僕の目はいつの間にやら、傍らに座す女の、形のよいまみえの、優雅な鼻梁の、微笑む唇の、描く曲線を追っている。最後に、乳を溶かした様に白みがかった、瞳の柔らかな鳶色に捕まえられて暫し目を留めていると、 彼女の喉笛あたりからヒュウと空気が漏れて、かわいいひと、と僕に呼び掛ける声が聞こえた。無論幻聴である。彼女と向き合っていると、崩れた柱からのぞく錆まみれの鉄骨や、のべつまくなしに吹き込んでくる寒風や、 砂埃の厚く堆積した色褪せたカウチなどといったつまらない現はなりをひそめて、ただ夢だけが、打ちのめされて衰弱しきった知覚を心地好く揺さぶるのである。
 こんな事は人間性によくないからもう止そう、と、もう何遍思ったか分からない。この稀有な個体、他の六十億のうろつき回る死者どもが、渇きにあえぎ、生者の血肉をもって喉をうるおす一方で、牙を剥くこともなければ、爪を立てることもなく、 緩やかに腐りゆくうつくしい死骸。この世のいかなる無情も、ここでこうして彼女と向い合っている間だけは、なんと小さく感じられることだろう。
 然しすこぶる不健全なのだ、僕がどれほどこのささやかな平穏を愛そうと、所詮は妄想であり、セルロイド人形とままごとに興じる幼児と何ら相違はないのである。などと考えているうちに、やはりこのあたりで終わらせる、それが良かろうと思われてくる。 それで、しなやかさを失いつつある彼女の首に手をかけて、ありったけ力を込めようとするのだが、いくらも込めぬうちに掌の下で破壊されつつある肉体の脆さ、その事実に慄然として、 彼女にかけた、あるいはかけようとした手をおもむろに引っ込め、所在なくぶらぶらさせたきり、そのまま止めにしてしまう。

 僕は君を愛してなどいないよ、弄んでいるのだ、魂の不在につけこんで、弄んでいるだけだ。などと口走った言い訳は、ひどく情けない調子を帯びて、宙ぶらりんの両手に落ちかかる。また彼女を殺し損ねた。