出会いなど、出会いなど!別れの華々しさに較べればまるでお話にならない序文、別れに寄せて書き添えられるただの前書き、我々は別れのためにこそ出会い、別れのためにこそ日々を連ねてゆくのでしょう。ねえ先生、そうじゃありませんか、私は私の筆になる文字列のこのインクだまりにすら先生の面影を見るのです、やがて散るためにほころぶならば、花の命は蕾の眠りにあってこそ幸福ではなかったでしょうか、ああわが窓にふりそそげ、たった一言の弔辞を割いた幾億の言の片。
とじるせんせいさようなら、せんせいさようなら、と子供達(注:ここでは十歳以下の児童を指す)が挨拶します、でも私は先生でないので返事できません、そう謝るとみんな首をかしげます。じゃあなんて言えばいいのか、私は答えられませんでした。
とじる僕、闘うのに疲れちゃったんですよ。そんな折ですから、あの人たちの言う天国てものが大層魅力的に聞こえましてね、どうやら僕、諦めたくなっちまったんです。励まさないでください、引き止めないでください、天国てのは信じればいけるそうです。そんじゃもういきます。さよなら。
とじる幕引きならもっとうまくやればいいものを、しくじって大穴抱えて痙攣する顔の上から、助けてくれという眼差しが僕を刺してくる。いいや刺すほどの力はない、苦しみから逃げたくてすがりつくだけの視線だ。ずっと嫌味ばかりだった悪徳政治家の死に際を肴に、僕は煙草をくゆらせた。
とじる先生と呼ばれていた機械工が退職する。彼を囲んだ別れの一団が圧巻で、技術の粋を集めた多脚戦車が数十台、巧みに足を運びながら徐々に駅舎へ流れていく。彼らは人を殺すための手で先生の手を握り別れを惜しむ、最終行程で除かれる愛や親しみのすべてを尽くして。
とじる先生さようなら、あたしあなたのお人形じゃなくってよ。どんな色の絵の具であたしを表現しようとなさるのも、もうお止しになってね、絵の具なんかでもって生きているあたしの命をカンバスに閉じこめたりなんて決しておできにならないんですもの。
とじる春は出会いも別れも孕んでなにやら素敵な季節です。私ももうやめようと思います、生徒はみなみなよい人になりました。誰もが正義を貫き正義に殉じていきました。私は今日より向こう、悪となってこの世の正義とかいうものに楯突いてみようと思うのです。
とじるあくせくしても仕方ないので、私は道祖神の隣に腰かけて前の道が開くのを待った。泥だらけの人足が悪態混じりに岩を運ぶが、まだまだ道は塞がっている。汽車の時間には間に合わないだろう。見送りをさっき見知った神に託して、台風一過の空を仰ぐ。
とじるあれ、先生見当たりませんね。だって恋人ができましたから。へえそうなんですか、でもそれがどう関わります。あの人の動機は愛情への飢餓的欲求でしたから、描いたとしても花とか、空でしょうね。じゃあもうあの真っ暗な穴ぼこの絵は描かないんですか。ええ。それは残念ですね……
とじるじゃこらんたんに黄色の灯を点し、じゃこらんたんに黄色の灯を点し、隣家の兄さんと近所を回る。言葉を交わしたこともないその人が教師となって、いい菓子をくれる家を指差し歩く。飴玉やチョコレートやマシュマロでポケットまでいっぱいにした別れ際、私はとかく寂しかった。
とじるここで先生とか呼ばれていた彼は、やむなく僻地へ出ることになった。二月に塗りこめられた寒空が、もうそろ春めきかけの三月の空に引っ掛かっていて、今にも凍えだしそうな、いやな風が吹いていた。見送りのないよう早くに出てきたけれど、なければないで何やら無性に寂しかった。
とじる何においても教師というものはいて、私の教師は女だった。彼女が私の母だったことはないが、私は彼女の息子だった。この国の狙撃手はみな彼女の息子だった。私は親を売る末の子となろう、針の穴にも弾道を通し、これを巣立ちのさえずりとする。
とじる私たちは一輪ずつ別れの花を用意した。別れの言葉に囲まれて先生はとても綺麗で、私たち誰とも同じ顔をしていた。未来を葬るような錯覚よ、感傷よ!とにもかくにも先生さようなら、私はアザミを入れた、誰もが私の顔を見て、心を見た。
とじるきみは尊大な羞恥心などと他人の言葉を借りて格好つけてはいるが、そんな風につくろったところで、少しでも上等そうに見せかけることができるとでも思ったんだろうか? 実際のところ、きみを形容する言葉はたった一つ、「負け犬」だけなのだ。
とじる電車がやってきた。 電車は決然とホームへ滑り込み、レールの軋みひとつで、白線の外側に積もっていた後悔や、ためらいや、煮えきらない別れの言葉、倦怠、青年の胸を膨らましていた希望、裏切りの気だるさなんかを一ぺんに押し流してしまった。開いたドアの前に引かれたほんの数センチ幅の奈落を跨ぐと、冷房のせっせと冷やしたかび臭い空気に、汗ばんだ皮膚が浸って涼しくなる。自分の席を選んで落ち着くと、窓越しに見えるねずみ色の不格好な箱の群れが、我こそ汝が故郷と厚かましく叫んでいる。「少しは名残を惜しまないかい、ええ、少しは知らない土地を不安がらないかい、この恩知らず。」地べたに貼り付いたトタン屋根のモザイクが、無機の地衣類から、不意に両親の顔となって口をきく。厭な気分になる。しかし重たい車輛が動き出してしまえば、未練がましく追いすがってくる廃屋じみた箱の群れも、地平線の煙るなかにその辺縁を溶かして見えなくなる。夜がくる頃には、 距離が自分を運び去り、この土地は過去に変わっている。
とじるただならぬ気配に耳をそばだてていると、向こうの街で人の死ぬ音が、錆の浮いたトタンの間から響いてまいります。疫病でも流行ったかしらと首をのばしてみても、目に入るのはやはり、バラックの影の凹凸を真闇に塗りつぶしている、光の塊でしかないのであります。
とじる私が見捨ててきた町から来た人間は、さっきもどしたばかりの吐瀉物を、さじですくって口に運んでいる。いまに夜のとばりが下りて、このあわれな地獄を覆い隠してくれるに違いない。ここでは何もかも正しく美しい、ここでは何もかも等しく尊い。王と乞食が並んで蚤に血をささげ、美女と野獣が手をとりあって油の浮いた水をすする、そういう所に私は逃げてきたのだった。
とじる隣人が逃げたのを知り、向かいに住む女は空き家の玄関先に唾を吐いた。とはいえほとんどくず山のようなこのスラムでは、建て増しされにされきった住宅はすべて同じ一軒で、自分の家なのだった。彼女が薄汚れたトタンの裏に姿を消すのを確認してから、私も中へ戻った。部屋は常に薄暗い。
とじる誰かが隣にいたときのことを思い出しながら、開け放った窓辺にもたれて口笛を吹いている。下の路地から、夕日の投げ掛ける橙で道のレンガに融けてしまった浮浪者が、へったくそ、と言った。僕は気にしなかった。太陽が4度傾くたびに、屋根瓦のモザイクが色を失って、街が死んでゆく。
とじるあの真面目くさった役立たずのスクラップがようやっとそこそこいかす返答をよこしてきた、その時にはもう黄昏で、おれは柄にもなく不安になって、すれ違う人間の身体が歯車仕掛けでないだろうかと下らない心配ばかりして気もそぞろだった。
とじる4時を過ぎた陽のひかりは、光量それ自体は大したことないが、あまりにも波長が感傷的なので、この街のいちばん小さな通りの上でも、家々が途方に暮れていた。100年の風雨に耐えてきた漆喰はかたくなすぎて、人間の郷愁には耐えられない。
とじる外にいた頃は地位と名誉を携えて、輝くばかりの生を歩んできた偉大な個人が、ここではただ集団となって、上も下も垂れ流しになっている。統計に変じてしまうヒトの群れに、いたずらに高い窓から、縞模様の黄昏が降りかかる。
とじる血の流れた日の夕暮れにつきものの、涙がこぼれそうな沈黙を呼吸している。街が喪に服すとき、革靴の先をほんの少しだけ曇らせる取るに足らない汚れが、目のしみる程気にかかり、家のない靴磨きを探して、大通りを進むささやかな葬列に加わる。流れた血が誰のものか、ひとりも知らない葬列。
とじる以前はあの丘の上の教会がひどく恐ろしく見えたものだった。ちょうど今くらいの黄昏時になると、夕日を背にした教会の鐘楼には悪魔がうずくまっているような気がして、それが通りまで下りてくる想像を何べんしたかわからない。街にもあれから随分人が増えて、悪魔も死んでしまったらしい。
とじる百貨店の残骸から掘り出した缶詰を持って、崩れかけの階段をどうにかよじ登り、屋上へ出てみると、広告塔が黄昏に骨組みをさらして、がらんどうの悲しみに打ちひしがれていた。僕は塩からい鰯を噛みながら、あれにもう一度広告の貼られる架空の未来について、只ぼんやり考えている。
とじる電灯の根元で男が死んでいる。時計は5時を示しているのに、早くも忍び込んだ夜が昼を腐食して、痛んだアスファルトと浮浪者の死骸、そのどちらにも平等に蜂蜜色の錆をあたえていた。それらが時とともに灰色にこわばると、切れかけの電灯が、不平たらしくまたたきはじめるのだ。
とじるあんなに溌剌としていた太陽が、街のぼやけた外縁に沈んでゆく所をまの当たりにして、私はひどく感情的になっている。故郷に捨ててきた親兄弟の痩せた顔が、工場の上に溜まった煙の陰影に重なり、私は都会の凹凸の隙間で、出立以来心臓に深く刺さったままの釘を思い出す。
とじる急な勾配に息を切らしていると、ふと顔を向けた右手のほうに、崖を這い上るような街並みのモザイク模様が、みな一様に、黄昏に染まっているのが目に入る。川向こうの琥珀をつかって精巧な複製を造ったら面白かろう、疲労に任せて意味のないことを考える。坂道は未だ尽きない。
とじる街は黄昏れている。はるかにそびえる山々の、鋸歯状の稜線の向こう側から、予感を伴って投げかけられる夕暮れの光線は、揺るぎなく進む月日と違わぬ残酷さでもって街を立ち枯れさせる。家をなくした子供の影が、ぶらんこに挟まってのびてゆく。
とじる街の日が暮れている。僕は途方に暮れている。夕焼けがあんなに赤いのは、この街では明日の雨のしるしだから、今夜じゅうに濡れない場所を見つけないといけない。ビルの骨組みがジャングルジムみたいに見えている。そのあちこちから垂れ下がる、一昨日の雨だれが染めたしみだらけのぼろきれの群れ。
とじる日は落ちた。山向こうの静けさの中で黄昏に沈む故郷を夢想する。目の前の低いフェンスを越えることは、いまではこの世のどんなことよりも難しい。幼少期を過ごしたなつかしい家の年ふりた壁が黄金に変わるとき、高貴な農夫の古木のような手のなかに、この世のすべてのさいわいが満ちる。
とじる日は落ちた。山向こうの静けさの中で黄昏に沈む故郷を夢想する。目の前の低いフェンスを越えることは、いまではこの世のどんなことよりも難しい。幼少期を過ごしたなつかしい家の年ふりた壁が黄金に変わるとき、高貴な農夫の古木のような手のなかに、この世のすべてのさいわいが満ちる。
とじる観測塔から宇宙をのぞくと、地球では太陽だったものが、果ての果てできらめく砂粒になっていた。あの老いた火の玉が変わらずに街へ黄昏をもたらすことを信仰しながら、ふたつの太陽の照らす、終わらない昼に耐えている。
とじる今という一瞬一瞬が途切れることなく過去へと変えられていくのが、一番よくわかる点に立っています。西には仲間に取り残された雲のかけらが、山の上のお屋敷のあたりで所在なく浮かびつくしております。夕陽に街が沈んでも、あのお屋敷だけは、時のない場所にじっとそびえているのです。
とじる僕の生まれた街が喪に服している。とおい昔からこの街は、昼が終わるたび、ごくおごそかなこの祈りを、がらんどうになった摩天楼に捧いでいた。死にゆく昼の放つ最後の光を背に、地平線に文明の死骸が交差して描く輪郭は、歪なとげこそ持つものの、子犬がうずくまる姿に、どこか似ている。
とじる僕はささくれた窓枠にもたれて、針金のコカトリスに愛を学んでいた。開いたままの本の喉元に、日だまりが溶けてながれてゆきそうな、何気ない昼だった。そのくせ数分もたたずに、あの夕暮れの感傷に駆逐されて、あとかたもなく崩れ去ってしまうはずの昼だった。
とじる夢の間に間に君の影ばかり追っております。因果なもので、この道程は敵を多く作りますが、やはり止すくらいなら自死するほうがどれだけ容易いか知れない位のものであります。それに君の影はじきに伸びて、ビル街のあくせくした輪郭と、見分けがつかなくなってしまうことでしょう。
とじる縞模様の夕陽が、灰色の冷たい床の上で四角に凝っていた。囚人は四辺の比と鐘の音に訪れる秋を予感して、瞼の裏側に思い出を遊ばせる。黄金の海原はたゆまぬ日々の営みに実り、囚人の曲がった脚と、ざらざらした手のひらを祝福したものだった……
とじるばかにセンチメンタルな夕べが、影を伸ばして暮れていく。この街の大通りは一直線に黄泉の国へとはしごをかける。隙間なく並ぶ角ばった家々の集塊を、時計台から二つに割って、水平線の輝くのが開け放たれた門の向こうにはっきりと見え、本当の富はあの世にしかないと分かる。
とじるきみはひとりじゃないとかいう呪いをかけられてもう数年になりますが、救われるのはいつだってたったひとり、誰ぞの群衆に混じった時点で我は我々となりその権利を喪失するのであります。いま夕まぐれに縄目をつくるべく、皆の轍に沿って一歩踏み出す長い影であります。
とじる人間をやる気がないのなら止めてしまえと言われました。なるほど学もなく、畜生同然の身の上であります。いや、このように人の子として生まれておきながらいわゆる半人のまま只漫然と時を食らっている私ですから、 同然などと言えば畜生に失礼であります。親に申し訳が立たず、かといって己の足でも立てず、いっそ死んでしまおうと思っても矢っ張り死ぬのは怖い、 人間を止めろと言われたところで、止めかたが分からないのですから、 このまま続けていくより外ありません。案外人と畜生の間に位置しているのが人間かもしれません。そうやって誤魔化しているうちまた、街は黄昏れてゆきます。
とじる「じゃあお願いネ」と銀杏返しが雑踏に消える。ウメ子をわがまま娘に仕立てたのは親の金じゃなかろうか。とはいえ受け取ってしまえは共犯、ぞっとしない仕事の後の気の早い一杯や都電の寄越す反射光、すべて事もなしと染まる街並みを思えば末節は捨て置いて出掛ける気になる。
とじる地上360メートル、目覚めた瞬間に忘れてしまった夢の味のする夕方の空気、馬車に牽かれて15度の高さまで下った火の玉が、はるかに霞む街の凹凸の輪郭から寄越してくる光は、何だかひどく瞼の裏に染みる。
とじる私はこの街がどんな名前で呼ばれていたか知らない。市民ホールはやたらと立派で名前のない都市を、やがて注がれた夜が満たすだろう、あの恒星だけは変わらずに黄昏をもたらして沈んでいく、人の世のどんな記憶が忘却の奈落へ流れ去っても。
とじる君はごぼごぼときっかり二回だけ血のあぶくを溢した。季節は雨、ゼリーみたいになったぬるい空気がみんなを溺らしてしまいそうな夕方、 しなびたレモンの皮、手首に浮いた骨のかたちは焼き菓子の膨らみ、同じくらいでこぼこのアスファルトを叩く雨、君が待ち望んでいた色は、雨に煙ってうずくまる街の、どこにもありはしなかった。
とじる西に星が瞬いている。私はあのあたりから来た、あの光が恵みを与う星から来た、そして発着場で気のふれた男がすがりつく、あれはあなたの咎だ、あれはあなたの咎だ!私があの炉端に置いてきた罪を知るよしもない男がこの星系でたったひとり、咎人の居どころを知っているのだ、いま長靴の爪先を汚す涙。
「あなたの咎」
とじるラジオが聞き覚えのある曲を吐き出しはじめ、男はこめかみの裏で甘い頭痛をちりちり舐めた。安アパートの外は雨だが、薄いはずの壁もガラスも雨だれのさえずりを平然と遮る。曲が進むにつれて無彩色の部屋は色づき、もうどこにも居ない女が踊り出す。夢を見つづける翠の瞳は、男をただただ憂鬱にする。
「クラシックのBGM」
とじる気象装置が壊れてコロニーは雨つづきになった。悪いことにみんな雨が嫌いだった。外で降る雨は毒だらけ、内で降る雨はそうでもないが、毒づく人はいくらでもいた。畜生また雨か、いつになったら止むんだよ、と恨めしげに眺める先にいる技師は、雨が好きなので装置を直しやがらないんだ。
「止まない雨」
とじる女、羊を贄にしたのは誰ですか、と群衆に問うた。群衆答えて曰く、それは我々の前の前にここで群衆となっていた者達です。これは質問者を満足させない。女が羊に何故を結びつけるのを遮り群衆はこう諭す、羊はかわいいですから。女、これを聞き俄に納得したらしく、膝をつき、大人しく首を落とされる。
「羊」
とじるあんたのサスペンダーの留め具を外すまでに、私いくつになっちゃうかしら、ホホホ、などと彼女が口許を綻ばすのを、僕は暢気に眺めていた。あれも秋口にぶら下がる暮れ六つ、君は狐に見えていた。今は冬を一足跳びに越えて花筵、花の化生は愛嬌を咲かせ、留め具は猶も健在なり。
「サスペンダーの留め具」
とじる「ついにやらかしたなあ」とNはラジオを消した。
「参っちまうなあ」と俺はビールを持ってきた。
二人で同時に栓を抜く。屋上のへりに腰かけていると、下の騒ぎは別の世界の出来事になった。あれが来るまでまだしばらくある、どうせ助からないならここで思い出話でもしようや。
「しばらく」
とじる防波堤を越えられないすべての死者が海より出でて砂を掻く。私はそれを見ることの叶わぬ位置で空ばかり眺める。蘇りは白ぶくれの彼らを幸福にはしない。海鳴りが聞こえる。私は車椅子を押してもらい、手を伸ばして防波堤に虚しく触れる。
「防波堤」
とじるあなたは縁側に居ましたよね。たしか、あの場所で私とあなたはおよそ建設的とは言いがたい会話を交わし、あなたは私の淹れたお茶を熱そうに啜りましたね。もう縁側はありません。お茶も、お庭も燃えましたが、私ひとりが残っています。博士、私ひとりがここに残されています。
「縁側」
とじるあの人の庭で尋ねられては答えちゃならぬと申しますから、私は黙っておりました。お前はだれ。お前はだれ。あの人の庭からひとつ、石のかけらでも持ち帰ることができたなら、田畑は糧に満ちるのですが、あの人の問う声は胸の裂けるほど切ないのです、ですからいま私はここで陽を受ける私は花びら掲げ……
「くちなしの花」
とじる暁というには烈しさを欠き、曙というにはまどろみを忘れたこの景色のことを果たしてなんと呼びましょう。朝焼けでございます。あの青ざめた薄紅を、あるいは薔薇染む白藍をもって夜の大伽藍を塗り替えゆく新しい日のすがた、どうか目を開いておいでなさい、あなたがその肺腑をもって死と生を引き換えにするかぎり、この星に新しい日は来るのです!
「朝焼け」
とじるクリアランス・セール、在庫一掃、俺は型落ち、それでも桁は無駄にある、ゼロを消し、ゼロを消ししても俺にゃ買い手がつかぬ、セールで一掃できなかった在庫の行き先は知れている、ゼロを消す、ゼロを消しして俺の命が尽きるまでを数える。
「クリアランス」
とじる月が潮騒に口づけし、おやつの時間が近くなる。水平線はなだらかで船影も見当たらず、浜は透明な波と遊ぶ。三分が経ち、今日のおやつを口に放り込む。シトラス・タブレットは恋の味、海の裾へ浸した足の指の間で砂が崩れていくみたいに、いつかの思い出がひとつ消えた。
「シトラスタブレット」
とじる真実の愛の名のもとに指輪を交わし、キスをして今の夫と結ばれた。永遠の愛の廉価版、それでも神様が作ったのと同じ愛、私は幸せで悔いはない。言い切れるのはきっといつか彼のバッテリーが製造中止になったとき、この世の終わりみたいに泣くだろうから。
「ジェネリック」
とじるあの人がどうして落ちていったか分からないんですよ。自殺じゃありませんね、なにしろ上は楽園だっていうじゃないですか。そんなら殺人かって、そりゃ違いますね、どうやら上は楽園だっていうじゃないですか。じゃあ事故にするよりほかないんですが、するとあの人がどうして墜ちていったか分からなくなるんです、だって上は楽園なんですよ。
「転落事故」
とじる「君、恋と愛のどちらを上に置く」
「そりゃあ恋でしょうよ」「なんでまたそんな!」
「恋は水蜜桃です。愛はじゃがいもとか、やむいもとか、とにかく芋の類いですよ」「でも愛は真心なんだよ」
「あなたは愛が大事なんでしょうけど、それはあなたの話でしょう、押し付けないで頂戴な」「ううん」
「恋と愛」
とじる一致団結!の横断幕は七か国語で書いてある。隣のやつの肌は青色で、向かいのやつの腕は四本、キャンプの皆は思い思いの姿かたちで、今日で終わりだな、なんて話し合う。俺は煙草を吸いながら、少し前まで憎悪と嫌悪の対象だった仲間を、明日からまたどうやって憎めばいいか分からなくなっている。
「今日の味方は明日の敵」
とじる夜半の寝覚めは肌寒く、余韻に沈む街は遠い。薄目を開いた空と話せば、窓は宇宙の最果て、ここより内をふる郷にする。もう誰の上着もないフローリングの床の板目に夜が立ちのぼり、一人きりの眠りに誘う。
「夜半の月」
とじる夏の思い出を作るのに必死で、つい知覚過敏の歯を裏切ってあの十字路のワゴンで買う、カップに三段乗せたやつを買う、レモン、メロン、それからラムネ。入道雲が街を見下ろし伸びあがる青すぎた空と日焼けの跡をなぞって下る汗の滴、サンダルのかかとがアスファルトで焦げ、ジェラートが溶ける。
「ジェラート」
とじる寮の部屋の前が共用のごみ箱だ。破れた夢を拾うのが好きだ。思いの限りを尽くして書かれた誠実な言葉の並びがジュースの飲み残しで滲んでいると悲しい。誰の想いだろう、報われなかった恋の乾ききった肉をかじる。
「捨てられたラブレター」
とじる一歩踏めば舞い立つ、また一歩踏み込めば舞い立つ、湖の花の命は蝶の腹を膨らまし繋ぐ、昼夜の狭間で鏡面へ浸る裸足に群がる鱗は白銀、みな彼の名のもとにある。あの男、魔法使い、彼の庭に権力の二文字はなく、意思は限りなく薄く全として流れる。
「あの男」
とじるバスが来るのを待っている。諦めた絵のような靄ついた白の中から現れて、私をどこかへ連れていくバスである。車体はくすんだクリーム色をしていて、シートは臙脂、内装は飴色のニスを塗りこんだ板張りで、 運転手は振り返らずまた誰にも微笑まない。五里先まで煙る霧の中、バスが来るのを待っている。
「霧の中」
とじる家族が盛大に祝ってくれた首席記念のパーティからへとへとで抜け出して、廊下の暗がりでほっとしていると、僕の機械人形が口笛吹き吹き現れて、お前が本当に欲しかったものをやるよ、と大きな包みをくれた。それから僕ごと抱き締めて、おめでとう、あなたを誇りに思います。そんな風に言って笑うものだから、こんなのいらないやい、の代わりに腕を回して、そのまましばらくじっとしていた。
「ぬいぐるみ」
とじるコンビニの雑誌コーナー、興味もない雑学の記事を読んだふりで、雑踏の中に君を探す。雑音と雑談と雑役雑務の雑多な混雑に、君はいま現れて雑居ビルへと消えていく。僕は満足し棚へ本を戻す、きっちりと位置を整えて。
「雑踏」
とじるオフェリヤを流すのにぴったりの川を見つけましたから、今朝がた捕まえてきて浮かべました。花を散らしてやるのを忘れませんでしたよ、水は清らで冷たくて、蛇の涙よりほろ苦い。もっとも、こちとら蛇の涙の味なんか知りゃしませんけどね……ともかく、いい具合だったんです、娘さんにさよならを!
「川と水」
とじる革命は成らず、首謀者はここにいる。拷問は醜く痕を残したが、凍りつく房の内にあって彼は火を絶やさずにそこにあった。死を恐れぬし権力を畏れぬと高らかに謳う囚われ人の桎梏の前に私は膝を折る、私は権力を畏れ、お前の死を恐れるのだ。石床濡らす仇敵の姿を、私の破滅は憐れみをもって眺める。
「オム・ファタール」
とじる