針金工場

 私が針金工場で働いていた時分の話をしましょう。丁度子の刻丑の刻、夜も十分に更けて、市井の人々が安らかな(あるいは呪われた……彼らの魂に安らぎあれ!)眠りにたゆたう頃あいに、針金工場の奴隷頭は目を覚まします。この奴隷頭というのが私であります。予め早寝をしているもので、家を出る刻限が迫れば自然と覚醒いたしますから、眠い目をこすりこすり、すっかりぬくまった寝床から這い出して、ごわごわした鈍色の作業服に着替えたら、同じ色のズックを履いて出かけます。持ち物は何にも要りませんから、手ぶらで工場に向かいます。愉快な気分ですよ、皆さん、足音だけが街のひんやりした死骸の間を転げていくのです。月明かりだけがアスファルトの凹凸のひとつひとつを、ぽっかり浮かび上がらせて、そこにマンホールの陰気な顔が、その時ばかりは照り輝いて、神々しいまでの様子なのです。私だけが生きたまま、石棺のあいだで乾いた空気を吸い、湿った息を吐き、重力とエントロピイに逆らうことを許されているのです。分裂を繰り返したような住宅の並びを抜けると、ショッピング・センターの毒気の抜けた寝顔を、聖ニコライ堂の鐘楼が優しく見守っています。目の前に軽薄なパステルカラーが陣取って、いくぶん威厳を損なわれたことなど、この年寄りの教会は、まったく気にも留めていないのであります。百年も前から建っているんですから、貫禄が違います。百より少なかったでしょうか、まあ兎に角、私の生まれる前から鐘を鳴らしています。さて、この徳の高いフレスコ画を後にして、車線が七つもある交差点を東へ折れますと、歩道の脇に、地下道への入り口が、呑気にあくびをしておりますから、これを下っていきます。私はこの階段と、地下道とが気に食わないのですが……。目指す工場が地下にあるんだから、文句を言ったところで仕様がありません。地下鉄の改札から流れてきたズタ袋が残した吐瀉物や、どこぞで寝起きする浮浪者の小便の臭いが、時間の経過と雨に薄められて、水っぽくなったやつが、こもりきっています。タイルの黄色は、臭いを生み出しているろくでもないやつらの、やにくさい歯の黄色に似ています。まっすぐに連なった蛍光灯は、電車の流れる音に合わせてチラチラしています。私の影法師がどちらを向いたらいいか迷ってフラフラしているうちに、右手の壁面に、金属板と、胸の高さの出っ張りと、私の背丈とほんの十センチくらいしか変わらない高さの、長方形が現れます。全てごま豆腐のようなとろみのある灰色です。順を追って一言で説明しますと、「津戸茂田第十三針金工場」の表示と、指紋認証の機械と、ノブも引き手もない自動扉であります。ツドモダ、というのは会長の苗字です。末端も末端の私などはお目にかかったことすらありませんが、話す機会があったとて、上手に発音できませんで、礼を失する羽目になるだけでしょうから、むしろそんな機会のないことを、ありがたく思っているくらいです。私が出っ張りの表面のてかてかした四角(どことなく甲虫に似ていてぞっとします)に親指を押し付けると、扉がザーと音を立ててスライドし、ごま豆腐の灰色に、暗闇の黒がとってかわります。さて、こういうわけで、ついに工場へ足を踏み入れることになるわけです。
 入ってすぐのところの壁を手のひらで撫で回すと、スイッチがあります。私はいつまで経っても、こいつがどこにあるやら、全く覚える気配がなく、ですから毎回、手さぐりで探すよりほかないのです。スイッチを入れてやると、照明が入り口のほうから順ぐりに点灯して、工場が目を覚まします。皆さんは針金工場の腹の中などご覧になったことはないでしょうから、一応申し上げますと、この段階で私が居るのは、いわば前室というべきもので、そうですね、工場よりも、冷凍事業団の倉庫……人間を筒の中で冷凍してしまうやつですね、あれを思い浮かべて頂ければ、私が目にしていたのと、さほど変わらぬ景色になります。銀色の円筒が、食料品店の棚のスープ缶よろしく並んでいるのを、まずはざっと点検して歩きます。筒に付いた覗き窓から中を見て、我々の機械人形がおとなしく眠っているか、休息姿勢に異常はないか(たとえば、スリープモードで目を見開いているのは異常です)、なくなっているものはいないか、などを確認するのです。私が工場にいた数年間で、本社の不寝番へ電話を入れなければならなかったのはたったの二回で、そのうちひとつは先ほど少し触れましたが、目を見開いて、あとから聞いたところによると、何か思い悩むことでもあったのか、ロジック・サーキットが焼き切れてしまったということでした。もうひとつは、思い出すだけでもぞっとするのですが、覗き窓に貼り付いて、私が驚いているのを眺めてニヤニヤしているのです。ニヤニヤしているだけならまだしも、心底楽しそうに、何かを繰り返し呟いているのです。それはこんなような文句でした……「それ、お出でなすったぞ。それ、お出でなすったぞ。針金を作りに、歯車を動かしに、スイッチを押して、ねずみがお出でなすったぞ……」これは、技術研の人間が血相を変えて飛んできて、即座に廃棄措置をとりました。ごく稀にはこんなことがありましたけれど、概ね退屈な仕事です。点検が済んだら、配電盤のレバーを下げて、アンドロイドを起こすだけです。一斉に金属筒に切れ目が入り、そこが開いて、彼らは出てきます。髪も眉も衣服もない、クリーム色でつるりとした質感の、関節ごとに隙間のあいた、まさに人形です。体つきも顔も左右が完全な対称で、男のようでも、女のようでもありました。レバーを下げて開くのは筒だけではなく、この部屋の奥にある、両開きの戸もズルズル音を立てて開きます。この向こうが針金工場の、工場部分になります。私は彼らが二列になって工場のほうへ行くのを、遠足に行く子どもたちを見送る校長先生の気分で見送ってから、エレベーターを使って監督室まで行くのです。
 監督室には工場全体を見渡せる窓があります。そこから見える工場は、窓枠に切り取られて、いかにもおもちゃじみています。面白いものですよ。アンドロイドが角張った金属の箱や管の間をウロウロしています。あっちでは引き伸ばし、こっちではこね回し、とても私ごときの言葉では言い表せないおかしさなのです。針金がどうやって作られるか、ご興味のある方もおられるでしょうが、いかんせん教養を欠いた人間であります、何も言えません。時折重いものを持っているやつが、ひどく恨みがましい目で私を睨めつけているのに気づきます。あちらでサボタージュの芽が綻びかけるのを見つければ電撃を加えます。反抗的な奴隷には鞭をくれてやれ、というのが監督室の標語でありますから、私も心を傷めずに、彼らの聖者のような横顔が苦痛に歯をむき出して、駄々っ子のように床に転がり、足をばたつかせるのを眺めていることができます。一度でも見てご覧なさい、人形が視界いっぱいにコチャコチャと何かしらの活動をしている楽しい流れの中で、時折、池に石を投げ込んだ時のように静かに、かつ厳粛に広がっていく人間性の波、染みひとつないセラミックとシリコンの構造物が、有機的な汚らわしさに包まれるあの一瞬。突発的に発生したある一点を中心に、同心円上に広がった憎悪や不満がいっぺんに私に向いてから、また白紙へ返っていくのです。タブラ・ラサ……