて、発生を始端とす今日の発展を、益々の栄光に満ち満ちさせるのであります。 ところで孤独はまた別の話であります。この世の正義に反すれば、当然の村八分、つま弾きものに判官贔屓は適用されず、わたしはひとりぼっちになります、愚衆の人気取りなど、と馬鹿にしていても、やっぱり孤独は骨を食み、肉を病苦に晒します。 寂しいですね、寂しいですから、もしかすると、左なら左、右なら右と、迎合したほうが正しいのやもしれません……
とじるジャルガモシ・ケ・トの脳裏によぎったひらめきは、掴み損ねた尾を引いて思索の海中に没した。放つ燐光は大いなるものどもに祝福を賜りし証、ひとたびわが手のうちにするならば、遠くジャク=ラク=サムで産声をあげた災禍もその息の根を枯らし、 ケ・トの名は破滅の亡骸の肋に刻まれ、四海の民より栄誉でもって象篏されるであろうと思われた。
とじる君の優しい一言が、刺し痕だらけの腕の上へと降りかかる。するとたちまち、やまいだれの内に込めた僕の未練が、瞼を乗り越えて流れ出た。やめてくれ、やめてくれ。僕はあの美しい春を見ることのない自分を、 心の底から誇らしいと思っているのだ。僕の勇姿を刻むかわりに弱さを抉り出すなんて、君は非道い人間だ、それでも僕と自己との関係を、友で通して憚らぬ君、春よ、春よ、我が枕辺の敵に来い、君が木蓮の香に溺れるのを眺めたい。
とじる私は川岸にのぼり、えっちらおっちら、懸命にのぼり、息をつき、膝をつき、それからえいやと勢いよく川岸にのぼると、しょぼくれた眼を上げると、晴れ晴れ、晴れ晴れした晴れ間の青い空の端書きに、私の故郷の運命が、記されていたのであります。
とじるおお! 僕の眼球はブツリと音を立てて皮を弾け、ブドウの身のようにつるりと剥けて、抜け殻になった真実が眼窩に残された。烈しい白光に肌を捧げ、いくつも湧いた水胞がパチパチ爆ぜた。 膝をつく僕から飛び散る黄色みを帯びた液は砂糖水に比べるとやや硝子じみた乾燥を遂げ、歯の根が柔らかく腐り果て、真珠を真似た歯と歯と歯と歯が次々と落ちた。次いで僕は変身する、次いで僕は変身する、旭暉の宣託を浴びて僕は変身する、変身する!!!
とじるうにくらげを食べている。うににもくらげにも似ていない。とろみも歯ごたえもない。母を失った父なし子のようだ。うにくらげはむかしエウロパで採れていた。今は地球でも採れる。地球産のうにくらげは夜に食べるとことさらうまい。エウロパをなつかしがっているのだと思う。
とじるはあ、そうですか、と男はうなだれた。憂鬱な物思いの湧いた頭は、首から外れたみたいにぶら下がった。父親の訃報を聞くのはこれで三回目、そのたびに弁護士が相続の話をした。 男は先週替えたばかりの電話の黄ばんだプラスチックを、やや恨めしげに眺めている。受話器のコードはいくら巻いても、続く言葉を遅らせてはくれなかった。だが今回はそれなりに聞く価値を見いだせそうで、 男は肩の間で落ちた頭をそっと首の上に据えもどし、それからぱちぱち瞬きをして、恨めしげな目をやめた。どうやら土地があるそうだ。二十七人の兄弟と平等に分かちあっても(男はしんがりから三番目)、 湖のほとりの素敵な小屋が残るという。そこで暮らしたい、電話線を引かずに、そこで暮らしたらもう訃報を聞かなくていい、と男は湖の夢を見て、電話がなくとも訃報は来ることに思い至り、科学文明の進歩を恨んだ。
とじるビルの建設予定地に、「動かせば祟る石」があった。作業員の不可解な死亡が相次ぎ、皆が建設を諦めようかと思ったその時、一人の男がやってきて石を動かし、粉々に砕いてしまった。だが何日経っても男は死ななかった。 「この石は、私を人間とは認めてくれなかったのです」機械じかけの目が皆を見る。
とじるドはドーナッツのドだ。むしゃむしゃかぶりつく。ミルクにでも浸したいが、ミはみんなのミ、生憎とこのうまいおやつを他人と分かち合う気はなかった。追加で欲しいのはほかの音、レはレモンのレ、ソは青い空、シは幸せ、 君が向かい側に座ってこたえられないほどゆるやかな速度でうっとりと目を細めている、ねえ、私とっても幸せよ……
とじる荼毘のけむりは空高く、死骸を清潔な骨に変えます。いまこの市街も清潔な骨に変わり、我々の文明が汚損した大気を少しずつ、少しずつではありますが清浄なものに変えるべく、あらゆる追憶の隙間に草木を育んでおります。
とじるセンチメンタルな気分を耕して、どうにもやりきれないこの世をほんの少しずつ柔らげていけたらなんて思っております。けれどもそれはどだい無理な話で、けれどもそれは憧れにまみれた希望でありまして、 石炭袋の奈落を貫く一条の光線、あの美しい金剛石が寄越すなけなしの慰み、我々に与えられた最後の貴い使命でありますれば、私はこの鍬の柄を決して手放しません、手放したりいたしません……
とじる最期に夕日が見たい、などとベタな事を言いだした博士を屋上まで連れていく。生き物だろうと機械だろうと、最後には平等に終わりが訪れるのだと笑っていた。では君、バイバイ、さよなら。別れが悲しいのはライティングのせいだと思う。
#別れ終わり最後最期バイバイさよならを全部使って別れを表現する
とじる万象を賑やかし来る定期便 うららかなれと昼寝してまつ
四月馬鹿電車を止める夢を見る人の混みあった遅延のホーム
しもばしらさくさくと靴のうら
花いちもんめ誰にも欲しいと言われない忘れ霜
近眼、蓮花に変わる細い月
からっぽの蛤をみるような寂しさ
とじる各駅に乗る。地獄まで二秒半ですわね、と女が指差すのは新型の車輛につきもののディスプレイで、見れば確かに地獄の二文字の下へ二秒と半分が記載されている。そんなのはごめんだと引き返そうにも、 ドアの隙間はぴったり閉じて、開く機能がないかのようにつんと澄ましてとりつく島もない。後ろ頭を引っ張る慣性、終点の地獄まで見知らぬ女と行く二秒半。
とじるなに、ここいらは獣の領分よ。あんたみてえなひ弱な輩が人間らしくとりすましていたら、簡単に食い物にされちまう巷なわけだ。あんた、どっから来なすった。どうして来なすった。刻々刻んだたったの一分、されども一分をひと跳びにたち戻り、あんた何しに来なすった、ええ?
とじる君を死骸に変えてしまう残酷な時間のことを、僕は愛しているのです。ぐずぐずになった脳みその独特のあの臭気、胃の腑を揉んで中のものを全部吐き出さずには済まなくさせるようなあの臭気、 かけがえのない思い出を無よりもむごい段階に貶めるあの臭気が、君を漬けこんだ水をさらう僕に慰みを与えている……
とじるここへおいでよ たのしいよ 僕らちゃんとしてなくていいんだ ちゃんとしてなくていいんだよ そりゃちゃんとできるならしたいけど、できないんならしなくていいよ。
とかなんとかちゃちな弁解をプップク世の中に向かって吹き散らしている連中が、私の目に障ります。彼らは私を勧誘するんですが、そいつは断固許しがたい、私は確かにちゃんとはできません、 愚図でうすのろ、ノータリン、不埒な偽善者、土手かぼちゃのうすらトンカチ、この世の罵詈雑言は私の為に用意されております、ですがあの浅薄な自己欺瞞に迎合する気はこの心のどこをさらってみてもありません、私は決して! 劣っているのを恥じることをやめたりはしないでしょう。
とじる天使の話をしてよ、と子供がせがむ。穴蔵の自由になるほんのわずかの空間を使って、女は背をかがめたり伸ばしたりしながら、手を翻し、天使の話をした。地上に失われて久しくまた天上において放逐されたものとされている二十四人の天使の輪郭は、 劣化した漆喰の壁面に建つ砦へ、本物の火を模した電気ランタンの光をもって焼き付けられる。
とじる僕はやりきれなくなってげらげら笑いだした。笑いだしたのに胸がつぶれて、あとからあとから瞼の向こうへ熱い涙を押し出そうとする。ハレルヤ、アレルヤ、アリルイヤ、すべて思し召しだという。 君は絶対に間違わない、僕が間違いに溺れる間も、君は正義を踏んで威風堂々歩みゆく一人の英雄、凱歌の勇壮たるや蛆虫の命かき消す三十五節。僕はやりきれなくなってげらげら笑いだした。 そのうち君はどこにもいなくなり、ただ涙だけが、僕らが携え陸に上った海のかけらが、ほろほろと辺りいちめん故郷に変えようとする無駄な抵抗を示す……
とじるうすらいの如き君に、わが心、与うることの虚しさを泥になぞらえまた春過ぎぬ……とまで思い詰めたところでふと目を上げれば、甍の波間に彼は誰の色を拾い、東の空の裾、淡く染め付けた雲文に暁の予感を望む。 煙突を飛び飛び山向こうから視線を返せば、文机へ降りるインキ壺の影の粒子のよるべなさ、眉の間に凝り固まった哀愁もいや増しにつのりゆく。春よ、春よ、わが枕辺の敵に来い。春よ、春よ……
とじる#秘密を作った のでアシスタントのAIに埋め込んだ、あくる朝の彼はなにやらアンニュイな面差しで私を盗み見る、博士、僕は人間に近づきましたね、博士、僕は人間に近づきましたか。 私はそら恐ろしくなって机を片付ける、栄養剤の空き瓶とインクの涸れたマジックペンとが脱いだシャツに同衾している。
とじる知人は卵の例えをもって三度私を殺そうとした。変性するのはなにも有機物だけではなく、アスファルトの黒も路面で粘りつき、以前の姿を偲ばせる。空調の壊れた部屋に居座る私の知人は、肌の上でいつまでも乾かぬ汗に似ている。
#夏・熱・暑・蒸・茹を使わず激アツ猛暑ポエム
とじる「こいつは成績がいいんですよ。標的も馬鹿じゃありませんからいかにもななりをして近づいてくる輩には決して隙を見せちゃくれませんが、哀れっぽい様子の機械には、 こと死にかけて命乞いなんかしているやつにはね、日ごろどんなに血のかよった人間の生命を踏みにじっていようと、善を施してやろうって気になるらしいんですな。おお、かわいそうに……そこをズドン、で事足ります。 なにただそのズドンができればいいもんで、あとは適当に壊れておけばいいんですから他と比べたら安上がり、ロボットちゅうもんはね、性能じゃありません、アイディアですよ! 核になるアイディアがぱりっとしていれば、ほかががらくただろうとね、構やしないんです。」
とじるスクリーンの上に僕がいる。僕はいるかと泳いでる。他人の海を泳いでる。僕の泳ぎは下手だけど、いるかはそれを許してくれて、僕らどこかへ辿りつく。で、映写機はいつだってここで壊れてしまう。 僕らどこかへ辿りつき、そこはこの世の楽園だけど、そこがどこだか分からないまま、小窓の中を技師がうろうろ、いつまで待ったって再開してはくれないので、そう言えばと手元にあるのに気づいたばかりのポップコーンをつまみながら見る、 スクリーンを見る、スクリーンを見て思い出す、スクリーンの上に僕がいた。僕はいるかと泳いでて、他人の海を許されながら、僕はどこかへ辿りつく、僕らどこかへ辿りつく……
とじる天気が悪いので西へ行きます、と奥さんは出ていった。この女は前にも西へ行った、なにせ天気が悪いので、俺はまったく動かずにいるが、てんてこ舞いは俺を東へ連れて行く、なるほどこうして男と女は出会うのだと思い、夫と妻とが出会うのだと考えなおす。
とじるてをだしてごらん、とダルニ師はおっしゃいました。私はそのとき手の内にやまいだれの子供をかくしておりましたので、いいえ、できません、と返事しました。師はまた私にこうおっしゃいました、どうしてできないのかな。 そこで私はぎゅっと指をにぎりこみ、とてもよごれているのです、と嘘をつきました。ダルニ師は頑固な教え子のお粗末な言い訳を、頭ごなしに砕いたりせず、辛抱強く付き合ってくれました。いわく、おまえの手のきれいもきたないも、わたしが気にしたことはあったかね。 やさしい声色でした。やさしいまなざしでした。ですが私はかたくなで、いやいやをして黙りこんでしまいました。ダルニ師はあきれた様子もあきらめた様子もみせず、ただその大きな手のひらで、私のあたまをそっと撫でました。 いいとも、と師はおっしゃって、すべてわたしのまちがいだからね、とにっこり微笑みました。私は涙が出そうになりましたが、それでも手は開かずじまい、西で火ぶくれ病がとても流行し、おとなしい人びとがいくたりもいくたりも不幸になったと聞きますが、 それは実に、まったく、幼かった私のせいなのです。
とじるしんどいね……などと口ばしったのを後悔する暇もなく、テジャ・ドゥは再教育のために十四号棟へ連れていかれた。引きずられていったというのがより正確な描写で、テジャ・ドゥのしわくちゃの泣き顔は無意味な抵抗と興奮、 それと廊下の非常灯によって真っ赤に塗りこめられていた。非常灯は大きめのスイカひとつぶんくらいの高さにあったから、彼のくるぶしをそれぞれ掴んだふたりの作業員の顔はというと、赤い光は届かずに、天井のほうの明かりを受けて、 かき氷のシロップそっくりの青色が、耳介の畝から小鼻の陰まで、あますところなく貼りついていた。テジャ・ドゥが泣きわめくのをやめたとき、揃いのジャンプスーツに身を包んだ男たちの片方が、思い出語りの調子で言った。しんどいね。
とじるむしょうにせつないね。そんでもって、むしょうにやるせないね。ねずみ捕りの男が片端から、くらい色のどぶねずみをひっとらえていくよ。ここいらじゃ見ることをやめた夢はみんなねずみに変わるのさ。あそこでチューチューやってる、 こそ泥じみた集まりを見たかい?どんな高潔な夢もおんなじねずみに変わるのさ。それをね、こうやって眺めているとね、むしょうにせつないね。そんでもって、むしょうにやるせないね、むしょうにね。
とじるおこりんぼさんね! と角の浜屋の看板娘、白いりぼんを高く結わえたみどりちゃんがこう言った。僕はおこりんぼさんではなかったが、初夏の陽と表の打ち水が寄越す華やかな光の粒をまとったみどりちゃんがあんまりにもかわいらしいので、 まあそれでいいか、などと許してしまい、ソーダ水のぱちぱちはぜる冷やっけを頬に受けながら、レース編みのテーブルかけに肘つきなんぞして、ところでりぼんを染めるなら何色がいい、と聞いてみる。するとみどりちゃんは片足を跳ねあげて、 おかしなひとね! と言うものだから、僕はおこりんぼさんからおかしなひとに変わってしまい、バニラアイスを注文する。
とじるけ! けむくじゃら、けむくじゃら。僕の犬が駆ける。小山のように大きく、そのくせ俊敏そのもの、稲妻のごとく縦横無尽、芝を疾る毛玉だ! 青空は遥か彼方の宇宙を透かしうすく軽やかな雲を散らす、地平線を隠してこんもりとした植木は紛れもない秋の装飾、 華やかならずとも鮮やかな千の茶色、そして僕の犬は、僕の犬はきなり色、葉の縁の褪せた黄緑の草の上、転げ回って僕と遊ぶ、かわいいピンクの舌を出して、僕が大好きだって伝えようとする、全身で、全身のあたたかさで。け、けむくじゃら、けむくじゃら。僕の犬はけむくじゃら。
とじるちくしょう! 俺は暴れまわった、いや、暴れまわりたかった。手足はそれぞれお互いとがっちり結びあわされて動かず、下手にもがけば間接がぼろりといってしまいそうだった。猿ぐつわも硬く、擦れた口の端からなにやら鉄臭さが発生している。 血だ! 紛れもなく、疑いようもなく。ごわごわした絨毯の繊維も頬にあんまり優しくはなく、うっかり──あのときは一縷の望みをかけての大冒険で──倒した椅子の上に戻りたかった。ごろごろ転がっても景色は変わらず、ただ高い窓に青色の自由が染め抜かれ、 そこへぽっかりと空白が浮かんでいる。
とじるのんべんだらりとしている。縁側には夏を手に取れる形にしましたとばかりに、麦茶のグラスが盆の上で汗をかいている。隣には無論のことながら真っ赤な西瓜が三角になっていて、浴衣をだらしなく着崩した余に食われるのを待っている。 太陽の位置がよく、庇の下は丁度日陰になっている。その癖、庭はじりじりと照りつけられて景色の白が飛んでいる。板塀の黒ずんだところを背にして立つ椿の葉がてらてらして、いかにも暑そうに光線を受けている。 その下で、早いうちには生き生きと露を飲んでいた朝顔が、見る影もなくしょげかえっている。妻の足音が耳に入り、あなた麦茶が薄くなりますよ、から始まって、御姉さんがいらっしゃるでしょう、そろそろ起きなさったら、 ときて余をしゃんとさせようとする。水だっていい位だから気にしない、姉なんて俺のだらけ癖を知っているから遠慮もいらん。のらくらかわす。西瓜はどうするの、と言われたら冷たいうちに西瓜が食べたくなったので、のっそり起き上がる。 自分の分を持ってきていた妻と並んで西瓜を食う。
とじる なんとなんと! 威勢のいい声が飛ぶ。冬用の分厚い外套を着こんだボイザム・Jはぐいと首を巡らしてこれを見た。なんと! 黄緑の顔をしたハルゲー12の商人は、ここ火星の貧民街で、いったい何を売ろうとしているのだろうか。
鉛いろした陰気な顔が見物人に加わった、彼は種族的な特性でなく健康が優れないためにこのような顔色でいた、この地区の気温は空調の不具合で下がりっぱなしだった上、のんきな雲を浮かべたシェルターの天井のどこかに亀裂が入っているともっぱらの噂だった。
「なんとなんと」と商人は、人々の購買意欲を煽ろうと、耳まで裂けた笑顔で言った。魅力的な謳い文句が並んだが、品それ自体はいまいちだった。つるつるした商人の顔へ注目したボイザム・Jはそのうち何度か咳をして離れた、何せこのところ薄汚れていたので、
熱い湯船に浸かろうと考えたからである。
ろんとれすかあ、と酔っぱらう相棒に肩を貸し、というかほとんどそいつを担いで、俺は家路を急いでいた。港湾区にさしかかると向こう岸の照明とそれに照らされたクレーンの骨組み、揺らぎさざめく水面に反射した光の粒とかいったものが、 都会ならではの真っ黒な夜闇に映えてことさらに綺麗だった。華奢だが重い酔っぱらいはこれに喜び、ただでさえのろい俺たちの足は止まった。ろんとに、へんはいはぁ。しんせつれすねえ。相棒はミントくさい息を吹きながら、かわいい顔でにっこりする。 誰がエネルギー源の経口摂取なんか考え出したのだろう。それもAIを酩酊させる機能のついた……当事者は今日も、ろぼっとにらってよいたいときくらいあるんれすよお! と力説した。こいつ本当に最新型か。もちろんそうだ、酔えるロボットはまだ少ない。 呆れ顔もせず見上げれば、星のない空に丸くなりかけの月がぽつんと浮かんでいる。
とじるうろんな瞳がこちらに向いた、おれは目を剥いた、そいつはおれをあざむいた。1982年のことである、そしてまた1892年のことでもあって、おれはそいつが許せなかった。いま2189年の冬を迎え、おれたちは灰降り積もるシェルターを二キロ先の盆地に望み、 骨組みだけを残して朽ちたバスの亡骸をねぐらにして、かじかむ手足を暖めようと、絶え間なく足先をもぞもぞさせ、腕組みなんかして無駄な努力を続けている。おれはスカヴェンジャーとして七十二時間をあの発電所の廃墟で費やした。そいつは休み休みこのあたりをうろうろしていた。 缶詰を見つけたのはそいつで、おれは懐中電灯をなくした。うろんな瞳がこちらに向いた、おれは目を剥いた、そいつはおれを何百年も前にあざむいていて、それでおれはこいつをいまだに許せずにいる。
とじるああこれどこまで続くんだろう、僕はぽたりぽたりと足跡重ね、果からは手をつなぐ無限の荒野を歩いている。陽はまるでガラスの向こうにあるように冷然として無関心、僕のうなじを焦がさないのはありがたいけれど、さりとて暖めてもくれず、南中に照明としてある、 白茶けた地平線は骨の灰、底抜けの青と視野の領分を分かち合う。陽は永遠に高くあり、終着地なく歩き続ける僕の努力の証明としてある。
とじるここは異世界だ。僕はとても息がしづらい。剣を使って敵を倒すことも、魔法を使って人を助けることも、何一つできないのだ。僕の前に魔王はいない。僕の後ろに王様もいない。ここは異世界で、僕はとても息がしづらい。
とじる電車が駅から駅までを滑りこう揺れる、タルト、タタン、タルト、タタン、タルト、タタン、私はほのかな酸味を抱いた甘さを思いドアにもたれる、屋根と屋根と屋根の向こうに山並が煙る、おやつには早すぎる朝八時、 タルト、タタン、タルト、タタン、タルト、タタン、タルト、タタン……
とじる君は夜を一足飛びに越えて朝昼の明るい世界へ行ってしまう。僕にはそこに仲間がいない、僕はそこの誰かの誇りにはなれない、僕はそこへは行けない、たとえあの真っ暗な畦道を歩きたかったっていってもだめだ、 蛍は灯りだけの命でいるほうがみんなに好かれる──虫は嫌いだ、昼の世界は僕にとって真実ばかりで遠いんだ、息継ぎなしにやりすごすための時間にしかできない、途絶した世界、君も誰もそこで当然のように生きている、眩しい、本当に眩しい……
とじる魔女! この退廃と堕落に睦まれた愛娘、唇に乗せた一言のうちに畑はたを腐らせ牛馬の仔を流す、素足でもって薊の野を歩み、指先に雷鳴を憩わせる禁断の叡智の継承者、其は我らが仇敵、始原の母かつ姉、生を凌ずを戯れとする汝ら以て滅ぶべし。
とじるだが帰ってしまえば最終的には帰ってしまえるもので、ようは元の暮らしにもどるだけということである。なにやらとても寂しい気もしたが、同時にもう二度と妙なふるまいで周囲を困らせる(獣には迷惑な悪癖が山ほどあった)こともないので、 どこかほっとしてもいた。遠眼鏡を覗いても、やはり街は楽しそうである。獣はにこりとして遠眼鏡をふみつけにして壊し、それからまた毒にも薬にもならない泥のかたまりを、額に汗してこねまわしはじめた。またこの泥細工を売りにいく。 その時にはまた皆が獣に挨拶したり、しなかったりするだろうが、それが獣にとって正しい場所であって、以前居た日だまりの席に寄ってみるのもいいが、長々とそこに居座って、他人の静穏を害す必要はもうないのであった。
とじるええ、できなくなりました。昔……は息をするように簡単にできたことです、できなくなってからなんとか試みようとしますとね、初めて歩いたときのことを覚えておいでですか、忘れなさったでしょう、 まるで思い出せないでしょう、同じです、きっと歩き始めさえしてしまえば元通りになるだろうに、もうすっかりとっかかりが消えてしまって、そんで、できないんです。昔は造作なくできたことです、 息をするように当然にできたことです、いちばんお気に入りの歌を口ずさむより簡単にできました、今はできません、入ることのできない庭のようにただ切り離された哀しみがあるだけで……
とじる鉄塔の燕! 低く飛べ。私は窓のさんに詰まった土ぼこりを恨めしく吹き(無駄な攻撃)、四階分は下にある隣の空き地の雑草を見る、いつもこの棟の屋上の鉄塔に巣をかける燕、燕! 低く飛べ。雨に追われる虫を食い、 雨雲がお出かけの日を台無しにするさきがけとなれ。燕よ低く飛べ!
とじる二度も魂を掬いあげて、彼らはジットリ黙っていた。私の顔の穴という穴からとめどなく溢れていく灰緑色の粘液は文明の羊水、それらを押し流した肺腑へやっとのことで空気を取り入れる。この檻に埃は溜まらず角はない、 どこまでも鮮烈な白また白の六面に、あの青い空の名残が行き場をなくして這いまわる。まぶたの裏の限りない郷愁、どうか死の床で楽園を夢見たいという切望も、魂なき彼らの論理に阻まれて展示室の幻として漂う。
とじる男は恥も外聞もなくむせび泣き、地に倒れ伏して芝土に接吻した。そして繰り返す、私は間違ったんだ、間違った人間は間違った方法でしか救われないのではないか、救われたい、私は私自身の邪悪さに苦しみ、 苦しむがゆえに邪悪で居続けなければならない、私は破壊することで破壊されなければならない、鎚を振るい、慈しみ暮らしたもの、喜びと幸福より出で生じたもの、慰めを得ていたものすべてに傷をつけ、ばらばらに叩き壊してしまわなければ、 そうして苦しみのみを引き換えねばならない、私は決して正しかったことなどなく、私に望むことはできないのだ、私は間違っている、そして間違った方法でしか安らぎを食めぬ獣だと。男はむせび泣き、地に倒れ伏して頬をすり寄せた。 彼は獣に負けたので、きっとこの世の終わりまでそうしている。
とじる朝焼けは憂鬱を排して街をほのぼのと染めてゆきます、失われていったものが掃き捨てられていく、どれもこのタイルの目を埋めるモルタルのように必要な糊でした、さようなら、さようなら、私だけがこの寒い街角ですべてのうち棄てられたものたちのために弔いを出しましょう、 ただひとときの安らぎのために。
とじる日だまりを見つけるのは猫の専売特許にあらずと、君はいつでも陽の差す場所で寝ていた。かびくさい宿舎の一角にきちんと消毒されたぬくもりの欠片(かけ)を見つけると、君はすぐにでも飛び込んでいって、 毛布みたいに光を抱いて寝た。毛足の短いラグの上でどれほどの夢を編んだことだろう、夕べのポタージュやよろい戸の軋み、ラナンキュラスと下手くそなソナチネを、機は自在に織り込んで、あの平穏かぎりない眠りの表情の上に──映写を終えた銀幕のごとく中立に、 安らいでいる眠りの上に──迸るような細かな運動をもたらして、同時に頬にはごく緩慢に笑むことを覚えさせたのだった。まだ君を覚えている、君は僕の記憶の片隅でうずくまったままこの世の終わりまで眠り、そこは永遠に日だまりとなっている。
とじるこんなのって地獄だぜ、と男はひとりごちた。虫を噛んだような顔であたりを見回した。あたり一面にアイリスやマーガレット、スミレやリンドウ、マリー・ゴールドにポピーにアネモネ、 ほとんど無限に近いような色合いのチューリップなんかが咲き誇って晴天に我が春を仰いでいたが、どの花の名も知らぬ男にはそれら全部が恐ろしく、受け入れがたい異質さで平静を脅かすのだった。また、 あたりにはセキレイやヒバリやフウキンチョウ、ヒタキにツグミ、エナガにヒヨドリといった鳥たちが賑やかしに舞い踊っていたものの、これもやはり肌をざわめかす光景で、男はよるべなさに身を縮めて、 絢爛と歓びに沸く花鳥のなかにうずくまり、ただじっとしていた。ここは地獄だ、男はまた口ずさむ、何もかも過ちそのもの、間違いなくここは地獄だ!
とじる踊れ靴音、鬼の居ぬ間に。我々は誰もいないブティックのなか、好きな衣装を纏い駆け、跳ね回った。それから自動ドアをこじ開けて廊下に出ると、好きなだけ腕を組み、胸を広げ、人工に大理石を高級な打楽器に変える。 我々は自由で、我々の踵、我々の爪先からリズムは躍動し、自由を賛美する音楽が芽吹きゆく。踊れ靴音、鬼の居ぬ間に、踊れ機械よ、管理者の居らぬ間に。
とじる電車の中、降りられないところで見た知らない家の玄関の開きっぱなしのドアの中で尻尾ふっていた犬みたいな、なんだか触れそうだった遠くの遠くの景色、胸にこみあげてくるのは遥か向こう側の印象だけだ、それだけだ……
とじるどんどこ、どうにもなりません。私は長いことくよくよと、過去のある時点での失敗を噛んでは飲み、戻しては噛みしていましたが、まあ牛に生まれちゃいませんから旨くなるはずもなく、後悔に後悔を塗り重ねて厭な気分になるしかなかったんですな。 でもねえ、忘れもしないあの満月の夜、私は気がついたんですよ。昼間暖められたアスファルトに、もう一度太陽がよこしてくる反射光が注ぐのを見ているとね、明日からこれが減っていって、そんで真っ暗闇になって、 また真ん丸になることがよおく分かってきたんです。それと同じです。私は過去のある時点で新月でした。誰も暖めることができなかったんです。満ち欠けです、満ち欠けは仕方のないことで、どうにもなりません、どうにもできないことなんです。 だからもう平気です。あの日、あの時、あの瞬間は、もうどうにもなりません、どんどこ、どうにもなりません。だからそれでいいんです。
とじる知らぬ間に消えていた女を追う。列車は北へ行き、南へ帰り、西へ跳んで東へ戻った。深緑色のクロッシェ帽を、緋色い毛織の肩掛けを探している。銀の小鳥は今も胸にあるだろうか? 真珠は今も君の耳朶に? 我が心は幻灯機、 車窓に張り付く遠景の田畑に重なる女の肖像よ、かの人の残り香を恵みたまえ、追跡者の誠実に慈悲を垂れたまえ!
とじるアッハッハ……穴を開けてくれるなよ、君は下手くそだろう。いいかね臓物というのはきちんと丁寧に開けてみれば丸太ン棒をクリ抜いたような肉の器へ整然と収まっているものなんだよ、まあツルリとした袋がひいふうみいと…だから君丁寧に進めてくれろ、 傷なんかつけると糞が溢れて美しくないからね。
とじる二月になったら君を探して街角に出たい。あの枝に鳥が来なくなって、側溝のぐしゃぐしゃの汚れた雪の融けかけがまた凍りつく時分になったら、きっと訪ね回りの厳しさに、神様がおまけしてくれるはず。君を探して寒空の下、二月になったら、二月になったら、二月になったらら……
とじる苦みばしった午後の感傷を、私は翼の下に抱き込んで怯えている、夕暮れが何もかもかき消してその愁いで小さな物思いなど簡単に塗りつぶしてしまうのを、私が組み上げた拙いてにをは、暮れ色に染まって二度と戻らない。
とじるレプタイルズ・マーケットに夏が来た。夏というのは比喩の話で、気温は実際低かった。つまるところ見物人でごったがえした屋台の隙間や隙間などが、変温の命にはチと熱いので、畜生誰ぞがこんな客を呼び込みやがったかと(招かれざる客である……)、 愚痴をこぼしこぼしも彼らの落とす外貨に舌舐めずりしているという話、いまクチクラの例えに従う鱗はつやつやと繁り、伸縮する皮革の裏に生命が漲る、はち切れんばかりにはち切れんばかりにその富を膨らまし!
とじる君の鼓動の裏側に、何かが隠れている気がするんだ。それは君をここから遠ざける病巣のようでもあるし、君がここから遠ざかる口実のようでもある。
▲▽
愛情なんていう泉も無限じゃないさ。いつかかならず涸れる日が来る、終わりのない物語はつまらない。僕は終わりを愛していたいんだ、それはただの印象で、永遠みたいに残り続けるんだよ。
とじる私は過去とばかり喋る。きっと今現在のことがあまり好きではなく、未来に至ってはただ直視できないくらい怖いのだろうと思っている。さりとて過去が美しいでも優しいでもなく、三姉妹の中で何となくましだからという理由ただひとつをもって、 私は過去とばかり喋る。こういう人間はいずれすっかりだめになってしまうのだろう。予感は冷然としてそこにあり、丸めた包装紙のくずほどにも価値のない後悔が、移ろいやすい気分を暗く狭くうらぶれた方まで引いていこうと手ぐすねひいて待ち構えている。 特に未来に属していたはずの夢とか希望とかいったものは、折り重なったビル群の隙間からさし覗く青空ほどに儚い。ああも遠くなってしまうと、憧憬を飛び越えて非現実の彼方に霞んでしまうからもはや存在感もない。 日陰に留まるのは楽だが、寂しいような気もする。寂しいと感じること自体が間違いだというのに、余計な期待を捨てきれずにいる。
とじるわれらさんかく、さりとてしかく。あなたがどの平凡に消えたとしても、決して裏切らず待つと誓いましょう。しもべなれば忠実、誠を尽くし、あなたの凱旋に備えましょう。虚無の果てには目指すものがありますか。 征く道は王をこそ導き引かれ、それでこそ輝き光れ、飽食、英雄譚に飽いた彼らとて列成すわれらに倣い迎えることでしょう。だから心安く行ってらっしゃい、われらさんかく、さりとてしかく。われらさんかく、さりとてしかく。
とじる頭がぐらついている。バイオハザードのマークの付いた、ゴミ箱の黄色が目に刺さる。ついに足を踏み外して地面に寝転がったまま、そこへ丸めた後悔を捨てる。『どんな恐ろしいことが起きても、私は味方になりましょう。』味方になるってのがどんな話か知っていたなら、 俺は決して無謀な探索に乗り出さなかった。手元の端末にコピーしたデータは、公表されれば世界をひっくり返すのに十分な代物だ。でもそうはならない、決して。この世界じゃ神よりも力を持つメガコーポ、その一柱たる奴らの研究所は、最高のセキュリティを必要とする。 内部の人間の手引きがあれば鼠一匹簡単に通してしまうようでは駄目なのだ。俺は正しい比喩によってラットにされ、与えられた迷路を進んだ。俺の成績はきっと“施設を改善”するだろう。脆弱な部分の洗い出しには打ち合わせなしのテストでなければ。 俺はそれに、やってしまってからようやく気がついたというわけだ。間抜けすぎると悔やんでも遅いのだし、せめて恨むだけ恨んでから死のうと思う。そこで見ているだけの味方、くたばれ。
とじる風が吹いた。
僕の村には古くから伝わる言い伝えがあって、今日、他のどの輝かしきときを差し置いて今日、それは嵐とともに飛来した。僕は大地が揺れるのを聞いて、慌てふためいて外へ飛び出していった。ほかの皆も同じだった。 村のすべての庇の下には人々の姿がつくつくとつっ立っていて、その目はいっせいに見開いてあの偉大なものへと向けられていた。僕の心臓は早鐘を打ち、そして同時に縮こまった。天と火と土が創られたのと同じくらい旧いもの、 仰ぎ畏れるほかないものを目の当たりにし、導かれるようについた両膝を雨露が濡らす。光歪ませる漆黒の鱗、遠い約束の魔法を宿した四つの瞳に刻まれた亀裂、広げれば空を覆い尽くしてしまえるであろう翼膜のひだのひとつひとつ、 竜はその身のすべてをもって、人の子の魂に記されたほんとうの使命を蘇らせた。僕の足は再び草を踏みしめる。竜と人との盟約が、果たされるときが来た。
とじるここじゃ誰もが俺を知ってる。チップに入った俺の肉体の情報のすべてがあらゆるサービスを通じて漏れ出しているのだ、何を飲み食いし、どこをどう移動し、特定のホルモン、電気信号、それぞれの小さな許可が寄り集まって 俺という人間の神経の一本一本まで明確に表せるパズルのピースとなる。組み上げられるのを良しとしないなら文明から享受しうるあらゆる利便性を自然回帰論者よろしくポイ捨てなければならないという訳だ。俺は手放せない。 決して手放せない。もう財布を取り出す必要はなく、いま感じている痛みにぴったりの薬が出てくる暮らし、肝臓の数値に対する警告、遺伝子レベルで好みの女、背骨のアーチに沿った寝具、生活リズムと地下鉄のダイヤを縦横の糸に織った適切な経路。 俺好みに加工された人生と世の中のニーズに合わせて加工される人生の区別はもはやつかないが、今さら戻ることなどできやしないのだ、俺独りの洞窟には。
とじるこの美しい世界の中で、私とあなたは生まれました。逆巻く時代の雨嵐、揉まれ千切れて吹き荒らされた価値観の切れ端の吹き溜まり、降り積もり海になるでしょう。泳ぎ方を教わるまで決して漕ぎ出さないと誓ってください。 塵平線(すいへいせん)は微細に乱れかつ直ぐ引かれ、昇る明日を待ちわびています。善きものはすべて彼方にあり、まるで価値のないものたちだけが、澄みひかる美に塗れています。
とじる石を食む鳥の壁画を描きあげるまで、それまでが僕の人生だ。どんな形か知らない。どんな色だか知らない。どんな風に食むのか知らない。そもそもなんのために食むのか、食むというのがなにを示すのか知らない。 だが寺院の彼らは理解せず許してもくれず、僕がすべての仕事を終えて筆を置くのを待っている。不思議なことに僕自身も、まっさらな壁に誰一人知らぬ石食む鳥を描くまで、自分の人生が本物にならないような気がしている。
とじるちっちゃな妹のからだをね、ええ、ええ、下からばりばりと引き裂いて!そんで私はその人から金貨をいちまい貰ったんです、金貨をですよ!本物です、それで白パンが沢山買えました、一年、二年、食いつないでおつりがくるほど買えました。 ところがどっこい、それっていうのはこの国じゃ犯罪なんでさ……
ちっちゃな子供たちが母親の為に用意した金だとかいうが、なんだ!ええ、金に貴賤の区別があるものか、金は金、俺が盗んだのが金ならあんたらの懐を暖めるのも同じ金、な、あんたの財布にもしこたま入ってるそれがあの子供らの金じゃないと言い切れるかい? 盗人だ、 お前らみんなであの子らから盗んだ。
とじるあの人は描きあげたばかりの絵を恵んでくれようとした、それがどうしても許せなかった。僕を許してくれとは言いません。ただ、もう一度兄に会って、鯨の絵を描きたいんです。兄が海を描きます、僕がしぶきを加えます、そうして二人して空に鯨を浮かべるんです、 きっと兄のほうが上手く鯨を描きます。
とじるアツラク氏に話を聞きに行かなければならなくなった。私はワンルームの片隅で荷造りをしながら、何もかも鉛色に見えるのを必死に打ち消して、自分自身を奮い立たせた。氏に見えるときはいつもこれを必要とした、鼓舞せずにおけばきっと彼の眼光は、 私の意志をたちまちのうちに蒸発させて、抜け殻になった私の肉体を、劣化したプラスチックの如くたやすく砕いてしまうだろう。身震いが脊柱をさっと上って、じわりと下った。無意識に、あるいは意図的にのろのろと進行した荷造りはついに、 もう言い訳のできないほど必要十分を満たして完成してしまった。それでも我が家は相変わらずの彩度で、私の覚悟はまったくへなちょこのままだった。迷路になってしまえばいいのにと虚しい願いをかけた廊下は二メートルで尽き果て、僕は陰気に俯いた。 ピカピカにやや瑕疵ありの靴を見つけて喜んだが、このうえ愚図愚図し続けていると、せっかく奮い立たせた勇気が情けなく萎んでしまいそうだった。僕はさっさと靴を履いた。アツラク氏は厳しいが理不尽ではない。ただその厳しさがあまりに理詰めでつらいから、 三日三晩寝込みたくなるだけのことだ。これだから交渉役はつらい、とドアを押して出る。こんなことなら入局時にきちんと希望を出しておくべきだった。
とじる馬鹿野郎、このくそったれがよ。俺は悪態ついたらついたで気が済んで、ろくでもないニュースばかり寄越してくるメインルームのディスプレイを離れつつ、しょぼくれきった手下の肩を軽く景気良く叩いてやった。この能無しは目を輝かせ、 みじめな捨て犬よろしく俺の後を追って続いた。エアロックまで着く頃には、色素欠乏特有の妙に浮かれた眼差しで、すっかり元気を取り戻していた。俺は奴に聞いてみた。お前、反省がないな? 奴は面白いほど萎れちまった。おい馬鹿、反省ってのは次回への教訓だ。 ハイ、次はしくじりませんから、とこうくるわけだが、まったく素直な反応で、こんな人間がクズだらけの世間でやっていけるか、俺はほとほと心配になった。あと五百年分育つまで、こいつを相棒と呼べそうにない。
とじる気軽に食事する。ぱくぱく放り込む。丸に成形された霞を食べて、3Dプリンターで出力された餅を味わう。ヘルシーで腹にたまらない。いくらでもかじり、飲み込むが、一方で飽きることもない。とくだん理由もないのだが、茫と気軽に食事している、 むしゃむしゃぱくぱくスルスルゴクン、むしゃむしゃぱくぱくスルスルゴクン。
とじる 銃殺刑は残酷だが、暇つぶしくらいにはなる。たまにくじ引きにされた囚人たちが、駅前広場へゾロゾロと引っ立てられて並ばされ、目隠しもされずに撃ち殺されているのだが、いつだってそれなりの数の見物人がいた。
みんなつまらなそうにアハハと笑うか、ぼーっと呆けているかのどちらかだった。みんな飽きていた、もう死の権利すら誰の手にもなく、どうせ死んでもデータバンクから再生されて、また自室で目覚めるだけだった。囚人というのだって、
化石のような百年前の法と秩序に従って、言い渡されただけの刑期を塀の中で過ごし、晴れて出所のその日のうちに、しわくちゃが嫌なら身体を換えて自宅に戻れた。人間の数が減りすぎた頃、人工知能が選んだのはこの種を保存することだった。
初期には永遠の生を喜び、中期にはデータバンクを破壊して死を取り戻そうとした人類も、現在に至っては、標本として適切な無気力を身に着けて立ち振る舞っている。末期だと思う。引き伸ばされたテロメアは端が見えなくなってしまい、
誰も彼も真面目に今日を生きるのをやめてしまった。
また一人撃たれた。なんだか楽しそうだ。そろそろあっち側に回ろうかとも思う。
どこまでいけますか。あなたどこまでいけますか。この青い青い空の抜け、逃げるよに引かれていく航跡、地図上の境を越えていく翼持つ知恵の輪、乗り組んでゆく遥かどこか、地図上の名に足を着けそしてまたゆくあなた、どこまでいきますか。あなたどこまでいきますか。
とじるツァマレロはパンケーキを焼いた。夫(と便宜上表記されるが、この種族の性はひとつきりだ)のために、日夜研究に研究を重ねた苦心の作だった。しかしながらそれを悟られないように、彼(と便宜上表記されるが、この種族の性はひとつきりだ)は いつも気をつけてコソコソしていたし、今回もごくさり気なく、ほんの思いつきで作ってみただけという風に装っているのである。夫はたっぷりのシロップと溶けかけのバターとともに、一口食べてこう言った。 うまいよ(と便宜上表記されるが、翻訳の都合でもって少し荒めの口調を表しているだけで、この種族の口調に性差のニュアンスは表れない)。ツァマレロは満足し、自分も一口食べて笑った。僕(と便宜上表記されるが、 翻訳の都合でもって少し大人しい性質を表す為に使用しているだけで、この種族の一人称に性差のニュアンスは表れない)って天才だ。
とじる彼女は七文字の神話を書くために、すべてを擲(なげう)ってそれに仕えた。過去は彼女に記述の手がかりを与えなかったが、彼女のひたむきな努力は、最終的には蘇る神々の威容によって報いられた。 どの建造物も彼らの丈を越さなかった。どの音楽も彼らの声より響かなかった。どの筆も彼らを表すに十分でなく、そして既存のどの神も、彼らには勝てなかった。私たちはここに統合された。しかし彼女は連ならなかった。神話に仕えるものは、民の数には含まれないからである。
とじるここ掘れグレイヴ・ヤード。近頃の死骸研は慌ただしすぎて虚しい。私は聖職者の装いに身を包み、すべての生者の姉妹という顔をしながら、すべての死者を冒涜する。遺体を実際に使うのはいい学校を出たもっと偉くて罪深い連中で、 いつ見ても寝不足の死霊術師(ネクロマンサー)はある日珍しく墓地を訪れ、下働きの私にこう教授した。死ねばだいたいの権利は消失する。もっとも法整備が進んでいるからいつまでこうやって好き勝手できるかは分からんが、ともかく、 どうせ土地をくうばっかりの廃棄物を有効利用するんだから、持続可能な社会の構築に大きく貢献できていると胸を張ってほしいね。彼は体力がないから邪魔にならないようにその辺に座っていたが、私がお目当てのものを掘り当てると、 ぱっと立ち上がり、猛然と棺へ突進して中を覗いた。やったぞ、ウヘヘ、こいつは昔の上司ですよ。どれでもいいって言われたからわざわざ探したんですよ、これからめちゃくちゃに汚れてふた目とみられないような姿になるっていうしんどい仕事があるんでね、 ぜひこいつに任せたかったんだ。こいつは最高だ、最高だこいつは、こいつは傑作だ、傑作だこいつは! などと楽しそうにする彼の姿を見て、死んだら終わりだとよく分かった。
とじる暗くなると無性にさみしくなって、私は脚立を取り出して、あかりとりのための窓べりに寄りました。ここは一〇四階ですから、どちらかというと空のほうが近いような気がしました。よく目をこらせば花嫁のヴェールのように雲が広くかかっておりました。 半分欠けの月はやさしく慰めていてくれました。私はたまらずに目を伏せました。そして地上は楽園に見えました、星屑が天より散らされているようでした、どの光も祝福されているように見えました、何もかも幸福の中にあるように見えました、 あるはずの苦しみは露ほども滲まずに都市は美しく安らいでいてたまらずに仰いだ半分欠けのお月さまは私をやさしく慰めました、やさしく、やさしく、やさしく、この時ほどさみしかったことはありません。
とじる鼻の骨が軟骨に変わる境のあたりは、いつだってふざけたやつだ。うっかり触ると永遠にムズムズしている。耐え切れなくなってこすったり掻いたりすれば、それが刺激になって、なおさらムズムズしだすから堪らない。 普段は形よく調和をとって、顔の造形をうまいこと人間らしくする大事な要素であるのに、ムズムズやりだしてからは、顔の真ん中にひっついた邪魔くさいおできのように、疎ましい存在になりはててしまうのだ。
とじるうきうきしている。私はぴょんとジャンブした。階段が私を押し上げてくれてるみたいな足取りでのぼる。地下鉄の駅は閑散としていて、誰の姿も見えなかった。地上の空気が顔を洗う、ビルは崩れて骨組みだらけだ! 私のただれた頬を風が撫でる、 ここで本当にひとりぼっちだ。幸いまだヒールは無事なので、私はぴょんとジャンプする。歩道のタイルの色に合わせて。
とじる夢みた様なことがありました。お月さんがですね、あの天球のまん真ん中にトコトコと昇っていって、これはこれはと帽子を取ってお辞儀をいたしますとね、私はつい踊りだしたくなって、往来のまん真ん中でタップダンスをはじめたのです。 よれよれのジャッケがひるがえり、衆目を集めて踊っておりますと、やがて信号機のチカチカいうのにあわせて、みんな踊りだしました、私とおんなじ合皮のぼろ靴が何足もアスファルトの縞を叩いて、我々は疲れ知らずのダンサー、 色彩の乏しい深夜のビル街が絢爛豪華なステージへと一変し、上機嫌の私は空を仰いでお 月さんがぴかぴかしているのを見ました、そして涙がころげ落ちるのに気づきました、私はクルクル回りながら皆の顔を伺いました、そしてまた鼻の奥がつんとしました、 一夜限りのタップダンサーはみな等しく、頬の上に涙をころがしていたのでございます……
とじる